2 ウィオラの休日


 重たい扉が開く。魔術の証である黒いもやが晴れるか晴れないかといううちに、ナーリスは私の足元から駆け出して、大好きな乳母の胸に飛び込んだ。


「ウィオラ! お帰りなさい」


 ウィオラはすかさず腰を屈め、ナーリスを抱き締める。


「ナーリス様、お久しぶりです。しばらくお側でお仕えできず申し訳ございませんでした」

「寂しかったけど、僕頑張ったよ。偉い?」

「ええ、ご立派ですわ」


 いつも通りの愛情深い眼差しで見つめるウィオラと、信頼と思慕を全身で表すナーリス。尊い。やっぱり傑作母子像のように眩しい。


 そういえばウィオラは犬耳だ。モフモフワンコなナーリスに頬を寄せる姿は、本当の親子のように見える。そう、つるつる人耳な私なんかよりもよっぽど。


 しばらく固く抱き合っていた二人だが、やがてウィオラが腕を解き、ナーリスを解放する。名残惜し気な吐息を残し腰を上げたウィオラは、ふっくらとした頬に笑みを浮かべ、深く一礼した。


「リザエラ様、お暇をくださりありがとうございました」

「いいえ。ご家族の体調はいかが?」

「おかげ様で快方に向かっております。後のことは、故郷の家族だけでも問題ございません」

「そう、良かった」


 私はウィオラの表情を観察する。相変らず穏やかで、嘘を吐いているようには見えない。けれどあの日、夕暮れに染まる城下町で、風を切るような早足で裏路地に吸い込まれて消えた女性は紛れもなくウィオラだったと確信している。


 今日だってウィオラは紫色のドレスを着て、例の爽やかな花草の香りを纏っている。


 休日に彼女が気分転換していても咎める理由はないが、たった今戻りました、という顔をしているのがどうも気になるのだ。ウィオラはいったい、何をしていたのだろう。


「ウィオラ、そういえば一昨日、城下にいた……わよね?」


 問われてもウィオラは柔和な笑みを崩さないのだが、一瞬だけ、ぴくりと反応したようにも見えた。


 彼女の口から答えは返って来ない。肯定する、ということなのだろうか。やましいことがないのならば、はっきりと答えれば良いのだから、やっぱり何かあるに違いない。


 私は斜め後ろ辺りでなぜかおろおろとしているアリスに視線を遣り言った。


「アリス、少しウィオラと話があるの」


 機微に聡いアリスはそれだけで全てを察し、ナーリスに手を伸ばした。


「ナーリス様、ええと、私とお庭で遊びませんか?」

「え、でもせっかくウィオラが」

「ナーリス様、私も後ほど向かいますね。先に行って待っていてくださいますか?」


 ウィオラに促されてやっとナーリスはアリスの腕に収まってくれる。去り際、少し心配そうにこちらを見てから健気に言った。


「待ってるからね、ウィオラ……は、母上も」

「お話が終わったらすっ飛んで行くわ!」


 ナーリスの口から私に対するお誘いの言葉が出るだなんて。あまりに嬉しかったので被せ気味に返してしまったが、ナーリスは怪訝そうにするでもなく、はにかみ笑顔を残して中庭へと向かった。ああ、至福。


「リザエラ様は、ナーリス様とご一緒だと、いっそうお幸せそうですね」


 額を押さえてクラクラとしていた私は、ウィオラの声で現実に引き戻された。慌てて姿勢を正し、神妙な表情を取り繕う。


「当たり前じゃない。可愛い息子なのだから」


 ウィオラは笑みを深める。温かく他意のない顔をしているけれど、よく考えればリサがやって来る前のリザエラは、ナーリスと距離を置いていたはずだ。変に思われたのではないかしら。


 ひやりとしたが、ウィオラは想定外の言葉を発した。


「ええ、存じております」

「え?」

「以前からずっとリザエラ様は、ナーリス様とデュヘル様を心から愛しておられました」


 なんと、デュヘルも?


