8 母子の間には何かある?


 ナーリスの部屋は、私やデュヘルの私室と同じ階にある。


 自室の扉を出て、角を二回曲がった先。いつ見ても子供部屋とは思えないほど重厚な扉が私を出迎える。


 扉を開ける方法は、ちゃんと学び直した。素手では開かない。魔力と聖力を混ぜた鍵を使うのだ。


 けれど、この日は鍵など不要だった。なぜならば、両開き扉の間に黒い魔術のドアストッパーが挟まっていて、少し隙間が空いているのだ。どうやら清掃中で、換気をしているらしい。


「あれ、ナーリスいないのかな」


 呟いて、隙間から室内を覗き込む。その時、私の耳に不穏な会話が飛び込んだ。


「やっぱり災害が増えているようなの」

「恐ろしいわ。そういえば新入りのエナはね、地主の娘だったんだけど、豪雨で故郷を失くしてここで働くことになったんだって」

「まあ。それはきっと複雑な気分でしょうね」

「ええ、だからエナはナーリス様のお近くではなくて、厨房で……」


 不意に会話が止まる。掃除用具を手にした二人のメイドは、部屋の真ん中で弾かれたかのように振り返る。室内を覗いていた私に気づくと、一気に青ざめて、それぞれのケモ耳を後ろに倒し尻尾を脚の間に挟み込むようにした。すごく怯えている。


「リ、リザエラ様」

「あの、申し訳ございません。どうかお許しを」

「許す?」


 手ではなく口を動かしていたのは、確かに褒められたものではないが、そうも怯える必要があるとは思えない。もしやリザエラは、私が思うよりもずっと厳しい女主人だったのだろうか。


 私は、メイドを安心させるように意識して柔らかい声音を作って言った。


「いいえ、気にしないで。それよりナーリスはどこにいるの」

「ナーリス様は、中庭、です」


 かすれ声が返ってくる。私は首を捻りつつも礼を言い、アリスを連れて中庭へと向かった。


 災害の話を詳しく聞きたいところだが、アリスの表情が暗いため質問するのも憚られ、私達は言葉なく階段を下る。


 中庭に出た途端、全身が馨しい香りで包まれた。花やハーブの香りだ。目を遣れば、整えられた園庭で花々が競うように花弁の腕を伸ばしている。水やり後なのか、濡れた葉の上で雫となった水滴が陽光を反射して煌めいた。


 私は清々しい気分になり、全身で伸びをして胸いっぱいに花々の芳香を吸い込んだ。


 ナーリスの趣味が中庭のお花を愛でることだと聞いた時、子供らしくない嗜好を意外に思ったが、なるほど確かに城内の空気ばかり吸っていては気が滅入る。こんなに素敵な庭があるのであれば、思わず入り浸ってしまうのも無理はない。


「あら、リザエラ様!」


 不意に、赤い花をつけた低木の影から犬耳の女性が現われた。


 年の頃は三十前後に見える。少しふっくらとした頬が愛らしく、温厚そうな顔立ちをしている。


 城ですれ違う女性は皆、白いエプロンをつけた所謂いわゆるメイド姿なのだが、彼女は違う。私と同じように、ドレスを纏っていた。


「あ、ええと」


 突然、つきん、と頭に微かな痛みが走り、側頭を指先で撫でた。リザエラはもちろん、この女性のことを知ってるはずだが、やはり私には何も思い出せない。


 女性は目元を緩ませて、慈愛深い眼差しで私に微笑んだ。


「リザエラ様、ご無沙汰しております。ナーリス様の乳母、ウィオラです。私がお暇をいただいている間にお倒れになったとお聞きし……お側におれませんで申し訳ございませんでした」


