4 保護院にて②

 後で知ったことだが、この保護院は魔王家が私的にお金を提供して運営しているらしい。そう考えると、この熱烈歓迎の訳も納得できた。


 幸せの余韻が冷めやらない中、猫院長に促され、モフモフ聖歌隊が礼拝堂を後にすると、途端に静寂が訪れる。


 それにしても立派な礼拝堂だ。天井にはフレスコ画。光を表す白と闇を表す黒が次第に分離し、昼と夜を生み出し世界が変容していく過程が鮮やかに描かれている。


 天井から壁の方へと視線を下ろせば、薄緑色の燐光りんこうを放つ巨大な神樹が描かれていて、さらに下方には、本物の木の根がある。あれが先ほどから話題に上がっていた、神樹の根。只人ただびとが魔力と聖力を得る場所だろう。


 根からは白い淡光と黒い靄が薄っすらと立ち昇っていて、神々しい。というかとってもファンタジー。思わず感動する私だけれど、隣に立つデュヘルは眉間に皺を寄せ、声を低くした。


「ああ、聞いていたとおりだな、院長殿」


 猫院長は悲し気に眉を下げた。


「やはり陛下は一見されただけでも、神樹の根から発せられる力が弱まっていることがおわかりになりますか」


 デュヘルは頷き、根の近くへと進む。その斜め後ろを追い、猫院長は続ける。


「只人の数が増えておりますから、神樹が人々に分け与えて下さる力の総量が多くなっています。力が枯渇していくのも当然のこと。ですがここだけの話、原因はそれだけではないのです」

「と言うと?」

「盗人です」


 猫院長は忌々し気に吐き捨てる。


「偉大なる神樹のご慈悲の下、魔力や聖力を分け与えていただけるのは只人だけ。ですが畏れ多いことに、中にはその力を盗み転売することで、力を悪用する輩もいるのです」

「神樹の力を盗むだと? どうやって」

「魔力や聖力は体内を循環します。よって水分との親和性が高いようなのです。目撃者によると、盗人は小瓶の中に入れた液体に力を溶かしていたとかいないとか」

「間違いではないのか。証拠になるものは?」

「残念ながら陛下、目撃者がいる他に物的な証拠は残されていません」

「然るべき場所に届け出は?」

「いたしました。けれど、物証がないうえに目撃者が施設の子供しかいないので取り合っていただけず……」


 デュヘルは、ああと唸り、頷いた。


「この件は私の方でも気に留めておくことにしよう」


 猫院長は深々と一礼をして、感謝を示す。身体の動きに合わせて揺れる、ススキのように豊かな尻尾を眺めながら、私は思わず疑問を口にした。


「でもそれ、何に使うのかしら。魔族も聖族も自分で力を吸収して体内に留めることが出来るし、それが難しい人達は、わざわざ盗まなくても神樹の根から分け与えてもらえるのでしょう」


 猫院長が、猫目をいっそう丸くしてこちらを見る。視線を浴びて、私は失言に気づいた。もしかするとこれは、世界の一般常識なのでは。


 少し狼狽うろたえた私に助け舟を出したのは、リザエラの記憶喪失を把握しているデュヘルだ。


混沌術こんとんじゅつというものがあるのだ」

「混沌?」


 その単語を耳にして、私の脳内で、ちりりと火種が弾けるような感覚がある。けれどそれが何なのか、掴むことはできなかった。


「そもそも全ての人間は魔力と聖力をその身に留めるための器を両方宿している。前者が強い者は魔族、反対に後者は聖族となり、共に未発達の場合は只人になる」


 理解を確認するようにこちらの表情を窺がうデュヘルに軽く頷いて、私は続きを促した。


「つまり全ての人間は、魔族であっても聖族であっても、魔と聖どちらの力も保持している。そこに、自分が身に宿すことを苦手とする方の力を大量に流し込むと」


 デュヘルは拳を二つ作り、宙で軽く打ち合わせた。


「性質的には対極にあるが、そもそもは表裏一体である二種類の力がぶつかり合い、極小ながらも創世期の混沌と同様の現象が起こる」


 光も闇もなく、もちろん昼も夜もない。この世界が今の姿を取る以前、そんな混沌の世界があったということは、以前アリスから聞いていた。無から全てを創り出すほどの力の渦が、一個人の体内でとぐろを巻くのだから、想像するだけでも恐ろしい。


 背中を氷が滑ったような心地がして、私はぶるりと身体を震わせた。


「では、その圧倒的な力を求めて、神樹の力を購入する者がいるということなのですね」

「ああ、そうだ」


 デュヘルがさり気なく背中を撫でてくれる。ひんやりと凍り付いた背筋が解けて、いくらか呼吸が楽になった。


「一説によれば混沌術を使い混沌に下ることで、死後の世界に赴き死者を連れ帰ったり、人の容姿や性質を歪めたりすることができるらしい」


 現世うつしよと冥界の境界を消し去り、人を形作る物を混ぜ合わせ、変質させる。これぞまさに混沌だ。


「混沌術はあまりにも強大な力ゆえ、私的利用は禁じられている」


 当然だと思う。宇宙誕生の際に発生したと言われているビッグバンのような現象の種が、個々人、しかも私利私欲にまみれた人物の体内に生まれるなど危険極まりない。


「一方で、混沌術は公的利用されている。たとえばナーリスの部屋の鍵を思い出して欲しい。扉には混沌術による封印が施され、鍵には聖力と魔力が込められていて、事前に許可を得ている人物が力を流し込むと反応して開錠される」


