6 消えたデュヘル
これは現実ではない。そう、没入型ゲームの世界。作り物の世界での出来事だと思うからこそ、今の私は会社員をしていたリサよりもずっと大胆だ。
胸の奥底から、のそりと鎌首をもたげた疑念の渦が、私の心を支配する。気がかりなことがあるならば、直接本人に聞くまでだ。魔王を遠慮なく問いただすことができるのは、このお城において私しかいないだろう。
デュヘルは結局、私とお付きの黒猫フェールスがリーチ侯爵の部屋を出るまでにはやって来なかった。
何かに気づいた様子のアリスと長時間、いったい何を話しているのだろうか。私はフェールスを連れて歩き回り、デュヘルを探したのだが見つからない。
自室はもちろんのこと、執務室や食堂、中庭も図書室も探したが、どこにもいない。フェールスに訊いても、デュヘルが日中過ごす場所は他に思いつかないとのことだった。
しばらく歩き続けていると、さすがに脚が棒のようになる。私はフェールスを通常業務のために執務室へと帰し、自室に戻り……予想外の姿を見て目を丸くした。
「アリス、戻っていたの? それとナーリスもどうしてここに」
てっきり、アリスはまだデュヘルの元にいるのだと思っていたし、ナーリスが私の部屋にいるのにも驚いた。
私が帰って来たことに気づくとアリスは、萎れていた兎耳の根本をピンと持ち上げる。
「リザエラ様、お帰りなさいませ!」
パステルカラーをしたお花模様のラグの上でナーリスと絵本を読んでいたアリスは俊敏に立ち上がり、扉近くに立つ私に駆け寄った。大きな茶色い目を不安気に潤ませて、彼女は言う。
「デュヘル様が、リザエラ様のお部屋の方が安全だろうからと」
私は頷いた。城内で、予期せぬ事件が勃発している。下手に分散して過ごすよりも、信頼できる人々だけで一か所に身を寄せ合っていた方が安心だ。
室内の面々を見回す。アリスとナーリスと私の他には、壁際で控える近衛兵が二人。今朝、地下牢に一緒に突入してくれた象耳さんと、いつもデュヘルの部屋の警護を行っている茶色耳さん。体格から推察すれば、おそらく後者は熊さんだろう。
デュヘルが直々に選んだ、信頼のおけるメンバーだ。私はふと違和感を覚え、首を傾けた。
「あれ、ウィオラは?」
アリスが小さく肩を揺らした。追及の眼差しを向けると彼女はあからさまに目を泳がせる。
「あ、ウィオラ様はその」
「どうしたの、はっきり言って」
促せばやっと、視線が戻って来た。
「実は、貧血で倒れてしまって、お部屋で休まれています。ほら、こうも事件が続けば誰だって心労を感じてしまいますから」
「大事はないの?」
「はい。お医者様によると、安静にしていれば快復すると」
「僕、ウィオラが心配だよ」
ナーリスが絵本に目を落としながら言った。紅玉のような瞳は一面のお花畑の絵をなぞっているけれど、心ここにあらずといった様子で、その美しさを楽しんでいるようには見えない。
「ウィオラが体調を崩した時に、ナーリスも側にいたのね」
「ウィオラ様の腕の中におられました」
慕っている乳母が自分を抱いたまま倒れるだなんて、どれほど恐ろしく心細かっただろう。私は膝を突きナーリスを抱き上げて、頭から背中をモフモフと撫でた。
「可哀想に。大丈夫よ、すぐに戻って来るからね」
私の腕に包まれたナーリスは、最初こそ緊張に身体を硬くしたのだが、しばらくして一気に脱力したのがわかる。鼻面を私の胸に擦りつけるようにして甘える仕草に、一発ノックアウトされた。
私は「ぐふ」っと呻き、片腕でナーリスを抱いたままもう片方の手をラグに突き辛うじて上体を支えた。途端に、ナーリスの全身が再び強張る。
「母上? 具合が悪いの?」
「いいえ、違うのよ。あなたがあまりにも破壊的にモフカワ……ごほん」
いけない。本人を前にして性癖をさらけ出すのはさすがにまずい。
私はわざとらしく咳払いをして取り繕ってから、姿勢を立て直してナーリスをぎゅっと抱き締めた。
