もしかしたら彼女が俺に惚れているのかもしれない⑤
昼休みも終わり、午後の授業も全て消化し終えた俺は、若干重たい足取りで軽音楽部の部室に向かっている。
いつも通り有栖川が部室に行ったことはすでに確認済みだ。
よほどの事がない限り、今日も元気にギロギロ弾き散らかしていることだろう。
だが、そんなラテンのリズム刻む彼女の下へ向かう俺の心は、暗鬱としたロンドンの空のように灰鼠色だった。
果たして、本当に有栖川アスミこそが俺に惚れている人物なのだろうか。
守屋との会話の中で生じた疑念は、いよいよ無視できないものになっている。
たしかに他の二人に比べると接点は多く、有栖川の独特な思考回路ならば、俺のことを好きになるのもあり得ないとは言い切れない。
それでも、そうだとしても、やはり一度首をもたげた違和感は中々消えてはくれなかった。
やはり、何かを見落としている気がするのだ。
なにか大きく、決定的なことを。
「来たね。シャーロッくん」
「……ああ、チャチャか。すまんな。俺に付き合わせてしまって」
「べつに構わないさ。名探偵のパートナー誕生を見届けるのもまた、ワトスンの役目の一つなのだからね」
ミステリ同好会のものと比較するとだいぶ立派な軽音楽部の部室に到着すると、そこには守屋が先に到着していた。
どこか寂しそうな表情すら浮かべて、俺の方を見つめている。
せっかくの寂寥感だが、悪い意味で無駄になりそうでこちらが憂鬱になった。
「入ろう、シャーロッくん」
「お、おう」
やがて守屋は軽音楽部の部室内へ、躊躇なく足を踏み入れる。
突然の闖入者に驚いているのか、高価そうな楽器を持った部員たちが不審げに俺たちの方を見ているが、そんな視線はお構いなしといった様子で守屋はズンズンと部屋の奥へ進んでいく。
まさか彼女にこんな度胸があったとは。
これはやはり俺ひとりでは絶対に無理だったな。
「有栖川さん、ちょっといいかな?」
「あら? あなたはどちら様? ……あ、そっちは島田くんじゃない」
「ど、どうもです」
それなりに広い部室の片隅。
まさにゾーンといった雰囲気で、異様にポッカリ空いたスペースに彼女はいた。
麻茶色のギロを片手に、精巧な造り物にすら見える美しい顔を困惑に染める、有栖川アスミその人の姿がそこにあった。
緊張で胸が高鳴る。
中身がアホだと分かっていても、いざ目の前にしてしまうと、その神々しいとすら形容できる存在感に圧倒されてしまう。
「僕は二年C組の守屋。実は有栖川さんに訊きたいことがあるんだ」
「あら? そうなの? カルボナーラの作り方なら、私には教えられないわよ?」
「大丈夫。誰もパスタの話なんてしてないから。とにかくちょっと来て」
「え、ええ、べつに構わないけれど……?」
やたら張り切っている守屋は有栖川の白皙の手を掴むと、そのまま部室の外に連れ出す。
あまりの迫力のせいか。
彼女を止める者は誰もいない。
この件の当事者にも関わらず、今のところまともに発言していない俺は、馬鹿みたいにその背中を追うだけ。
「それで話っていうのは何かしら? モリタさん?」
「モリタじゃなくてモリヤ。それでまあ、話っていうのは大したことじゃないよ」
部室の外に無事有栖川を連れ出すことに成功した守屋は、これまで見たことがないくらいに真剣な面持ちで向き直る。
その澄んだ視線に何か思うことがあったのか、有栖川も顔を精悍に引き締めた。
「そこに間抜け面を晒してぼうっと突っ立ってる男がいるでしょ?」
「え? 島田くんのこと?」
「そう。彼、島田紗勒のこと」
「彼がどうしたのかしら?」
「単刀直入に訊くよ、有栖川さん」
そしてついにその時は訪れる。
結局俺にまるで言葉を差し込む暇すら与えず、どうやら俺の優秀な、あまりに優秀過ぎた助手は、決定的な言葉を紡いでしまうらしい。
「あなた、島田くんのことが好きでしょ? 友達としてとか、人としてとかじゃなくて、ひとりの男性として」
刹那、時間のネジが外れたかのような錯覚に陥る。
