第4話 竹御所
おじさま。
かわいいおじさま。
どうしてそんなにかわいいのかしら。
約束の刻限を違えず御所を訪ねてきて、それでいて後回しにしてきた政務が気がかりで仕方ないらしい泰時おじさまの様子を見るにつけ、そう思わないではいられない。
「時氏の調子はいかが?」
尋ねると、ほら、顔が曇った。
「……ええ、長旅の疲れが出たのか、咳が止まらず、夜もあまり寝付けない様子で……」
時氏が六日前のあの宴席の夜から病に臥せっていることは聞いていた。それでも直接尋ねずにいられなかったのは、おじさまの困った顔が見たかったからだ。
あなたの言うかわいいとは、かわいそうという意味ですよと教えてくれたのは時実だった。
時実とは本当にいろんなことを話し合った。いつも私にはあいまいにしか感じ取れないことを、彼ははっきり言葉にして教えてくれたものだ。
私は北条に連なる人々を皆一様にかわいいと思う。
身の丈以上に立派であろうと常に張りつめている時氏もかわいいし、聡すぎるせいで自分の中の虚ろを持て余している時実もかわいい。
けれど、特にお気に入りだったのは、政子お祖母さまと義時の大おじさまだった。
あの人たちはまるで夜闇にあやかしを見る子供のように、いつもおびえていた。
自分たちの望みが望んだ以上に叶えられていくので、失うとしても一瞬だと一途に信じている様子だった。
私のおとうさまを殺すよう命じたのも、きっとその怯えが高じただけだったのだろう。
表向きは病気で亡くなったとされているけれど、本当は侍女がこっそりと水に毒を盛ったのだと私は知っている。
お祖母さまが臨終の床で、全て告白したからだ。
生の最期に恐れたのは死後の劫罰だったらしい。
お祖母さまは瀕死の病人とも思えぬ力で起き上がり、私の両肩をつかんだものだった。
許してほしい、私はお前の父に毒を盛るように命じた、だが、それも全ては頼朝さまの築いた幕府を守るため仕方のないことだった、その上、いつ尼寺へ送られてもおかしくなかったお前をずっと庇護してきたのは他でもない私だろう、その恩義に報いる気持ちがあるのなら、子殺しの罪が消えるよう供養に努めておくれ。
もはやそこに理屈などなかった。唾液と一緒に飛び散る自己弁護の数々に、私は目眩がするほどかわいらしいと思った。
私はにっこりと微笑み、頷いた。あの時のお祖母さまの感激した顔。
皮と骨しか残っていないような老婆から、まだあれほど沢山の涙が出てくるのかと驚いた。
一しきり泣いて落ち着くと、今度は打って変わって居丈高な調子で手箱を取ってこいと命じた。私は意外に思った。お祖母さまは手箱を殊の外大事にしていて、掃除の時ですら他人に触らせようとはしなかったからだ。
それを持って枕辺に戻ると、お祖母さまは中から磁製の小瓶を取り出し、他に聞く者がないか慎重に辺りを見回した後、私の耳元でささやいたのだった。
これがお前の父を殺した毒だよ。義時が渡来僧を使役して作らせた北条の毒だよ。お前を私の唯一の後継者と見込めばこそ渡すんだ。いいかい、決して北条以外の女に幕府へ口出しさせてはいけないよ。もしそんな女が現れた時は、この毒で殺すんだ。
肩にしがみつき、私の耳に熱い息を吐きかけるお祖母さまは、まるでそうすれば私に霊魂を乗り移らせることが出来ると信じているかのようだった。
北条以外の女とは、お祖母さま以外の女ということだ。
死後、自分以外に女傑と称えられる人間が現れることを想像すると、お祖母さまは気が変になりそうなほどの嫉妬に駆られるらしい。
私を後継とするのも仕方なくで、私のようなぼんやりとした女なら、お祖母さまの名声を霞ませることもないだろうと考えていることも分かっていた。
薄暗闇の中、大殿油の炎でぬらぬらと照り輝く小瓶は、お祖母さまの執着がそのまま形となしたようで、あまりの浅ましさにうっとりとした。
実を言えば、お祖母さまに打ち明けられる以前から、その毒の存在は知っていた。使われるところを実際に見たのだ。
あれは今から七年前、元仁元年のことだった。朝廷との戦が終わったばかりで、泰時おじさまも時房おじさまも時氏も、皆都へ出向いていた。御所に残っていたのは私と時実と、後はお祖母さまや義時の大おじさまなどお年を召した方ばかりだった。
幕府の政務はといえば、幼い将軍頼経の補佐役であった一条実雅、伊賀光宗、その妹の伊賀の方の三人が取り仕切っていた。
