第34話アブード

「ひっどい話だなあ。普通、初手で疑ってかかる? 姿も声も完璧に仕上げたつもりなんだけど」

「猿真似に自信があるのは結構。しかし重心、歩幅、他にも色々言いたいことはあるがなによりその不快な目付きよ。この町を守る者がそのような下卑た視線で人間を見るものか」

「ふぅん。そういうもんなんだ。ご忠告どうも。それで、えーっと。この姿の人間についてだろ?」


 私に蹴られた首をさすりながら、お兄ちゃんもどき——幻影竜アブードは億劫そうに語りだしました。


「死んだんじゃないかな? 足の腱を切って腐肉の中に叩き込んでやったからさ。あそこに落ちたら僕でも無事じゃ済まないし。たかが人間があの状況から生きて帰れるとは思えないなあ」 


 お兄ちゃんだったら絶対にしない、不愉快な人を見下した視線がヴァニちゃんを値踏みします。

 その魂胆は明け透けて見えました。変装が見破られたことに焦り、会話の主導権を握ることに執心しているようですね。


 お陰で知りたいことは聞けました。


「ふむ。息の根が止まったのは確認していない、ということかの」

「そうだね。彼が落ちるところの間抜け面は拝んだけど。死んだところまでは見てないな」


 その一言で、ヴァニちゃんも私も取り敢えず安堵の息を吐きます。

 

「……なにかな、その態度。さすがにイラつくんだけど」

「貴様、少しばかり涼太を舐めすぎじゃぞ。足の腱を斬るだけとは随分と甘い……いや、涼太の闘気に臆したな? あの子はその程度では腐肉に落ちぬわ」

「……へえ。あの人間も翼とか生やせるわけ?」

「くくく、我らじゃあるまいに。あの子はただの——少しばかり強い人間じゃ。アブードよ、一つ良いことを教えてやろう」


 ヴァニちゃんはそう言うと、白い指をすっとアブードに向かって伸ばしました。


「『やったか!?』と思った強敵は大抵やれておらん。我に助けに行けるかも、と思わせた時点で仕留め損ねたんじゃよ、貴様は」

「…………はあ? なにそれ、君もドラゴンなら理屈で語ってくれないかな」


 会話にならない、と不愉快そうに眉を顰めるアブードの言いたいことは分かります。ですが、お兄ちゃんはヴァニちゃんの期待には必ず応えてくれる——いつも当たり前のように思っていたけど、お兄ちゃんの火事場の底力は普通じゃありません。


 それをこのアブードに教えてあげても納得はしないでしょう。お兄ちゃんのパワーは理屈抜きで考えないといけませんからね。


「それより理解できないのは貴様の行動じゃろ。なぜダンジョンコアを破壊した? あそこは貴様を慕うリザードマンの住処のはずじゃがな」

「……? なに眠たいこと言ってるのさ。僕が地上に出られればいいのに、なんでわざわざトカゲどもの面倒を見なきゃ行けないんだい。それにドラゴンの手下を巻き込めるならダンジョンもアイツらも本望だろうさ」

「ははあ、びっくりするくらい下種じゃな。トカゲに愛着はないが奴らには同情するぞ」

「あはは、そいつは僕も同感。長い時間をアイツらと過ごしたけど、愛着なんてこれっぽっちも湧かなかったよ。——同情したくなるくらい愚鈍でね」


 竜守市を襲ったリザードマンは倒すべきモンスターでしたが、アブードの言葉はあまりにも非道なものでした。竜を慕う者として、同じ境遇にいる彼らの最期は不憫という他ありません。


「いい加減、お兄ちゃんの姿を解いてもらえませんか? これが最後の警告ですよ」

「……不意打ちの一発だけでいい気になるなよ、人間のガキが。竜と同じ位置から喋るなって、君のご主人様に言われなかったのかな?」

「邪竜に教わるものはなにもありません」


 悪しき竜は滅ぶべし。竜守市を守る一人として、災いをもたらす竜の存在は看過できません。


「ははは、我が人間を躾ける? 逆に躾けられてばかりじゃよ。やれあぐらをかくなだの、茶碗には手を添えろだの、麦茶を飲んだら補充しろだのな。貴様には分かるまい。躾けとは健やかな生活を送るために必要な礼節を教えることであって、貴様を気持ちよくするために媚び諂う方法を教えることではないぞ」