 だんだんと状況が掴めてきた。混沌術の存在は悪ではない。けれどそれを悪用する輩を相手にする密売者がいて、神樹の根から力を奪い儲けているのだ。どこまでも混沌としている。


 そう、混沌。


 再び、脳細胞が活性化するような心地になり、口の中で何度も「混沌」と呟いた。混沌、混沌。


 ――混沌に下れ。


 はっとして顔を上げる。


 リザエラの直筆と共にあった、すみれ模様の便箋に書かれた言葉「混沌に下れ」が脳裏に鮮明に蘇る。


 世界を移動し、人間の姿形にすら干渉することができる強大な力。


 謎の一文が混沌術と関連しているのなら、混沌術の使い手や、もしかすると密売人までもがリサの転生とリザエラの死にも関わっているのかもしれない。


 考え出せば、妄想の跳躍が止まらない。


 リザエラは本当に、あの薬で死ぬつもりだったのだろうか。もしかするとただ、異世界旅行をしたかっただけ? いやいや、さすがにそんな呑気なことではないかもしれないが、とにかく、禁じられた混沌術とリザエラには、どこか不穏な影がちらつくのだ。それでは誰が、いったいなぜリザエラに宛ててあんな一文を。


 思考はどんどん薄暗い方向へと向かっていく。


 これはただの推論だが、品行方正な聖女が実は混沌術に関連してたとなれば、たいそうなスキャンダル。失脚どころの騒ぎでは済まないだろう。


 混沌術の匂いを漂わせたままリザエラが命を落とす。そうなれば、誰がどんな悪意のある作り話をでっち上げようとも、弁明できる者はすでに棺桶の中。永遠に口を封じられてしまっている。だから彼女は嵌められた。


 この仮説が事実だとすれば、リザエラが聖女だと困る者全員に謀略を巡らせる動機がある。


 考え過ぎかもしれない。けれど、失われたリザエラの記憶が私を追い立てているように、胸の奥に焦燥が募る。


 もし、想像が真実に近い場合、陰謀に関わった者を探すためには、混沌術の使い手に目を付けて調査をするのが近道ではないか。


「リザエラ?」


 デュヘルが怪訝そうにこちらの顔を覗き込んだ。


 私は我に返り、少しくらい気の利いたことを言うべきかと思い、神妙な顔で提案した。


「それでは、混沌術の取り締まりを強化すれば、自然と悪人を特定することも出来そうですね」


 その過程でリザエラの死の真相に近づけると確信した。自死事件のせいで可愛い可愛いナーリスが、ひどく自分を責めることになってしまったのだ。モフモフを傷つける奴は絶対に許せない。


 もちろん、私の心の叫びに気づいた風もなく、デュヘルが遠くを見ながら頷いた。


「ああ、それも一理ある」

「ですが、これに関わっているのは生粋の悪人だけではないのです」


 元の穏やかな表情に戻った猫院長が、どこか悲し気に言った。


「只人の子を持つ富裕層の中には、我が子を保護院へ送ることを躊躇い、密売によって神樹の力を手に入れる者もいるのです。本来許されないことですが……彼らの気持ちも理解できますから複雑な心境ですわ」


 只人は人としての生活を送るため、神樹の根がある保護院へ引き取られて行く。だが、全ての親がそれを受け入れる訳ではないのだろう。我が子をその手で育てたいと考えるのは当然のこと。


 複雑な家庭に生まれた只人達やその家族の心を思えば、胸が痛む。同時に心の奥底に暗く陰湿な感情の火が灯り、私は自己嫌悪を覚えた。


 リサの両親は娘と暮らすことができたはずなのに、それを選らばなかった。


 三十年も生きて、今さら親の愛を求めてはいない。それでも、禁じられていると知りつつも財力に任せて神樹の力を買い、我が子に与えて共に暮らそうとする家族の心が、ほんの少しだけ羨ましい。


 そう思った後、脳裏にナーリスの姿が浮かび上がる。彼はおうだから私達とお城で暮らしているけれど、その境遇だけを見れば、保護院にいる子供らと同じではないか。


 私は何て歪んだ人間なのだろう。醜い嫉妬を覚える前に、ナーリスのことを考えるべきだったのに。


 汚れた感情を上塗りするように、私は綺麗ごとを口にした。


「それなら、只人が生まれた家で暮らせるような制度を作ったら良いのでは。大人の只人のように毎日自宅から神樹の根に通うとか、それこそ盗人がやっているのと同じ方法で力を持ち出して、皆に配るようにするとか」


 猫院長は驚きに目を瞠ってから、ゆるゆると首を振る。


「神樹の根が地面から露出する場所は限られています。子供のためだけに保護院の側へ移住できる一家は決して多くありません。また、神樹の力を何かに封じ、適切な場所へと配布するのは費用がかかりますから、現実的ではないのです」

「でも」

「リザエラ」


 デュヘルが優しく肩を掴む。見上げれば、憐憫が宿る赤紫色の瞳はしかし、断固とした色を帯びていた。


「これは決まりなのだ。君のその気持ちだけでも、保護院の子らは嬉しいはずだよ」


 それは悔しいほどの正論で、返す言葉を失った。世界の仕組みを前にして、私は何でちっぽけな存在なのだろう。


 黙り込んだ私に一瞬だけ気遣うような視線を向けてから、デュヘルと猫院長は会話を続ける。


 飛び交う言葉達は、分厚い壁を通して聞いたかのようにくぐもって耳に届く。無力感が渦巻く心を押し込めて、私はそれらをぼんやりと聞いた。当然、話の内容は全く頭に届かなかった。

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