「とにかく、心配ないわナーリス。ウィオラが帰って来るまで、お母様と一緒に過ごしましょうね」
ナーリスの耳がぴくんと動き、徐々に持ち上がる。
「うん。母上と一緒に……!」
キラキラとした純真な瞳に見上げられた。ああ、至福。
時よ止まれと思ったけれど、だめだ、事態は何も解決していないのだと正気を呼び戻す。私は心からの笑みを返し、名残惜しさを感じつつも絵本の側に息子を下ろした。
「お母様は少し向こうで髪を直して来るから、絵本を読んで待っていてね」
「はい、母上」
素直で元気な声が返って来る。私はデレデレと緩みそうになる頬をなんとか理性的な微笑みの形に留め、目線でアリスを促した。察しの良いメイドは、ぱっと身を翻し、ドレッサーの方へと向かって行く。
丸椅子に腰かけ、鏡を覗き込むと、少し疲労が浮かぶ西洋風美女の姿が映っていた。何度見ても見慣れない。リサは地味で、『ぱっとしない女性選手権日本代表』のような容姿をしていたけれど、リザエラはハリウッド女優かと見紛うほどに華がある。
これほどの美人が自死を選ぶなど、信じられない。やはり、この死には、何者かが関与しているのではないだろうか。不穏な事件の連続に、私の思考は疑り深い方法にどんどん傾いていく。
「リザエラ様、一度お
アリスがいつも通りの優しい手つきで髪に触れる。複雑に編みこまれ、すっきりと纏められていたストロベリーブロンドがゆるりと解け、肩から胸へと滑り落ちる。
艶やかなうねりを眺めつつ、私は小声で訊いた。
「ねえアリス、さっきはデュヘル様と何を話していたの?」
細い指先がぴくんと揺れて、それからまた何事もなかったかのようにブラシを掴む。
「今はまだ、申し上げられません」
私は緑色の瞳を持ち上げて、鏡越しにアリスの顔色を観察する。アリスは少し気まずそうにしたけれど、断固とした声で続けた。
「デュヘル様のご指示なのです。リザエラ様に隠し事など本当は辛いのですが……今はまだ、言うべき時ではないと」
「デュヘル様がそう言ったのね」
「はい」
しゅるりしゅるりと、髪を梳く音だけが耳に響く。
アリスの口ぶりから推察すれば、彼女が告発したのはデュヘルではなさそうだ。いや、そもそも何の話をしたのかがわからないのだから、事件とは無関係の話であった可能性もある。
どちらにしても、アリスからすぐに答えを得るのは不可能だろう。私は小さく溜息を吐き、別の質問をした。
「そういえばデュヘル様が見当たらないの。どこにいるか知らない?」
「執務室では」
「いなかったのよ。アリスが最後にデュヘル様と話したのは執務室なの?」
「はい。どこかへお出かけになるとはおっしゃっていませんでしたが」
それではただ、入れ違いになってしまっただけなのだろうか。
「大丈夫ですよ」
私の様子から何かしら不安のようなものを感じ取ったのか、アリスは目元を和らげて気遣いの言葉をくれる。
「また夕食の際にお会いになれます。いつもと同じように」
髪に触れる指先の感触に束の間の安らぎを覚えつつ、少しだけ肩の力を抜く。
そうだ。不覚にもリーチ侯爵の言葉に心を乱されてしまったが、デュヘルが悪事に関わっているという証拠はないのだ。
もうしばらくすれば夕食時になる。いつも通りお砂糖を吐き散らかすデュヘルと共に、食卓を囲むのだ。その時に、それとなく探りを入れてみれば良い。何も急ぐことはないだろう。
けれどそれが楽観に過ぎなかったことを、この後思い知ることになる。
夕食に向けて身支度を整えていた私の元に、気まずそうな顔をしたフェールスがやって来て言ったのだ。「デュヘル様は急用で城下へ出られました。申し訳ございませんが今宵は、お部屋でお食事をとられてください」と。
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