4 事件が起こる


「ううううん」


 突如として耳に飛び込んだ異音に打たれ、私は飛び起きた。


 仄暗い室内で、掛け布団を跳ね飛ばし、ベッドの上で長座になっている。私は、はっきりとしない頭で辺りを見回した。


 普段から、大小様々のぬいぐるみに溺れるようにして眠っているので、暴れた拍子に吹っ飛ばされた犬、猫、熊に小鳥が床に散乱している。顔を上向ければ、暗闇の中、消灯した蛍光灯の丸い輪郭が浮かんでいた。


 窓の外はしんと静まり返り、室内の空気はひんやりと気だるい帯となり沈殿している。きっとまだ深夜だ。


 寝ぼけまなこを擦りつつ布団からそろりと爪先を出し、冷たい床に下り立つ。ぬいぐるみ達をせっせと拾い集め、ベッドの上に戻してから、もう一眠りしようかと思ったけれど、私は強烈な尿意を覚えきびすを返す。ドアノブを捻り自室から出て、凍るように冷たい廊下を裸足で進んだ。


 一歩進むごとに、足裏から伝わる冷気が脚から胴を這い上がり、脳天から突き抜ける。


 トイレは一階にしかないので、リビングに続く階段を下りなければならない。夜中に廊下を歩くとお化けが出るような気がして恐ろしかったが、階下から覗く蛍光灯のオレンジ色に吸い寄せられるようにして進んだ。


 ぎし、と床鳴りがする。その音に重なるように、リビングから潜めた話し声が聞こえた。


「……仕事がないから……」

「だが、僕らには演技しか……学歴はないし、会社での就業経験も……」

「やっぱり……もう一度、事務所に」

「どんな……な仕事も……受けるからと……」

「でも、リサはどうする」


 自分の名前を耳にして、私は足を止めた。肩の辺りで切り揃えた黒髪が揺れて顎を刺す。廊下の角からひっそりとリビングに目を凝らせば、両親がダイニングテーブルを挟み、神妙な顔で向き合っていた。


「お義母さんに預けよう」

「でも」

「大丈夫、あの子はもう小学生になるんだ。僕だって本当は家族で一緒に過ごしたいけれど、こうでもしないと稼げない。リサに貧しい思いをさせるよりは」

「だけど……」


 嫌だ。お父さんとお母さんと一緒にいたい。


 私は、ただその一心で足を進める。オレンジ色の光が次第に濃密になる。蜂蜜で満たされたような色合いのリビングに半分足を踏み入れて……私はなぜか躊躇した。そして。


 不意に、耳をつんざくような音の濁流が押し寄せて、私は目覚めた。


 勢いよく上体を起こす。全身汗まみれ。ストロベリーブロンドが頬に張り付き気持ち悪い。けれどそんなことよりも、もっと不快な音が響いている。


 ぐわんぐわんと、何かが歪むような、悲鳴じみて金属的な、とにかく馴染みのない耳障りな音。


 それが、暴発した魔力が空間を捻じ曲げ建物を軋ませる音だと気づくまでに、それほど時間はかからなかった。


 ベッドサイドでがたがたと揺れる聖力灯が落下してしまわないように、横倒しにしてベッドに放り投げる。窓際にある、今にも破裂しそうな花瓶を救出しに行こうと足を向けたところ、あと数歩の距離でばりんと音を立てて割れた。危なかった。もう少し近づいていたら、ハリネズミならぬガラスネズミになっていたかもしれない。


 どうしたものかと思ったが、まずはこの異音を何とかしたい。私はとりあえず花瓶の残骸を放置して、部屋を出る。


 廊下へ出ると、いっそう耳が痛い。慌ただしい足音が行き交う中、青い顔をしたアリスの姿を見つけた。


「アリス、いったいこれは何事?」

「あっ、リザエラ様、ご無事で。どうやら地下からものすごい量の魔力が吹き上がって来ているみたいで」

「地下?」


 ふと、鼠耳メイドの姿が脳裏に浮かぶ。地下牢には、ナーリスに害をなそうとした疑いで、エナが幽閉されていたはずだ。あの子は無事だろうか。


 背筋を冷たいもので撫でられたかのような心地がした。


「エナの様子を見に行きましょう」

「ええっ!? あそこはお化けが出るんですよ」

「大丈夫、一緒にいれば怖くないわ」

「お化けは、私達が何人束になろうとも一気に串刺しにできるんですっ」


 この世界のお化けはどんな姿をしているのだろう。疑問は軽く流して、私はアリスの腕を引いた。及び腰ながら渋々ついて来てくれるアリスと共に、廊下を走り階段を駆け下りる。


