八話【稲井光亜の過去】

「私が〈Colorful Bullet!!!〉で強くなれた理由、知りたい?」


 空腹が満たされた安堵感からか、稲井は穏やかな表情を俺に向けた。


「どうした、急に?」

「天宮君だけお兄さんとのことを話してくれたのに、このままじゃフェアじゃないかなって」

「別に気にしなくていいのに。でも、話してくれるなら聞きたいな。ひょっとしたら強くなる参考になるかもしれないし」

「参考にはならないと思うけどね。私、小学生の頃に酷い事故に遭ったの」


 その話なら体育の先生に聞いた。脚を切る寸前の大怪我だったが、今は激しいスポーツを除けば問題ないと聞いたが。

 稲井は昔の光景を思い浮かべるように天井を見上げた。


「幸い脚は切らずに済んだんだけど、長いリハビリは必要だったの。リハビリって辛いイメージが強かったから、その後のリハビリ生活を考えると怖くて仕方がなかった」


 俺も同じイメージだ。小学生の女の子となれば不安の度合いも相当なものだろう。


「だけど、その不安を緩和してくれたのがVRを使ったリハビリだったの。リハビリって精神的にも辛いんだけど、VRの中で世界中を歩いている体験は私に明るいイメージを与えてくれた。『このまま歩けなかったらどうしよう?』って不安はいつの間にかなくなっていたの」

「なるほどな」VRでのリハビリは今でも一般的ではないが、裕福な稲井家ならツテもお金もあっただろう。「小さな頃からVRに慣れ親しんだのが強さの秘密だったわけか」

「……まあ、そんな感じかな」


 彼女の言葉には「それ以外にもあるんだけど」と含まれているように感じた。しかし俺が追求する前に、この話はおしまいと言わんばかりに稲井はハンバーガーの包み紙を思い切り丸めた。

 まあ、いくらランクC3の俺が話し相手でも、自分の強さの秘密をべらべらと明かすわけはないか。


「私が言いたいのは、苦しい状況ほど強くなれるチャンスってこと! さあ、後半戦を始めるわよ」

「ああ、よろしく頼む!」



 俺たちの特訓は夕方まで続いた。これ以上の疲労は翌日の本番に影響を与えるかもしれないし、家で待機しているであろう正輝さんの我慢の限界が訪れるおそれもあったからだ。

 最後のプラクティスの反省を終えたところで、俺たちは遊治さんに断って先に帰ることにした。遊治さんは筐体の設定を元に戻す名目で店内に残ったのだが、稲井に隠れて俺にウインクしたところから、どうやら気を回してくれたらしい。

 窓を閉め切っていたうえに筐体の熱がこもっていた二階フロアは暑かったので、店外で風に吹かれると五月とは思えないほど涼しい。隣を見れば、稲井も同じ気分なのか金の髪をなびかせながら風を感じている。思わずその髪に触れようと手を伸ばしそうになった。

 俺がつい見惚れていると、彼女が顔をこちらに向けた。


「ねえ、天宮君」


 稲井がちょっといたずらっぽい笑みを浮かべたのでドキッとした。


「これは最後に言おうと思ってたんだけどね」

「お、おう!」

「もしも明日、天宮君がお兄さんに勝ったらご褒美をあげる。今日は私にとってもいい経験になったから、そのお礼も兼ねてね」


 ご褒美?

 男子高校生がクラスメイトの女子にそんなことを言われたら、よこしまなことを考えずにはいられないじゃないか!


「どう? やる気出た?」

「ああ、ありがとう! 絶対に勝ってくる!」


 威勢よく返事すると、稲井はニッと白い歯を見せて笑った。

 まさか……キス⁉ ラブコメだとそんな展開が多くないか?

 さっそく邪な妄想が膨らみそうになっていると、夕焼けに染まる街を蹴散らすように暴力的なエンジン音が近づいてきた。果たしてやって来たのは、夕焼けよりも赤い車体の外車で、運転席の正輝さんの顔も怒りか焦りか赤黒く染まっていた。


「光亜、無事か⁉ お兄ちゃんが来たからにはもう安心だぞ!」


 まるで変質者扱いだ。俺は今日一日、現実の稲井には指一本触れていないのに。


「お兄ちゃん、そんな言い方したら天宮君に失礼でしょ!」

「だけどな、お兄ちゃんはお前のことが心配で……。今日なんか何も手に付かなくてだな……」

「お兄ちゃんには送り迎えとか感謝してるけど、私のゲーム仲間を邪険にするなら嫌いになるからね!」

「そ、それだけは勘弁してくれ!」


 コスプレ姿の少女に瀟洒な青年が叱られている光景に、すれ違う人たちが好奇の視線を向けながら去っていく。俺もできることなら早く立ち去りたい。

 愛する妹の叱咤に正輝さんはくずおれそうになったが、どうにか踏みとどまり、俺のほうに歩み寄るとぎこちない笑みを浮かべた。


「あ……天宮君っ……! 今日は俺の妹と、あっ……遊んでくれて……ありがとうっ……!」


 正輝さんの大きな手が俺の肩に乗せられると、ぶるぶると震えが伝わってくる。


「い、いえ……どういたしまして」

「こっ、これからも……妹と遊んでくれっ、くれないか……?」

「……俺で良ければ」

「そっ、そうかそうか! アッハッハッ!」


 乾いた笑いが逆に怖い。


「それじゃあ、光亜! お兄ちゃんと一緒に帰ろう!」

「うん。天宮君、明日は頑張ってね!」


 パタパタと手を振りながら車に乗り込む稲井に、俺も手を振り返す。

 稲井が乗り込んだ直後に正輝さんの限界が訪れたのか、赤い外車はグオンと唸りを上げて飛ぶようにライスボックスを後にした。正輝さんの幻でも見ていたのかと思えるほど鮮やかな去り方だった。


「なんか……楽しかったな」


 厳しい特訓ではあったが、高校生になってから最も楽しい一日だったのは間違いない。こんなに満ち足りた気分になれたのは、大会後に「好き」と告げてしまったとき以来か。

 こんな気持ちじゃ、今後学校でどうやって顔を合わせればいいのか分からない。それとも、俺が惚れたのはブライトの稲井で、普段の地味な姿にはなんとも思わないのか。

 二つ折りの携帯電話を取り出して電話帳を見ると、新たに登録したばかりの「稲井光亜」の名前が眩しい。本当はSNSアプリで友達登録をしたかったが、ガラケーは非対応だった。


「……よし、決めた!」


 俺は決意を固めると、サドルにまたがり家路についた。



 帰宅した俺は、自分の部屋でくつろいでいた兄さんにリベンジを申し込んだ。やはり予想していたのか、驚くほどのことでもなかったのか、兄さんは二つ返事で承諾した。

 ライスボックスで稲井と別れたときは、彼女が学校で見せない笑顔やご褒美に浮かれていたが、リベンジを申し込んだ瞬間に余計な欲は身を潜め、純粋に「勝ちたい」という気持ちだけが残った。

 これで負ければ、俺は本当の負け犬になるだけでなく、丸一日付き合ってくれた稲井にも申し訳が立たない。


「絶対に勝つから」


 最後にそれだけ告げ、ドアを閉めた。

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