8 訳アリな花

 私は早足で自室に戻り、外出用のコートを羽織る。


 どこへ向かえば良いのかはっきりとしないのだが、居ても立ってもいられなかった。


 もちろん、不倫現場を押さえたい訳ではない。いや、ほんのちょっとだけその気持ちもあるのだけれど、早朝にあれだけの事件があったばかりなのに姿を消したデュヘルのことが、途轍もなく不審に感じられてしまうのだ。


 行き先は未定。とりあえず城下へ行こうと、部屋を出て階段へ向かおうとする。


 その瞬間。ふわり、と鼻先をくすぐる香りがあった。良く知った匂いだ。


 決して強すぎず、嫌味のない爽やかな芳香。それなのに、とても印象に残るそれは間違いなくウィオラが纏う香り。つい先ほどまで、彼女が廊下を歩いていたのだろうか。


 そう考えて、首を振る。ウィオラは寝込んでいるはずではなかったか。


 貧血ということだったので、もう歩き回れるほどに快復していてもおかしくはない。けれど、なぜこんな真夜中に。


 私は直感と嗅覚を頼りにウィオラの足跡を追う。おそらく、彼女も城門の方へと向かっているようだ。


 そのことに気づいた時、私の胸にすっと冷たい風が通り抜けた。もしやデュヘルとウィオラは夜な夜な密会を行っているのでは。


 ウィオラはナーリスの乳母だ。リザエラがナーリスやデュヘルによそよそしくしている間に。リザエラの代わりに母親の役目を担っていた女性。


 デュヘルとの間に禁断の愛が生まれていたとしても、何の不思議もない。


 このまま後を追えば、見たくもない事実を目の前に突きつけられてしまう可能性がある。真実を知るのが恐ろしい。それでもなぜか、足は止まらなかった。


 足音を立てないように、けれどできる限り早足で階段を駆け下りる。一階のエントランス広間についたところで、彼女の後ろ姿が見えた。犬耳をぴんと立てて周囲を用心深く窺う女性。間違いない、ウィオラだ。


 彼女は、きょろきょろと辺りを見回してから、食堂の方へと向かって行く。私はひっそりと後をつけた。なるほど、正面玄関には見張りがいるはずだから、人気がない出入り口から外へ出るのだろう。


 ウィオラは例の地下牢へと続く階段を素通りし、厨房側の物置きへと入って行く。奥の方で、がたん、と扉が開閉する音がした。


 一拍置いてから私も物置き部屋のアーチをくぐる。大量の小麦袋が並び、床に置かれた籠の中には野菜や果物、卵が溢れんばかりに入っている。天井に吊るされた鶏に気づかずぶつかりそうになり、危うく飛び出しかけた悲鳴を呑み込んだ。


 なんとなくみじめな気分になりつつも、私は気を強く持ち、小さな木戸を押す。魔力や聖力による施錠はされていないようだ。ウィオラが外したのか、鉄の錠が扉の内側に転がっている。


 私は扉を少しだけ開き外の様子を窺った。辺りは、じめじめとしていて、水場が近くにあるのだろうとわかる。下草は綺麗に刈られているが、少し道を逸れると途端に鬱蒼とした緑の匂いがする。きっとここは、食材の搬入口なのだろう。


 ぼんやりとした月明りの中、目を凝らしてウィオラの姿を探す。残念ながらあまり鮮明には見えないのだが、わざわざ草木の生い茂る方へ分け入って行くとは考えづらいので、小石が転がる細い砂道を進んだと推測した。


 私はウィオラに勘づかれないよう、わざと道の端を歩き、時々木々の陰に身を隠しながら後を追う。


 いったい何をやっているのだろう。まるでストーカーのようだ。


 不意に冷静になり、白けた気分になったのだが、ここまで来てしまったのに引き返すなど論外だ。


 舗装されておらず歩きにくい一本道を、ひたすらに行く。しばらくすると、前方に薄っすらと裏門のアーチが浮かび上がる。その向こう側に、石とレンガで造られた建物の群れが見えた。どうやら無事に城下へ出られたらしい。