 言葉を失い口をぱくぱくさせる私にふわりと微笑んで、ウィオラは話を進める。


「それよりも、先ほどの話ですが」

「あ、そうだったわ。本当はどこにいたの」

「申し上げづらいのですが、城下には一昨日戻っておりました」


 少し眉尻を下げ、恐縮した様子で彼女は続ける。


「実は、息子に会いに行っていたのです」

「息子?」


 想定外の話に私の思考は停止する。ウィオラはこくりと頷いた。


「ええ。ナーリス様と同じ年の息子です。お恥ずかしながらあの子は魔力の器が小さい……只人ただびとですので、生後間もなく保護院に預けることになったのです」

「保護院って、魔王家が出資している?」

「ええ」

「そうだったの」


 私は言葉を探して視線を彷徨わせる。ウィオラはナーリスの乳母だ。ということは、同世代の子供がいて当然なのに、すっかり頭から抜け落ちていた。


 しかもその子は只人で、自分の手で育てることができないだなんて。


 いつでも溢れんばかりの愛情を湛えるウィオラ。どこか儚げな印象があるのは、この境遇が影響しているのかもしれない。


 私は必死で頭を回転させて、やっとのことで口を開く。


「でも、お城で働いているのなら保護院とは距離も近いし、いつでも会いに行けるわね」


 けれどウィオラの顔は曇っている。どこか諦めを帯びた目で、少し遠くを眺めた。


「確かに、いつでも姿を見守ることが出来ますから、私は幸せ者です。ですが残念ながら、直接言葉を交わすことはありません。名前も知らないあの子が、元気で過ごしているのを、ただ遠くから眺めるだけ。私があの子に会いに行くと、親族が嫌がりますから」


 只人は遺伝する。よって、只人の誕生は恥とされ、秘密裏に子供を預けに来る親が多いのだと、先日猫院長が言っていた。その時には漠然と哀れみを抱いただけだったが、こうして実際に身近な人物の口から聞くと、いっそう胸が締め付けられる。同時に、部外者の分際で軽々しい発言をしてしまったことに罪悪感を覚えた。


「ごめんなさい、無神経だったわ」

「いいえ、リザエラ様は何も悪くありません」


 ウィオラは憂いを溜息にして吐き出した。


「ただ、私の実家は気位ばかりが高くて。離縁した夫の家系も同じようなものです。貴族と言っても、没落した田舎者。本来であれば私など、皇にお仕えすることは叶わない身分です。あの子が只人であったこと、そしてナーリス様と同じ時期に生まれてくれたこと。この二つがなければ、私は皇のお顔すらまともに知ることはなかったでしょう」


 だから、と彼女は続ける。


「これはある意味で奇跡なのです。あの子のおかげで私はナーリス様の乳母になれたのですから」


 奇跡だなんて美しく言い表したけれど、本当は、そんな風には受け止め切れていないはずだ。その証拠に、三角形の犬耳が少し萎れている。何よりも、悲しみを押し殺す声が微かに震えていた。


 只人と良家を巡る葛藤は、理性では理解ができる。だが、個々の力ではどうにもならない事情で引き離される親子がこんなにもたくさん存在するだなんて、絶対におかしい。


 私は拳を握り、何かできることはないかと考えてみたけれど、妙案は浮かばない。当然だ。私はただの非力な記憶喪失人間なのだ。


 じっとこちらの顔色を窺っていたウィオラはやがて、全てを慈愛で包み込む聖母のような顔で言った。


「暗い話になってしまいましたね。リザエラ様にお聞かせするような話ではありませんでした。どうかお忘れください」

「いいえ、訊いたのは私だから」


 ウィオラはほんの少し眉尻を下げて、ナーリスが待つ中庭へと私を促した。ふんわりと優しい淡色をした花々の中、私達を待つモフモフを見つけても、気分は晴れなかった。

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