Day7 洒涙雨

 その日が七夕だったことは覚えている。

 朝からいい天気だったのに、夕方になって急に雨が降り始めた。長女と「これじゃ織姫と彦星は会えなさそうだね」などと軽口をたたきあう間、まだ小学生の長男は興味がなさそうにゲームをしていたのも覚えている。

 夕食をとったり入浴を済ませたり、七夕だからと言って特別なことは何もしない夜だった。夜の十時を回り、長男が「そろそろ寝る~」と部屋に入ろうとしたその時、飼っている文鳥が鳴き始めた。

「ヂュッヂュッヂュッヂュッ」 

 夜も遅いのに珍しい。それに、あまり聞くことのない声だ。

「これ、警告音だと思う」

 文鳥を一番かわいがっている長女が言った。そのとき玄関のドアが開く音とともに、夫の「ただいまぁ」という声が聞こえた。

「おかえり」

 私は玄関に顔を出した。

 夫が「すごい雨だよ」と言いながら傘をたたんでいる。見たことのない傘だ。新品なら道中で買ったのだろうと考えるところだが、その傘からは明らかな使用感が漂ってくる。何年も使い古したような見た目だ。

「これ? いつもみたいに職場から置き傘借りてきた」

 夫はそう言うと、色あせた赤い傘を玄関の傘立てに突っ込んだ。その瞬間、私はなぜか「やめて」と言いそうになって、慌てて口をつぐんだ。「いつもみたいに借りてきた置き傘」のはずなのに、なぜそんなことを言いかけたのか、わからなかった。


 そんなことが妙に心に引っかかって、その晩は上手く眠れなかった。これでは明日が思いやられる。

 屋根を叩く雨音がやけにうるさかった。夫は隣のベッドで安らかな寝息をたてている。ああ眠れていいなぁと思ったそのとき、階下で何か物音がした。

 私はベッドから起き上がった。足音を殺してこっそりと廊下を歩き、階段を下りる途中で、ふと見下ろした玄関の方に人影があった。思わず叫び声をあげそうになった。

 常夜灯の下に立つ姿をよく見れば、息子である。

「ちょっと、何ぼーっとしてるの?」

 私は細い背中に向かって声をかけた。息子はゆっくりとこちらをふり返り、「あのさ」と何か言いかけた。

 そのとき、バターン! と大きな音をたてて、玄関の傘立てがひとりでに倒れた。

「きゃっ」

 驚きながらも視線は玄関へと向く。

 傘立ての中身が三和土にぶちまけられている。夫が持ってきた置き傘もタイルの上に放り出され、その中から女のものらしき白い腕がずるりと伸びていた。

「ヂュッヂュッヂュッヂュッ」

 リビングで文鳥が鳴き始めた。

 私はとっさに息子の手を引っ張り、二階へと逃げた。息子は怖いとも言わず、「やっぱ傘だよなぁ。あの傘。あの傘絶対おかしいと思ったもん」と、小さな声でぶつぶつ繰り返した。

 部屋に戻り、ひさしぶりに息子と一緒の布団に入った。まんじりともしないうちに夜が明けた。


 翌朝、雨は上がった。

 三和土は傘がぶちまけられた上、全体がびたびたと濡れていた。まるで、誰かがここでわざと水を零したみたいだった。

 私は他の傘と共にくだんの傘をきれいに巻き直して傘立てに入れ、「これ以上は何もないはずだ」と自分に言い聞かせた。

 昨夜はきっとおかしな夢を見ただけに違いない。傘から腕など生えるわけがない。

 そう思いながらリビングに入ると、昨日まで元気だったはずの文鳥が、鳥かごの中で冷たくなっていた。

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