 首を巡らせれば、ウィオラの姿はすぐに見つかった。ちょうど、建物の角を曲がるところだった。


 私は足を速め、ウィオラを追う。やがて、見覚えのある通りへと出た。真っすぐ進めば保護院がある。だが、ウィオラはパン屋と八百屋の間の細い路地に吸い込まれて行った。


 既視感に、思わず声が出そうになる。先日、お忍びで保護院へ行った帰り、ウィオラと似た人物が通った道と同じ。私は確信を強めた。この前見かけた女性は、そっくりさんではなく本物のウィオラだったのだ。そしてこの先には、秘密の場所がある。


 前回は彼女を見失ってしまったが、同じ過ちは犯さない。視界が悪くなる角に差し掛かる直前で少し距離を詰める。ウィオラのコートの裾が、曲がり角でひらりと翻った。


 私は慌ててそれを追う。狭い。両腕の布地が壁に擦り取られそうだ。というか、奥に進むほど道幅が狭まって、いよいよ無様にも身動きが取れなくなった。


 その時だ。脳裏にぴかっと閃くものがある。私は知っている。この場所の通り抜け方を。


 身体の記憶に従って、両手を左右に突っ張り全聖力を解き放つ。途端に壁が退いて、前方が開けた。


 リザエラはなぜ、こんなことを知っているのだろう。疑問に思ったものの、せっかく開いた秘密通路を進まない手はない。私はそのまま尾行を続けた。


 やがて、薄っすらと控えめな聖力灯が灯っているあたりに薄紫色の後ろ姿が見える。私は用心深く物陰に潜み、ウィオラの動きを注視した。


 聖力灯の白黄色の光の下に、全身灰色の毛に包まれた狼姿の男性が立っている。ウィオラは言葉なく彼の前へと進み出て、ポケットから白いハンカチを取り出した。


 狼さんは、差し出された布をじっと見つめてから頷いて、半身をずらす。大きな身体が隠していたのは、地下へと続く階段だった。


 私は目を細めて様子を窺った。ハンカチを仕舞おうとしたウィオラの指先に視線が吸い寄せられる。白い布地の中にちらつく紫を目にし、私は息を吞み、声が出てしまわないように口元を両手で覆った。


 ハンカチに施されていたのは、紫色の小花の刺繍。あの造形は目にしたことがある。


 すみれ、と思ったが、ちょっと奇妙な歪みがある。


 ――混沌に下れ。


 謎かけのような一文が記された便箋が、瞼の裏でぱっと閃いた。


 そう、ウィオラのハンカチに施された刺繍と便箋に描かれていた絵はきっと、同じものだ。そのことが何を意味するのか、確かなことはわからない。けれど、気づけば身体が動いていた。


 私はきびすを返し、来た道を駆け戻る。


 建物の角を何度も曲がり、裏門のアーチをくぐる。小石を蹴飛ばしながら砂地を進み、腰を屈めないと通れないほど小さな扉を突き破らんばかりの勢いで開いて厨房に入る。足音が響くのを気にする余裕もなく、階段を駆け上がり、自室に飛び込んだ。


 薄明りの中、ドレッサー前の丸椅子にどかりと腰掛けて、異様に分厚い天板に手を翳し聖力を放射する。


 前回と同じように、指先に静電気のような刺激が走る。指から白く淡い光が溢れ、お腹辺りの高さに半透明のツマミが現れる。私はく思いを抑えきれず、勢い良く秘密のチェストを開いた。


 空の小瓶が一つと、二つ折りにされた便箋が二枚。


 私はそれら全てを鷲掴みにして取り出すと、窓辺のテーブルへと向かった。以前デュヘルがくれた極上の裁縫道具を棚から引っ張り出して、片手を振って卓上の聖力灯を灯す。


 紫色の糸を数種類と手ごろな長さの純金の針を選んでから、懐から取り出した真っ白なハンカチと向き合った。すぐ横には、例の便箋を置く。


 ウィオラが向かった謎の地下。そして、思わせぶりな一文が記された便箋と、紫色の花。


 きっと何か関連性がある。私はそう確信した。


 気合を入れるために頬を叩き、集中力を呼び覚ます。


 ぬいぐるみ作りで鍛えた私のオタクスキル。その名も早業針捌き。お花の刺繍くらい、夜が明ける前に完成させてやる。


 それを持って再び、見るからに怪しい地下へと潜入するのだ。



第三章 終

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