 地下牢への階段は、厨房や洗濯部屋といった生活感溢れる一画を越えた先にある。階段の入り口は古びた木戸で封じられていて、錆びた南京錠がかかっている。扉の前では、騒ぎを聞きつけて集まったケモ耳さん達が不安そうにモフモフしていた。


「鍵がないの?」


 そわそわしながら声を掛けると、聖女の訪れに驚いた若いメイドが上ずった声を上げた。


「リザエラ様! なぜこのような場所に」

「この騒ぎだもの。呑気に寝てはいられないわ。それより、誰か鍵を持っていないの?」

「鍵は、フェールス様が管理を」


 デュヘル付きの黒猫フェールスか。さすがにそろそろやって来るだろうと思ったが、こうしている間にも、扉の隙間からは黒い靄が漏れ出し、地下から湧き上がる悲鳴じみた異音は収まる気配がない。


 私は扉にぶら下がる鉄の塊を観察した。原始的な南京錠のようなので、いざとなったら私の聖力で木っ端微塵にできそうだ。


 痺れを切らし、半分本気で鍵に手を伸ばしかけた時。待ち人が現われた。


「扉の前を空けてくれ」


 いつもと変わらない不機嫌そうな眼付きのフェールスが、人垣を掻き分ける。その手には、物々しい金属製の鍵束が握られている。魔王城と言えども、全ての扉が魔力と聖力の錠で封じられている訳ではないらしい。


「フェールス。いったい何が起こっているの」


 私の姿を認めると、フェールスは少し眉を上げて目礼した。


「おはようございます、リザエラ様。私にも状況はわかりません。ですが、ただ事ではないのは確実」

「一緒に見に行きましょう」


 フェールスは、鍵を穴に差して開錠した。ノブを引いた途端、扉の内側で滞留していた黒い靄が一気に溢れ、重苦しい密度のある突風となり吹き付ける。


 歯を食いしばって圧力に耐え、私は細い階段に視線を落とす。


 薄暗い。壁面には蜘蛛の巣が張った聖力灯が並んでいるが、ここは魔王城。私以外の聖族はこの場に居合わせていない。魔族の中にも、簡単な聖術を使うことができる者はいるのだが、もちもん聖族ほど器用には光の精霊を扱えない。私は右手を一振りして明かりを灯すと、居並ぶ使用人に言った。


「狭いから、皆はここで待っていて。フェールス、アリス、あとそこの衛兵さん。私と一緒に来て」

「承知いたしました」

「はうっ!?」


 フェールスとアリスがそれぞれ声を発し、側頭に象耳がひらひらしている体格の良い衛兵が頷いたのを見届けて、私は先陣を切って階段を駆け下りる。


「ああ、リザエラ様、待ってくださいよう」


 アリスの声が反響する。増幅された自分の声が恐ろしかったのか、背後で息を吞む気配がした。


 だがしかし、階段の終点。金臭い鉄格子が並ぶ地下牢には、お化けなんかよりももっと見たくないものの姿がある。


「……エナ」


 勇んで駆け付けたものの、私は絶句し硬直する。


 施錠された牢の中で、小柄な少女が仰向けに倒れていた。フェールスと象耳衛兵が私を追い越して、エナの隣に膝を突く。


 彼らの陰になり良く見えないのだが、魔力の奔流はエナの胸の辺りから渦巻き放出されているようだ。


「可哀想に」


 フェールスが低く呟き、エナの胸から何かを引き抜いた。その正体を見る勇気はなく、私は目を逸らす。


 やがて、苦しみから解放されたエナの身体から溢れる魔力の靄は減少し、やがて収束する。


 時が止まったかのようだった。永遠とも思える沈黙の時間が過ぎ、フェールスが腰を上げる。肩越しに振り返り、こちらを見た。


「エナは、誰かにあやめられました。デュヘル様、ご指示を」


 フェールスは私の斜め後ろ辺りに目を向けている。言われて初めて気づいたが、いつの間にかデュヘルもやって来ていたようだ。


 驚き振り向いた私を安心させるように小さく頷き、デュヘルはすっと目を細める。なぜか目元に濃いクマができていて、少しやつれているように見える。


「下手人と首謀者を見つけるのだ。何としてでも」


 ――必ずや真相を明らかにして、悪意ある者をこの手で捻り潰してやる。


 シャンデリアが落下したあの廊下でデュヘルが口にした言葉が脳裏で反響している。いったいこのお城では、何が起こっているのだろうか。


 赤紫色の瞳が暗く光るのを、私は柄にもなく小刻みに震えながら見つめていた。

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