ただでさえ大きな有栖川の蒼い瞳が瞬きを繰り返し、ゆっくりと、しかし確かに俺に真っ直ぐと注がれる。
表情はどこまでも真剣なまま、数秒の間を置いて、そして有栖川アスミは、俺たちの推理への答え合わせを明確な言葉によって行うのだった。
「……いいえ。私は彼、島田くんのことが好きではないわ。友人の一人だとは思っているし、人としても尊敬できるとは思っているけれど、ひとりの男性としては、少なくとも今の私は、彼に一切興味を抱いていないことは確かよ」
あまりにあっさりと決定的な答えを返され、俺は思わず呆けてしまう。
念のため耳クソでも詰まっているのではないかと指でほじくり返してみる。
とても綺麗だった。
それでも聞き間違いの可能性はまだ残っている。
ここは非常に重要な場面だ。
意識を集中させねば。
「私は島田くんに恋愛感情なんてまったくもっていないわ。これっぽっちもね」
しかし有栖川は追い打ちをかけるように全面否定の言葉を重ねていく。
あのアホの有栖川とは思えないほどに、きっぱりと俺に惚れていないという強固な意志を見せつけてくるではないか。
「は? え、え、え? それは、どういうことかな? 有栖川さんは彼のことが好きなんだよね?」
「いいえ、好きではないわ。さっきからそう言っているじゃない、タモリさん」
「う、嘘だ。そんなわけはない。絶対に有栖川さんは島田紗勒に惚れているはずだ!」
「いいえ、惚れていないわ。何度も言わせないで頂戴。私は、少なくとも今は島田くんに好意を抱いていないの」
この考えられる限り最悪の羞恥的なシチュエーションを創り出した張本人である守屋は、なぜか俺以上に取り乱している。
というかそんなに何度も俺に惚れていないという言葉を繰り返さないでくれ。泣きそうだ。
だいたい有栖川は少し怒っている気さえしてくる。
こんなに流暢に意味の通る言葉を話す有栖川の姿なんて初めて見るぞ。
「そんな馬鹿な……いや、しかし……状況的に考えて、有栖川アスミは確かにシャーロッくんに惚れていたはず……」
「なぜそのような勘違いをしているのかはわからないけれど、さっきから私が口にしている言葉に嘘偽りは一切ないわ」
ここぞとばかりに有栖川は俺へ言葉のナイフをザクザクと差し込んでくる。
一方守屋はというと自分の推理が外れたことが余程ショックなのか、顔を俯かせ、完全に自分の世界へと引きこもってしまった。
しばらくの間はおそらくこちらの声は届かない。
学年トップクラスの成績を誇り、なぜサンコーなんかにいるのか分からないほど抜群の頭脳を持つ守屋は、ああ見えて中々の自信家なのだ。
手紙の差出人が有栖川アスミであるとあそこまできっぱりと断言したにも関わらず、結果はご覧の通りトラウマ級の大惨事。
これまでは俺が持ち込んだ相談事に対し見事な解決を導いてくれたこともあって、余計に精神的な動揺が大きいのだろう。
「あ、有栖川さん、一つ訊いてもいいか?」
「あら、島田くん。なにかしら?」
俺は僅かに残された希望を胸に、どうしても確かめておきたいことを尋ねる。
そうだ。
何も俺と守屋は適当な理由で有栖川が俺に惚れていると判断したわけではない。
補講の状況、そして何よりも中学時代、俺の妹に話しかけたという過去の情報から、これ以外の回答はないと推定したのだから。
「俺と君が同じ中学校出身だということは知っているか?」
「……ええ、よく覚えているわ」
「な、なら、中学時代に、俺の妹に君が話しかけたことがあるというのも、覚えているのだろう?」
「……ええ、それもよく覚えているわ」
震える声でなんとか訊いてみれば、やはり小楠の話は本当であったことが分かる。
あの頃の俺たちには何の関わりもなかったはずだ。
しかし、有栖川は俺の存在を知っていたと言い、小楠に声をかけたことも事実だと認める。
なら、これはやはり、そうなのではないか?
少なくとも、俺に特別な興味関心を持っていることの証明にはならないのか?