「……なんだ、それ。ようするに人間を飼い慣らせていないってことか?」


 まるでヴァニちゃんの底が見えた、とでも言いたげにアブードは鼻で笑います。


「なら僕が有効活用してやるよ。君のお陰で人間も僕らの爪ほどには強くなれると分かったことだし。僕が天に至るのに素材としては申し分ないからね!」


 唾棄したくなるような台詞をしたり顔で語るアブードを、どのように対処すべきか私は視線でヴァニちゃんに尋ねます。


 怒りと呆れ。格の違いは天と地ほど離れているとはいえ、同胞の愚かな立ち振る舞いにヴァニちゃんは様々な感情を込めて深い溜め息を吐き出しました。


「小鈴、防御結界を張っておくれ。我が直々に躾けてやらねばならんようじゃからな」


 ◆


 死んだな、これ。そう思うことは人生で何度も経験しているが、そういうときは決まって身体が勝手に動く。

 爪が割れるのも構わず壁面に指を突き立て、左足と両手で全体重を支える。あと一秒でも手を伸ばすのが遅れれば、俺は腐肉に呑まれていただろう——眼下で蠢く黒い塊を見ながら、俺はごくりと生唾を飲み込んだ。


 死ぬ覚悟はできていたが、やはり死に方を選べるなら精一杯生きて眠るように死にたい。竜守家の人間でそれが叶えられた人間は何人いたかは知らないが、きっと俺の死に様は痛々しいものになるだろう。こんな生活していたら、いくら俺でも天寿を全うするなんて夢のまた夢だ。右足の激痛に歯を食いしばりながら、嫌でもそんな想像をしてしまう。


「くそ、遠いな!」


 見える出口は遠い。僅かに見える光は遥か頭上にある。普段の俺なら気合いで登りきれるだろうが、この腱の切れた右足ではどうにもならない。


 それでも。


「アイツの期待は裏切れないよな……!」


 どうせ根拠のない信頼だけで、俺がいつものように無事脱出するとでも思っているのだろう。だが、竜守家の長男としてヴァニの期待にだけは死んでも応えろ。

 

 気合いを入れ直した直後であった。上から落ちてくる腐肉が、俺の背負っていたザックを掠める。瞬間、ジュワッという聞き慣れない音とともにザックが軽くなった。


「……なるほど、腐肉に触るのこうなるのね」


 溶けた、と表現すべきなのだろうか。ザックの6割が一瞬にして無くなり、中に入っていたナイフやらフライパン、収集物までもが半壊した状態で下に落ちて行く。ははん、嫌なもん見ちゃったな……!


 左足と両手を器用に使って、いつ崩れても不思議じゃない足場を登る。上から垂れてくる腐肉を回避しながら行う、命綱無しのクライミング。自分で言うのもなんだが、死なない方がどうかしている。


 しかし、運命は残酷なもので——どれだけ死力を尽くしても、まるで嘲笑うかのように俺を絶望の淵に叩きつける。


 プール一杯分はあろうかという、巨大な腐肉の塊がトドメと言わんばかりに落ちてくる。防御は無理、右にも左にも回避不可能。残るは後方、足場のない空中のみ。


「……ッ!」


 選べるのは死ぬタイミングだけだった。上から落ちてくる腐肉に呑まれるか、下方で蠢く腐肉に呑まれるか。後者の方が僅かに延命するだろう。


 生きて帰ったら、まずあの調子に乗ったアブードとかいう竜に一発ぶち込む。誰がなんと言おうとだ。そうじゃなきゃ気が済まねえ!


 腹に力を込めて、覚悟を決める。一難去ってまた一難、笑いたくなるほどの苦境なのに、それでも希望の灯は消えやしない。


 意を決して、壁を蹴る。それに一拍ほど遅れて、俺のしがみついていた場所を腐肉が流れ落ちる。


 俺が、俺自身にできるのはここまで。空中に投げ出した俺の身体は、重量にされるがまま眼下の腐肉へと吸い込まれていく。


 だがまだだ。まだ諦めちゃいない!


「ヴァニ——!」


 叫び、その手を掴むべく俺は手を伸ばす。そして、その手は俺を見事に掴んでみせた。


「……」


 物言いだけに俺を睨め付けるギョロリとした大きな瞳。積載重量5キログラムのはずなのに、俺を容易く持ち上げる昆虫のような足。羽ばたく大きな翼は、まさしくドラゴンのそれ。

 

「ブラックドラゴン・ヴァニカスタムぅ!?」


 今日この日、俺がドローンの買い替えを検討しなくなったのは言うまでもない。

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