第二章
1 タオルが巻き起こす不穏な風
「ねえリサちん。この世界に、もう一人自分がいるような気分になったことはない?」
近頃話題のスパ施設にて。同期で親友のスミレと私は、フィンランド式サウナとやらの
頭上から降り注ぐ尋常ない熱気に汗を滝のように流しながら、私は首だけ大きく捻り、スミレの顔をまじまじと見つめた。
キャンドルを模したリラックス効果抜群のランプが、板張りの壁面に等間隔で並ぶ。ぼんやりとした朱色の明かりを浴びて、スミレの顔に陰影が差す。突拍子もないことを言い出したその真意は、薄暗さの中では見透かせない。
彼女はいつも、控えめに笑う。しかしその心の真ん中には、決して折れない芯が一本通っている。
冗談か、それとも本気で何かに思い悩んでいるのか。私は、どのような反応をするべきかはかりかね、間抜けに聞き返した。
「え、何?」
スミレは表情を動かさず、もう一度言う。
「もう一人自分がいるような気分になったことはない?」
簀子の下段に座っていた大学生風の女の子が、訝し気な視線をこちらへ向けた。
サウナストーンの周りでは、熱を送るため、筋肉質なお兄さんが、ぶうん、ぶうん、とタオルを振り回している。狭い室内だから、熱気を切り裂く音が通り過ぎれば、潜めたとはいえ声が響く。その会話が、非日常的で怪しげな内容であればなおのこと。
私はお兄さんが一周して再び近づくのを待ってから、タオルが巻き起こす音に隠れるようにして、スミレの耳元へと囁いた。
「急にどうしたの。ここでそんな話をしたら注目浴びちゃうから、後でビールでも飲みながらにしましょうよ」
ぶうん、ぶうん、ぶうん……。
規則正しく降り注ぐ熱風の中、スミレはぼんやりと遠くを眺めながら、呟きを落とした。
「最近思うの。きっと私はもう一人の私に突き動かされて、今を生きている。リサちんもそう思わない?」
※
ぶうん、ぶうん。
風を切る音がする。続いて私の耳は、何か硬い物が殴打され、落下して無残に砕け散る音を捉えた。
突っ伏していた机から飛び上がるように上体を起こし、音の出どころに目を向ける。
「も、申し訳ございません!」
微風に揺れるレースのカーテンから差し込む日差しの中、
普段からちょこまかと忙しなく動き回り、仕事に精を出す頑張り屋さんなのだが、いかんせん落ち着きがない。
鼠耳さんの手に握られたタオルと足元に散らばる白い陶器の欠片から察するに、換気のためにタオルを振り回していたところ、花瓶にぶち当ててしまい、大惨事を引き起こしてしまったのだろう。
先ほど、リサであった頃に同期のスミレと行ったフィンランド式サウナの夢を見たのも、タオルが風を巻き起こす音が耳に入ったからかもしれない。
居眠りしてしまっていたらしい私は、寝ぼけ
「ナーリス様、お怪我はありませんか?」
ナーリスの乳母ウィオラだ。
花瓶が砕けた辺りに血相を変えて駆け寄り、その側で硬直していた子犬姿のナーリスの隣に膝を突く。ウィオラは、世界に存在する一切の恐ろしい物から守ろうとするようにナーリスを抱き締めてから、ほんの小さな傷すら見逃さないようにモフモフな全身を撫でた。
「ああ、良かった。無事ね」
「うん。僕元気だよ、ウィオラ」
鼠耳さんが割ってしまった花瓶の近くで、ナーリスは本を読んでいたらしいのだ。ナーリス用のラグの上にも、いくつかの破片が散らばり日の光を反射している。
一拍遅れて私も、二人の側に屈みこむ。
「大丈夫? 無事で良かった」
「うん……」
赤い瞳がこちらを見上げ、ほんの数秒見つめ合ってから逸らされた。ナーリスはウィオラの胸に鼻面を押し付けるようにして、腕の中にすっぽり包まれる。
ウィオラが心底愛おしそうにナーリスの茶色い背中を撫でるのを、私は複雑な思いで見守った。
あの晩餐会以降、ナーリスと私の距離は着実に近づいている。私が部屋を訪ねても、以前のように角に隠れようとすることはないし、話しかければ会話は成立する。招けば、本日のように私の部屋へも来てくれる。それでもやはり、どこか壁があるのは確かなのだ。