「そ、それはなぜだ? 俺たちは特に何の接点も持っていなかっただろう?」
「……島田くんは、花壇によく水をやっていたでしょう?」
「は?」
すると有栖川の話がいきなり飛躍するので、俺はいとも簡単に置き去りにされる。
いつものアホな部分がついに表面化したのだろうか。
もしそうなのだとしたら、これ以上の会話は不可能になる。
「実は私、お花さんが好きで、気が向けば勝手に種を植えていたの。でも私は忘れっぽいから、よく世話をするのを忘れていた。それでも不思議と花は枯れることがなかった。なぜだろうと、私は不思議に思ったわ。だけどある日、見かけたのよ。熱心に花壇に水やりをするあなたのことを」
そこまで有栖川が喋り、俺はなんとか会話の内容に追いつくことができた。
どうやらまだアホ全開というわけではないらしい。
たしかに俺は中学時代、昼休みなどによく庭に水をやっていた。
その理由は単純に暇で、自分の教室にも居場所がなかったので時間潰しのアリバイ代わりにしていただけだ。
ただ記憶が確かなら、俺が水をやっていたのは花壇でもなんでもなく、ただの土庭だったはずだが、きっとその部分は大きな問題ではないのだろう。
「だからあなたのことは中学校の頃からよく知っていたわ。あなたの妹さんも、顔を見ただけですぐにわかったから、つい声をかけてしまったの」
そしてあっけなく有栖川は事の顛末を話し終えてしまう。
聞いてしまえばなんてことはない。
俺の気まぐれによって行っていた花の世話が、これまた有栖川の気まぐれな感謝を誘っただけという話だった。
僅かに灯っていた希望の光がついえるのを感じ取り、俺はがっくりと肩を落とす。
「そ、そうか。……その、なんだ。すまなかったな。迷惑をかけた」
「いいえ、迷惑なんてことはないわ。島田くんとのお喋りは楽しいもの」
なんということだ。これが天使という奴なのか。
突然ただのクラスメイトに過ぎない冴えない男子生徒が、なあ? お前、俺に惚れてんだろ? など意味不明かつなんとも腹立たしい言いがかりをつけてきたのにも関わらず、赦しはおろか、慈しみの言葉すらかけて頂ける。
さすが二年A組のアイドル。
サンコーの女神だ。
彼女ほどの頭の出来以外が完璧な美少女が俺に惚れているだなんて。
なんて俺は驕り高ぶっていたのだろうか。
愚かとしか言いようがない自分が本当に恥ずかしい。
「では俺たちはこれで失礼する。重ねて詫びよう。本当に申し訳なかった」
「謝る必要はないわ。むしろ中学の頃のお礼を言わせて。私の我が儘で植えた花を代わりに育ててくれてありがとう」
「いやいや、やめてくれ、有栖川さん。君が頭を下げる必要なんてこれっぽっちもないんだから」
「そう? 私はそうは思わないけれど?」
恭しく礼をする有栖川に、俺は慌てて頭を上げるようお願いをする。
あの有栖川アスミに頭を下げさせたなんて他の生徒に知られたら、俺は明日から村八分なんてもんでは済まされない迫害を受けること間違いなしだ。
「では今度こそ、これで失礼する。ほら行くぞ、チャチャ。自慢の推理が外れたからって、いつまでへこんでいるつもりだ」
「……あり得ない……間違っているはずは……」
守屋はまだこちらの世界に戻ってこない。
まだまだ時間がかかりそうだ。
ここまで落ち込まれると、むしろ俺の方が悪い気分になってくる。
実際には盛大に恥をかいて、ついでに軽くフラれたのは俺の方なのに。
「それじゃあ、また明日、島田くん」
「お、おう。また明日」
散々迷惑をかけるだけかけて去って行く俺たちに、有栖川は聖母かと見紛うかのような微笑みを送ってくれる。
なんて心優しい人なのだろうか。
非常にお付き合いしたい。
もちろん残念ながらそれは叶わない。
もはやその事に疑いの余地はなかった。
しかし、俺の心はそこまで落胆しているわけでもなかった。
当然理由は、この胸ポケットの中に丁寧にしまい込まれた差出人不明のラブレターにある。
たしかに有栖川アスミが俺に惚れているわけではなかったが、だからといって、この手紙に意味がなくなるわけではないのだ。
解答を間違えはしたが、冷静に考えればそれは大した問題ではない。
俺に告白した人物は確実に存在する。
その歴然たる事実がある限り、俺の心は逸ったままなのだ。
「……とりあえずいったん状況を整理した方がよさそうだな」
俺はいまだ正気を取り戻さない守屋をミステリ同好会の部室に押し込んだ後、ある場所へひとり向かうことにした。
有栖川アスミが俺に惚れていないと分かった今、やるべきことは一つだ。