 リザエラが記憶を失っていることを知っていて、あえて名乗ってくれたのだろう。優し気な容貌と相まって、気遣いのできる彼女に対する印象はかなり良い。


「本来ならば、リザエラ様がお倒れになった直後にナーリス様のお側へ戻るべきだったのですが、家族の事情でままならず」

「そう……だったのね。気にしないで」


 ウィオラは恐縮したように犬耳を倒してぺこりと頭を下げてから、首を傾けた。


「ところでリザエラ様。ナーリス様をお探しですか?」

「ええ、そうなの」


 私の答えを聞くと、ウィオラは斜め後ろ下辺りに向かって声を掛けた。


「ナーリス様、お母君がいらっしゃいましたよ」


 ウィオラは軽く膝を折る。紫がかった茶色の髪が低木の下へと消えた。しばらくしてから、樹木を迂回してこちら側へとやって来る。その腕にはナーリスが抱かれていた。


 ナーリスは今日も愛らしい。首元には小さな蝶ネクタイを付け、フリフリとした襞のある衣装に身を包んでいる。さながら、おめかししたぬいぐるみのようだ。


 相変わらずこちらを直視してくれない、紅玉のような瞳ですら尊い。ああ、ナーリス。モフモフで可愛い。


「ナーリス、元気にしていた? 今日はね、プレゼントがあるのよ」


 私の顔、緩みに緩んで気持ち悪くないだろうか。意識して表情を引き締めて、持っていたハンカチ包みを開く。現れたのは精緻なお花の刺繍が施されたしおりだ。 


 ここ数日間の努力の結晶を目にしたウィオラは、たおたかな指先を揃えて口元に当て、「まあ」と呟き微笑んだ。


 ナーリスは乳母の腕の中でちらりと目を動かし私の手元を見る。何度かまばたきを繰り返すうちに、次第に瞳が輝き始めた。これは好反応と思ったのも束の間、ナーリスはしかし、いつものように視線を逸らし、ウィオラの腕と胸の間に挟まるように鼻面を押しつけた。つれない態度だけれど、何て可愛らしいのだろう。


 息子に尻を向けられても、その姿にニヤニヤしてしまう奇人じみた私だが、ウィオラは少し表情を曇らせた。


「ナーリス様。お母君が素敵な栞を作ってくださいましたよ。どうぞご覧ください」


 それでもナーリスは目を向けない。イヤイヤをするように、ウィオラに鼻ドリル攻撃をかましている。どうしてそこまで嫌われているのか理解が難しいものの、とりあえずあの鼻面ぐりぐりを私にやってくれれば良いのにと思い、いっそう締まりのない顔になる。


 困惑し、私を見たりナーリスを見たりする哀れなウィオラ。私は、一歩足を踏み出した。


「ナーリス、お母様はね、あなたともっとお喋りしたいの。仲良くなりたいし、一緒にたくさん遊びたいのよ」


 ナーリスの背中がぴくりと動く。しばらくしてから、赤い瞳がこちらを見上げた。


「でも母上は、僕のことが嫌いで死にたくなったんでしょ」

「違うわ。そんなはずない。どうしてそんな勘違いをしているの?」


 こんなにモフモフで可愛い息子を嫌うなんてあり得ない。そうでしょ、リザエラ?


 だけど、改めて考えると妙だ。勘違いには勘違いするだけの理由があるはずで、ナーリスの態度から想定するに、私達母子は以前から、仲睦まじいとは言い難い関係性だったのだろう。


 母親が息子を嫌う理由とは何だろう。私の脳内で、パズルのピースが徐々にはめ込まれていく。


 ナーリスはモフモフ。けれどこの世界ではモフモフは、正義ではない。本来のおうは生まれてすぐ人型になるという。それなのに、ナーリスは未だ人の姿を取ることができない。私の脳裏に、先日ナーリスの部屋を訪れた際に彼が呟いた言葉が蘇る。


『僕が不完全者だから』


 そうか、ナーリスは皇としての能力を開花させていない。これまでの話を総合すれば、リザエラは聖女として、魔王デュヘルの妻となるべく育ったのだ。幼少期より、魔王と愛し合い神樹に祈り立派な皇を育てるのだと、使命を言い含められて来たのだろう。


 もしそうだとすれば、ナーリスがいつまでも獣型のままでいることを気に病んでも仕方がない。


 どんなに可愛い息子であったとしても、自らの使命に反するナーリスの姿を見て、苛立ちを覚え、もしかすると我が子を愛せない自分を恥じて自己嫌悪に苛まれたかもしれない。 


 そのことに思い至り、私は思わず拳を握りしめた。


 もしそれが真実だとしたら。リザエラの中にやって来た蒲原かんばらリサがモフモフオタクであることは、かなりの幸運なのではないか。私は、傷ついたナーリスを癒し、崩壊しかけた母子の関係性を修復するために転生をした……という設定のゲーム。


「ねえ、ナーリス。私はあなたのことを心から愛おしいと思って」

「嘘だ!」


 ナーリスがぐわっと口を開いて叫んだ。鋭い犬歯が剥き出しになっている。


「嘘じゃないわ」

「嘘だ嘘だ嘘だ! だって」


 ナーリスはウィオラの腕から身を乗り出して断言した。


「母上は、倒れる前のことを覚えていないと言っていたでしょう。それなのに、どうして僕のことが嫌いじゃなかったって言い切れるの?」


 私はただ、言葉を失った。


 気づけば空は薄暗くなり、にわか雨でも降り始めそうな鈍色に染まっていた。

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