目の前で頬を寄せ合うウィオラとナーリスの姿は誰が見ても母子のそれ。実の母であるはずの私だけれど、間に入り込むことなどできそうもないほどの絆を見せつけられて、ちくりと胸が痛む。
けれどそれは、リザエラがナーリスへと愛を注いでこなかった結果だし、リザエラは私なのだから、結果のところ自業自得なのだろう。
私はショックから回復して立ち上がり、ウィオラ達から視線を外す。それから、すぐ側で震え上がっている鼠耳メイドに声を掛けた。
「あなたも大丈夫? 破片を片付けて欲しいのだけれど」
鼠耳さんはびくんと肩を震わせて、もう一度、蚊の鳴くような声で謝罪した。一歩間違えばナーリスが怪我をしたかもしれないのだから、彼女に怒りをぶつけたい思いはある。だが、本物の鼠のように身体を縮こまらせて震える姿を見ると、頭ごなしに叱るのも気が引けた。
大事はなかったのだし、こうなれば過ぎたことはもう仕方がない。
「あなた、名前は?」
「エナと申します」
「そう。ではエナ」
相変らずか細い声で名乗ったメイドの肩を叩き、私は言う。
「これからは気を付けて。ナーリスに万が一のことがあったら、取返しが付かないわよ。さあ、掃除道具を」
「か、かしこまりました」
身体が半分に折れるのではないか、というほど勢い良くお辞儀をして、鼠耳さんが部屋を出る。それと入れ代わるようにして、何やら悪い笑みを浮かべたデュヘルがやってきた。
「聞いてくれ。あの不敬な男に制裁を食らわせてやったぞ! さあこれを見るのだ」
口角を吊り上げ鼻に皺を寄せ、目をぎょろりとさせて高笑いしている。眉目秀麗の見本のような顔が台無しだ。
私は頬を引き攣らせながら、差し出された紙の束を受け取った。新聞だ。
一面トップにあたる欄に、先日のナーリス誕生祭最終日における晩餐会での出来事が記されていた。
ナーリスが立派な人型を披露したこと、これまで囁かれていた
「『いつまでも赤ん坊のようなリーチ侯爵』……」
私は思わず見出しを読み上げた。彼が引き起こした非礼の数々が並び立てられているだけでなく、以前デュヘルが宣言したとおり、十歳まで指しゃぶりがやめられなかったエピソードもばっちり載っている。
新聞社にリーチ侯爵の恥ずかしい過去を暴露してやると言っていたのは、冗談ではなく本気だったのか。私はデュヘルへと、じっとりとした眼差しを向けた。
「それにしても指しゃぶりがやめられなかっただなんて、良く知っていましたね」
「彼とは幼少期から知り合いだからね。いや、それは良いとして」
デュヘルは悪人面を引っ込めて、愛妻家の顔になる。
「今日は君を誘いに来たのだ。外出でもどうだい? 愛を深めるために、我々の思い出の地を巡ろうじゃないか」
「愛を」
「ナーリスのためにも必要なことだろう。何よりこの私が、リザエラとの愛をいっそう強く感じたいのだ」
「そうですか」
「さっそくこの後、出かけないか」
「いきなりですね。でもナーリスが」
「ナーリスがどうかしたのかい?」
花瓶の落下現場に目を向ければ、エナではない他のメイドが箒と塵取りで陶器片を片付けている。ウィオラとナーリスの姿はない。おそらく、心を落ち着けるため、隣室へ行ったのだろう。
先ほど起こった事件を説明すると、デュヘルの表情が一変する。エナの不注意に怒りナーリスの無事に安堵して、その場に自分が居合わせなかったことを後悔した。
百面相が一段落すると、彼は結局険しい顔を維持しながら、「外出は後日にしよう」と言って、ナーリスがいる部屋へと飛び込んで行った。
家族愛が深いことに感心しつつも私は、やっぱりデュヘルは色々な面で感情が振り切れている人だなと半ば呆れを抱き、その背中を見送った。
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