伊賀の方は義時の大おじさまの後妻で、二人の間の娘と結婚したのが実雅であったから、この三人の発言力が強まるのは、私でも分かるくらい自然なことだった。
けれど、その当たり前のことをどうしても受け入れたがらない人がいた。
表向きは伊賀の方とも談笑していたけれど、内心嫉妬の蛇がのたうっていたのは、鏡を見るお祖母さまの顔を見ればすぐに分かった。
伊賀の方が外出している折、お祖母さまが大おじさまに癇癪を起こして噛みついているのが格子の外まで聞こえていた。
大おじさまは明らかに煩わしそうに、よく言って聞かせますからと話をはぐらかしていた。後妻を溺愛するのもまた北条の血なのかもしれない。すっかり伊賀の方に骨抜きにされていた大おじさまは、本心ではお祖母さまに隠居してほしいと望んでいたことだろう。
幾度かの問答を経て、お祖母さまは大おじさまの背信を気取ったらしい。
これまで散々引き立ててやったのに。
私にはお祖母さまの内心に燃え上がった憎悪が手に取るように分かる。裏切り者は殺すのが北条の習いだ。
あの日、お祖母さまが陰険な笑みを浮かべて、伊賀の方に何かを手渡すのを見た。それが例の小瓶だったことを今の私は知っている。大おじさまは長らく脚気に苦しんでいたので、それに効く薬と偽ったのだ。伊賀の方は感謝さえして受け取っていた。
その晩には伊賀の方の悲鳴で御所中が騒然とすることとなった。
私と、そして時実は何事か起きるのを予期していたので、渡殿の几帳の陰に隠れて、人呼びに駆けていく侍女をやり過ごし、大おじさまの座敷に通じる障子を細く開けた。
そこから目にした光景を、私は生涯忘れないだろう。
伊賀の方はうずくまり、どうして、誰か、助けてと震え、わなないていた。
大おじさまはといえば、顔を紫色にして泡を吹き、横たえた体を痙攣させていた。きっと大おじさまは自分が何の毒を盛られたのか分かっていたのだろう。その顔にははっきりと驚愕と恐怖の表情が刻まれていた。
そうして、伊賀の方に繰り返し何かを伝えようと試みていたけれど、喉がすっかり爛れているようで、ひゅうひゅうと笛の音のような息が漏れるばかり。焦りと苦しみから次第に大きくなる身振りは背後の屏風に影絵と映って、身もだえする虫にそっくりだと思った。
その時、何かの拍子に頭をもたげた大おじさまと、覗き見る私の視線とが確かにかち合った。瀕死の大おじさまに私を判別する視力が残っていたのかは分からない。けれど、誰かがいるものと思って懸命に救いを求める手を伸ばしたのだ。
それから、大おじさまは石のように動かなくなった。
私と時実は誰かに見つかる前に急いで御所を抜け出した。行く宛てとなく駆けに駆けて、お祖父さまの法華堂に自然とたどり着いていた。
堂宇の扉を開けて中に座り込むと、私も時実もしばらく呼吸が静まらなかった。
体の震えが止まらなかった。けれど、それは恐怖から来るものではなかった。
おぞましいものを見たはずなのに、どこか夢心地だった。よく出来た芝居を目にしたような、不思議な高揚感に包まれていた。
そう。私の心ははずんでいたのだ。
あの、死に際に救いを求める大おじさまの姿。
まぶたの裏に思い描くだけで、身体の芯からしびれるような喜びが沸き上がってきた。
私は隣に座っている時実の顔をうかがった。
闇に包まれた堂内では、彼の表情は読み取れなかった。けれど、無言で彼なりに先ほどの光景について考えている様子だった。
きっと彼の頭の中では、私などには思いもつかない想念が去来しているに違いない。
私は手探りで、彼のまだ幼い小さな顔を見つけ出すと、身を寄せてその唇を求めた。
そうしたことをするのは、この時が初めてではなかった。せがむのはいつも私で、彼は拒みはしないものの、幼いせいか、ずっと恬淡としていた。私は彼のそういうところが好きだった。出くわす度に顔を赤くする時氏や、もっとあけすけな視線を浴びせてくる他の御家人たちとは違う。清潔なものに触れている気がした。
私が離れると、彼が無造作に口元を袖で拭う音がした。
「……落ち着きましたか?」
「ええ。でも、どうしてかしら? 人が殺されるのを見て喜ぶなんて。私たちって頭が変なのかしら」
私はわざと彼を巻き込む言い方をした。普段の彼ならこんな罠にかかるはずもないけれど、彼は気づかず、当然という口ぶりでこう言った。