違和感の正体は、きっとあそこに行けば見つかるはずなのだった。
初夏の気配を運ぶ、生温い五月の風。
俺が勝手に開け放った窓の外を覗き込み、悲しくも嬉しく近代化の進んだ地方都市の街並みを眺望する。
傷心ほどほどに俺がやってきたのは、運よく施錠されていなかった二年A組の隣りの空き教室だった。
一昨日この部屋で、俺はたしかに誰かに思いを伝えられたのだ。
「ここが有栖川の座っていた席で、そこが俺の座っていた席か」
寂しさを紛らわせるために独り言を呟きながら、改めてだだっ広い教室を見渡す。
清掃用具の入ったロッカー、かつて使用されていたのだろう今はがらんどうの水槽、等間隔で置かれた幾つかの椅子と机、それなりにしっかりとした造りの教壇。
この空き教室にあるものは、他の教室で見られるものと何ら変わりはなく、珍しいものなど何一つない。
有栖川が座っていた席に座り、試しに二つ後ろの俺が座っていた席に手を伸ばしてみると、想像していたより手を届かせるのが難しいことがわかった。
身体をやや浮かせ、目いっぱい腕を伸ばさないと届かない。
きっぱりと有栖川本人に否定されたことでクリアな思考によって、いかに俺の推理が道理の外れたものだったかを今更ながら思い知る。
改めて考えれば、この部屋に一番最後にやってきたのは有栖川だった。
他の二人は俺より先に教室に来ていたが、彼女は俺より後に来たのだ。
つまり、他の二人とは違い、有栖川は唯一、俺がどこに座っているのかを把握した状態で自分の席を選べたことになる。
それなのに手紙を渡しやすい両隣や、前後の席を選ばなかったのは不自然ではないか。
そもそも、有栖川は俺と同じクラスだった。
あえてこの数学の補講中でなくとも、手紙を出したければ出す機会はいくらでもあったはずだ。
「ふっ、俺はとんだ大馬鹿者だな」
考えれば考える程、手紙の差出人を有栖川だとすると奇妙な事柄が浮かび上がる。
なぜこんな簡単なことにもっと早く気づかなかったのだろうか。
人間、やはり思い込みというものに弱いらしい。
「……では誰、ではなく、どちらが俺に手紙を渡した?」
先入観の檻から飛び出したおかげか、普段の数倍の速度で脳味噌が活動している気がした。
有栖川が候補者から外れた今、俺に惚れている可能性があるのはたった二人だけだ。
良い意味で有栖川並みに有名で、さらにこれまた有栖川並みに人気のある天真爛漫スポーツ系美少女、“法月知恵”。
悪い意味で有栖川並みに有名だが、理数科目に関してはあの守屋以上の成績を誇るギャップ系不良美少女、“西尾響”。
この二人の内、どちらかが俺に惚れているということになる。
では、いったいどちらが俺に惚れているのだろうか——、
「はっ!?」
——その時、天啓の如き閃きが俺の脳天に走る。
なんということだ。
なんということだ!
こんな単純明快な事にこれまで一切気づかなかったなんて、自分の迂闊さには感嘆すら抱く。
守屋に相談をしにミステリ同好会へ行った時から燻っていた違和感、その違和感の正体に俺はやっとたどり着いた。
「……なぜ、あの“西尾”が数学の補講に出席している?」
そう、そもそも彼女がこの教室にいたこと自体がおかしいのだ。
人文の守屋、理数の西尾と称されることから分かるように、西尾響という女子生徒は数学が抜群にできる。
そんな彼女が、何度も小テストで基準点未満を取らないと呼び出されない補講に姿を見せるのはおかしい。
さらに言えば、彼女は一応不良という奴だ。
仮にも不良を名乗る者が、馬鹿正直に補講へ時間通りはおろか、時間前に出席するのは些かな不自然が過ぎる。
ゆえに考えられるのは、計画的に、自らの意志でこの数学の補講に参加したという推論。
「たしかあいつが座っていた席は……」
そんな西尾が座っていた席、それは教室全体が見渡せる最後尾の列だった。
俺がどこに座ろうと、常に視界内に捉えることが可能で、しかも他の補講対象者の動きも監視することができた。
教室にいた他の誰かが西尾の目を掻い潜って手紙を俺の机に置くことは非常に困難だが、反対に西尾は最も容易に俺の机に近づけただろう。
バラバラだったパズルのピースが嵌まっていく感覚。
今度こそ綻びのないように思える秩序だった論理。
理数の秀才という似合わぬ顔を持つ学年の問題児である西尾響が、もう一つ奥ゆかしく乙女な顔を隠していた可能性。
やはり
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