躑躅ヶ崎館での会合を終えて半年程経った日のこと。千代は再び信玄に呼ばれた。

「これより長尾が治める越後へと向かってくれ。近々、景虎といい加減に決着を付ける故、内情を出来る限り探って欲しい」

 信頼を通じずに初めて密書で躑躅ヶ崎に呼び出され、信玄より下された指示だった。千代はすぐに支度を整えると信頼に委細を説明して北へと向かった。

 望月の地から信州の勾配が激しい山道を歩き、越後上杉家の本拠地、春日山に着くまで一週間程かかった。北条家に関東を追われた上杉憲政より関東管領の官職を受け継いだ長尾景虎が上杉の姓を授かり、越後を統治している。信玄は未だに豪族上がりの長尾と呼んでいるが、そこは下らない意地だと千代は割り切っている。

 ひとまず適当な宿を見つけ、足を落ち着かせる。疲れたと息を吐くと不意に、信頼のことが思い浮かんだ。信頼は千代から話を聞くと少し残念そうに笑っていた。てっきり、喜ぶものだと思っていたが、少し拍子抜けした。

「精々励むのだな」

 それだけ言うと信頼は養子の件を自身からも言えるだけ言ってみると伝えて寝込んでしまった。千代は間者故に人の感情や嘘を見抜く心得を持っている。信頼の浮かべていた笑みは無理に作られたもので、その裏に隠された感情をはっきりと見てしまった。否、信頼のは誰にでも分かる偽りの笑みだ。

 早く今回の任務を終えなければと言い聞かせる。養子の件について家臣達を説得する役目を半ば押し付けたことに千代も罪悪感を覚えている。一方、武田が上杉に躓くような真似があっては一族の望月家にも累が及ぶ。武田は既に上杉と三度ぶつかっているが、未だに睨み合うだけでまともにぶつかったことが無い。しかし、千代の見た限り、信玄はかなり上杉との決着に執着している様子だった。

 起き上がり、気持ちを入れ直した千代は荷を整理し終えると外に出る。表で掃除をしていた宿屋の主に出掛けると伝え、大きな道へと進む。上杉家の本拠、春日山城は平城の躑躅ヶ崎館と違い山城になっていて、城下町は山の麓にある。

 顔を上げると活気ある城下町の道が山に向かって上っているのが分かった。真っ直ぐ伸びている道は先が見えない程、長く続いている。

「おい」

 にぎわっていると他人事のように思いながら歩いていたところを背後から呼び止められた。振り返るといかにも高圧的そうな兵が二人立っている。舌打ちしたい気持ちを押さえながら平静を装って口を開く。

「何か?」

「見かけぬ顔だが、何用でこの地に来た?」

「この春日山城が城下におられる遠戚が危篤とお聞き致しまして……」

「ふむ……ならば、共に探そうか?」

「いえ。店構えも場所も承知でございます故」

 一瞬、身構えたが、努めて穏やかな声で言うと兵達は温和な笑みを浮かべた。

「……左様か。しからば御免」

 千代は去って行く兵達の背中を見ながら小さく息を呑んだ。強い軍を作る為に必要なことの一つに下々にまで規律が行き届いていることがある。兵達の表情を伺っていたが、特に劣情を抱いている訳でもなく、本当に手伝ってやろうという気持ちが見て取れた。

 上杉輝虎という人物は大物かもしれない。千代は何となくそう思い、すぐに頭を振った。所詮は上辺だけだ。生涯不犯を宣言しているらしいが、表面的なことに過ぎない。それが男である。先程の者達だって時が経てば気が変わって千代を裏路地に連れ込んでいたかもしれない。

 一息つく為、千代は適当な茶屋を見つけると団子を注文した。来るまでの間、行き交う人々の顔を観察する。何か邪な感情を抱いている者はいない。統治が上手くいっているということだ。それだけで上杉輝虎の人となりは理解出来る。しかし、千代の役目は春日山城下町を知るのではなく、上杉軍の内部を探ることだ。  

 情報を得るには様々な身分の者が集う所こそ好都合である。千代は茶屋のほぼ向かいにある飲み屋を見やる。身分を問わず人が入る場所と言えば飲み屋こそが一番の場所。だが、夜になって女一人で酒場に入るのは私をどうか押し倒してくれと言っているようなものだ。