「誰だって人が殺されるのを見るのは好きですよ。都で首がさらされると、見物人の列が出来るそうじゃないですか」
私は否定されなかったことが嬉しくて、
「でも、泰時おじさまはそういったことは嫌がるでしょう?」
などとつい尋ねてしまった。
私は口にしてから後悔した。彼が父親のことを話題にされると不機嫌になるのを忘れていたからだ。
その時も彼はぶっきら棒に、
「……戦場なら父上も平気で敵を殺しますよ」
と吐き捨てるように言った。
「皆、父上を美化しすぎなんだ。そうしていれば、自分たちがいくら薄汚れても、北条にも美しい人間がいたのだと、救われるから」
「なら、時実もいつか汚れてしまうの?」
「当然です。人は生きていれば、醜く汚れていくものなんですよ」
私はほとんどのことについて彼の意見を正しいと思うけれど、この時の時実の言葉は間違っていると感じた。さしもの彼も父親と、そして自分については目が曇らざるを得なかったのだろう。
戦でも、平然と人を斬るおじさまなど似合わない。出来れば、苦悩しつつ、それを表に出すまいと歯を食いしばっていてほしい。
だって、その方がずっとかわいい。
この美意識だけは、何度話しても分かってもらえないまま、彼は逝ってしまった。それも仕方のないことだったとは思う。彼はどこまで行っても、冷たい理屈の人だったから。
私が将来、お祖父さまみたいな、自分のためだけの御堂を建てたいという話をしても、彼は無関心に聞き流しているばかりだった。
けれど、おじさまになら、きっと分かってもらえる。
私は目的の場所に到着するなり輿を降りて、後ろに付き従っていたおじさまを急かした。
「ささ、おじさま、こちらですよ、早く」
おじさまは困惑しつつも馬を降りて、決して私に否とは言わない。私を主人だと心得ているから。
どんなにこのお披露目を心待ちにしていたことだろう。
私の夢。私のためだけの持仏堂。
扉を開き、おじさまを迎え入れる。堂内の四方に描かせた五色の浄土の絵も私の自慢だ。けれどおじさまは青ざめ、目は一点を見据え、動かない。私はその横顔をうっとりと眺める。
「よく似ているでしょう?」
私は意味が浸透するように、ゆっくりと口にした。おじさまはかすれた声で聞き返した。
「これは……貴女さまが?」
「ええ。私の指図通りに彫ってくれたわ」
思慮深く微笑む半跏の弥勒菩薩。気の遠くなる未来に現れるという救い主。これほど、時実を写すのにふさわしい題材はない。
これで時実は汚れない。私が汚させない。
私はみ仏の顔が好きだ。静かで優しく清らかで。
頭を丸めた人たちは口をそろえて、私たち衆生を救うために微笑んでくださっているのだと言うけれど、私にはもっと他の、楽しいことを考えているようにしか思えない。
きっとみ仏も、瀕死の虫の如く群がり寄ってくる衆生がいじらしくて、かわいらしくて堪らないのだ。
傍らではおじさまが言葉を失っている。というよりも、何を尋ねるべきか迷っているというべきだろうか。
けれど、私は絶対に助け舟を出してはさし上げない。
おじさまが何を気がかりに思っているのか、私は重々承知している。それが御家人たちの目下最大の関心事であることも。
おじさまは、私と時実の間にどれほどの交流があったかを知りたいのだ。もっとはっきりと言うなら、肉の交わりがあったのかどうかを。
幕府が私を尊重してくれるのは、私が次の将軍を産めるからだ。
私はきっと、この前まで赤子と変わりなかった
そのためなら、頼経と私の、十五の歳の差には目をつぶれるというのに、私が清い身かどうかは心配するのだから、男の考えとはつくづくおかしい。
夫が子供であることに不満はない。むさ苦しい男をあてがわれるよりずっといい。
それでも、こうしておじさまを困らせたくなってしまうのは、きっと、何度せがんでも最後の一線は越えずに逝ってしまった時実に、意趣返しをしたいためなのかもしれない。
潔癖なおじさまには面と向かって私と彼との関係を尋ねることなど出来ないだろう。
その疑いをずっと抱いたままでいてほしい。
私はもう一度目を細め、金色に浮かび上がる、幻のような弥勒を見つめる。
きっと私から生まれる子供は、彼に似た顔をしているだろう。
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