13 ナーリスの覚醒

 ああ、終わった。これは負けた、と思った。完全にリーチ侯爵に場の空気を持って行かれてしまった。


 私達家族はこのまま皆の笑い者になり、ゆくゆくはお城を追い出されて、世界には新たな魔王と聖人が立ち、誰もが私達を忘れていく。


 平民暮らしになったとしても、日本で自活経験のある私はまだ、なんとか生きていけるだろう。けれど、生まれつきお城暮らしのデュヘルはどうだ。生活力がなさそうだし、街や村で暮らすことなんてできないのでは。そして何よりナーリス。こんなにモフモフで愛らしい息子に不自由な生活をさせる訳にはいかない。


 私は頭をフル回転させる。この状況を脱するためには。


「僕、できるよ」


 うんうん、ナーリス。出来るわよね。そう、諦めなければきっと、何でも。って、


「……え?」


 思わず思考が途中で停止して、間抜けな声が漏れた。私は目を丸くして、隣の小さな椅子に座るナーリスを見た。


 全身に降りかかる悪意に怯え、やや毛を逆立てて微かに震えている。それなのにナーリスは、その小さな胸を精一杯突き出して、侯爵を睨んでいる。


「人型にだってなれる。当たり前だ。だって僕はおうなのだから」


 予想外の強い言葉を耳にして、私と同じく困惑を滲ませていた侯爵は我に返り、引き攣った笑みを浮かべる。


「さようでございますか。では私めにその雄姿を」


 ナーリスはこくんと頷いた。それから、心配げに見つめる父と母に代わる代わる目を向けてから囁いた。


「父上、母上、お願いがあります」

「うん」

「二人で見つめ合って」

「はいはい。……はい?」

「さっき二人が見つめ合った時、僕の胸の中になんだか温かいものが流れ込んだの。すぐにわかった。あれは、魔力と聖力なんだって」


 それは、気のせいではないだろうか。確かに私は、デュヘルが見せた男気に不覚にもときめいてしまったが、私達が熱く見つめ合うこととナーリスの中に流れる魔力と聖力の量にいったい何の関係があるというのだろう。


 私は軽く咳払いをして、ナーリスの可愛らしい勘違いをただすべく口を開いた。


「ナーリスあのね、多分それは」

「そうか、そういうこともあるのかもしれない」


 割り込んだのはデュヘルだ。


 彼は顎を撫でながら、生真面目な顔で頷いている。


「ナーリスを生み出したのは我々の愛。力の源は、神樹に預けた我らの魔力と聖力だ。もしかすると、私達が見つめ合い、胸の高鳴りを覚えることでナーリスに流れ込む力が増大して安定し、人型を取ることができるようになるのかもしれない」

「そんなことが」


 ないとも言い切れない。だってこの世界はファンタジー。きっと、全てのものが幻想で出来ている。


 これはやはり夢の中での出来事で、リサの身体はベッドで寝息を立てているのかもしれない。はたまた、没入型ゲームの世界に入り込んでいて、ただ単にシナリオを辿っているだけなのかも。だけど。


 侯爵の無神経な煽りに苛立つのも、アリスの献身に心からの感謝を抱いたのも真実のこと。ナーリスの全てを抱き締めたいと思うのも、デュヘルの美しい顔に見惚れ、家族愛に心が動かされたのも紛れもなく事実だ。


 リザエラはもしかすると、家族を愛せなかったのかもしれない。それでもは今、彼らを大切に思っている。この危機を乗り越えなければ。デュヘルとナーリスのためにも。


 私は顔を上げ、デュヘルを真正面から見つめた。


 サラサラの銀髪、すっと通った鼻梁、形の良い切れ長の目。赤みを帯びた紫色の瞳が私を映すと、極上の愛を乗せた微笑みが注がれる。


 リサは、家族の情に飢えていた。けれど今や、焦がれていたものがすぐ目の前にある。献身的な夫と、モフモ……いや、リサと同じく親の愛に疑問を抱く、愛おしい我が子。


 これはきっと、現実ではない。一時ひとときの夢のような出来事だけれど、この胸に宿った小さな炎を、大事に大事に守りたい。


「デュヘル様。私……」


 いったい何を言うつもりだったのか、後から考えても思い出せない。私の言葉を遮るようなタイミングで、ナーリスがぶるぶると痙攣し始めたからだ。


 黒の靄と白の淡光に包まれた身体が小刻みに震え、茶色の毛は徐々に体内へと吸収されていく。三角形の耳が光に溶けて消え、代わりに側頭部に丸い耳が現われる。短い四肢が伸び、気づけば椅子の上には、サイズが合わなくなった衣装を足先に引っ掛けた幼子が四つ這いになっていた。