 届いた団子を食べ終えると千代は一旦、宿に戻り、文をつづる。こういうことは任せるに限る。

 再び宿を出ると今度は城下町の中心にある比較的小さな店構えの魚問店に入る。

「いらっしゃい」

「これを主に渡してくれ。三郎様の所から来たと言えば良い」

 先程認めた文を受け取ったお仕えの者が奥に消え、しばらくするとこの店の主である痩せ気味の男が顔を出した。

「奥へ参られよ」

 千代は頷くと店内に入る。店主の後に続き、私室に入るとすぐに要件を言う。

「上杉の軍の内情を知りたい」

店主の姿勢が若干伸びた。店主は越後に入り込み、武田と通じている、いわば闇商人である。

「また合戦でございますか」

「左様」

 難しい顔をしている。越後を一代で統一した輝虎が主なだけにかなり春日山では武田の間者への警戒が強いらしい。しかし、ここで簡単に引き下がっては千代がわざわざ越後まで出向いた意味がない。

「此度は御館様も本気のご様子。何としてでも、小さな情報でも良い。頼む。この店の為でもあるのだ」

 脅し気味に言ってみると店主の顔色が少し青くなった。使えなくなった時、店主はすぐに斬り捨てられる。武田と通じていることを知られないように。哀れだが、千代もまた店主と同じようなところに身を置いているのだ。哀れと思えども、同情はしない。

「よろしくお願い致す。それから、信が置ける者を上杉の将兵が集う飲み屋へ。何故かは言わずとも分かっておろう?」  

 それだけ言い残すと千代は相変わらず怯えている店主を置いて部屋を辞す。あれだけ脅しが利いているところを見ればすぐにでも情報は入るだろう。後は千代も動かなければならない。

 店を出た千代はそれとなく辺りを見回し、城下に出ていた武人二人に目を付けた。一兵卒ではとても買えない召物を着ているからだ。二人は近くの甘味処に入ると庶民と並ぶことも気にせずに空いている所に腰掛ける。千代はその近くに座り、耳を傾ける。すると一人が疲れたように溜め息を吐いた。

「此度は御実城様もかなり躍起になられていたご様子。まったく、武田との戦はもうこりごりだ」

「そう言うな。他に攻める所も無い。分かっておろう」

 千代は外を向きながら出された茶をゆっくりと口の中に運ぶ。なかなかに美味だ。

「いい加減に雌雄を決さねばならぬ。今少しの辛抱ぞ」

「分かっておる。されど、幾度も出陣して一切我等の領地が増えないのは……」

 うなだれる片割れをもう一人の武人が肩を叩いて慰めている。千代がそれを見逃すはずもない。宿に戻り、記しておくべき報告を書き足そうと頭に記憶させる。

「出陣の日は早くて四ヶ月後か……それまでに支度を整えておかねば」

 二人は頷き合うとやってきた団子を抱えて外に出ていった。千代はすぐに後を付けたかったが、怪しまれることを考え、届いた熱い茶をゆっくり含む。下手に変な動きをすればこの店内にいるかもしれない上杉の回し者に目を付けられる。後はあの店主に任せるのが妥当である。

 外を見ると既に空がうっすらと茜色になり始め、所々に立地している飲み屋が準備を始めている。これ以上、女一人では危険だと判断した千代はお代を支払うと宿に戻る為、歩を進める。

 しばらく歩いていると風と共に大量の白いものが飛んできて、不意に千代は飛んできた一枚を掴んだ。拳を開くと桜の花びらが散った他の花びら達の下に戻らんとまた風に乗って行った。

「うわぁ……」

花びらを追うように顔を上げた千代の口から普段の彼女では考えられない声を出してしまう。

 千代は女らしく笠を深く被り、下を向き続けていた為、春日にそびえる山々の多くが桜によって色が変わっていることに気付かなかった。飛んできた花びら達は遠くに見える屋敷の庭からのもののようだが、思わず山々に目を奪われてしまった。

 山の桜に目を奪われるなどいつぶりのことだろうかと千代は思い返してみる。もしかしたら初めてかもしれない。幼少の頃から忍として、女としての生活を強要されてきた千代に上をずっと向いている時間など無かった。

「娘さんよ。たしかに見とれるのは分からなくもねぇが、道の中央で立ち止まるのは勘弁してくれねえか」

 背後から知らない中年の恰幅な商人に声をかけられ、千代はようやく自身が往来する道の真ん中に立っていると気付いた。千代は商人に詫びを入れるとすぐに恥ずかしさを紛らわすように宿へと急ぐ。

 千代は宿に戻って食事を取り、身を清める。思い返すべきことは越後の国内の情勢。だが、記憶の中で大半を占めているのはあの桜。頭を振ってもあの光景が目立とうと前に出てくる。これは駄目だと諦め、手拭いで顔を覆う。しばらくそのままぼんやりした後、痕が出来るほど強くこすりつけると手拭いを叩き付けた。

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