 冷静な目で見ると、ちょっと腕がぞわぞわする光景だが、この子はナーリスなのだ。私の目には、息子が光の中で姿を変える過程はとても神々しいものとして映った。


「ナーリス」


 思わず声が漏れ、しんと静まり返った広間に波紋をもたらした。少しの間を置いて、紳士淑女の皆さんの間から、高揚した囁き声が上がり始める。


 幻ではない。ナーリスが、人型を取っている。


 ナーリスは、初めての感覚に戸惑っているのだろう。四つ這いのまま顔を持ち上げて、両親の表情を窺がった。


 少し癖のある茶色い前髪の間から、赤い瞳が心許こころもとなさそうにこちらを見上げている。気づけば私は涙を零していた。


 なぜなのか、わからない。確かに、ナーリスが彼自身の願いを叶え、皆が切望した人型を披露していることは、感動的で喜ばしい。


 だが、私の涙に込められた思いは、そのような単純なものではないようだ。もしかすると、この身体に残るリザエラの心が感涙を促したのかもしれない。


 私は指先で涙を拭い、ナーリスに微笑みかけた。


「ナーリス、すごいわ。とても立派」


 ナーリスの目が驚きに見開かれる。やがて、私の言葉に勇気づけられた彼は満面の笑みを浮かべ、腕を突っ張り二足で立ち上がった。


「ぼ、僕は」


 椅子のクッションの上にどーんと仁王立ちをして、ナーリスは声を張った。


「僕は皇だ。必ずや立派な大人になって、この世界を守るんだ!」


 ナーリスが立った! たった五歳の息子の頼もしい言葉に、私の涙は止まらない。……止まらない、と思ったのだけれど。


「ナーリス様、お洋服を」


 どこかから声が上がる。冷静に考えればナーリスは今、すっぽんぽん。子供とはいえ、偉大なる皇の全裸。私は慌てて叫んだ。


「誰か、お洋服を!」


 残念ながらこの人型化は想定外の出来事だ。もちろんこの場には、子供用衣服の予備などない。私は無様にも右往左往する。


 幸いにも救いの手は、すぐそこから差し伸べられた。ふわり、と仄かに花の香りがして、薄紫色の布が翻る。


 魔王一家の背後に控えていた乳母ウィオラが、自らの肩からショールを外し、ナーリスを包み込んだのだ。


 背後から幼子を抱き締めるその様子は、まさに慈愛を表す母子像のようで、こんな時だというのに私の胸はちくりと痛む。だがそれはただの醜い嫉妬。私は意図して柔らかな口調でウィオラに礼を述べた。


「ウィオラ、ありがとう。助かったわ」

「いいえ、リザエラ様。これも乳母の役目ですから」


 彼女の紫色の瞳が、ぎらりと光ったように見えたが気のせいだろうか。深く考える間はない。今度はデュヘルが階下に向けて力強く宣言した。


「皆、我らがナーリスはこのとおり、皇として申し分ない資質を宿している。異論がある者はいるか」


 小さな騒めきが広間を一周したが、それだけだ。貴婦人らが派手な扇の下で囁きを交わし、紳士らは、ちらちらとこちらを見上げている。いや、彼らが見ているのは魔王一家ではなく、棒のように立ちすくむ山羊角持ちのリーチ侯爵だ。


 完全に場を支配したデュヘルは口の端に悪い笑みを浮かべ、侯爵を睥睨する。剣呑な眼差しを浴び、びくりと震えたその肩を、デュヘルが掴む。


「侯爵殿、何か異論は?」

「ご、ございません」

「そうか」


 デュヘルは侯爵を数秒視線で刺し貫いてから、表情を緩めていつもの温厚な顔に戻った。


「では結構。これからも我が国と皇を支えてくれたまえ」


 侯爵は情けない声を上げて、転がるように階段を下りて行く。その背中を王者の風格を漂わせて見送った後、デュヘルは家族へ向き直る。


「ナーリス、リザエラ、疲れたことだろう、我々は部屋に戻ろう」

「あなたも? この場は良いのですか?」


 私の問いかけに、デュヘルは頷く。


「ああ、問題ない。元々長居するつもりはなかった。パーティーが終わる頃にまた戻ってくれば良いだろう。魔王がずっとここで監視していたら、皆も気が休まらないだろうからね」


 そういうものなのか。デュヘルの提案は願ったり叶ったりなので、私は同意を示し、ナーリスとウィオラを連れて一足先に広間を退室した。

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