幕間 二
第100話 冒険の始まり
どれだけ朝が来ようとも、そう簡単に世界は姿を変えてはくれない。
変わるのはいつだって自分自身。目の前の景色が昨日と違って見えるのは、きっと世界を見つめる自分というフィルターが昨日よりも少しだけアップデートを重ねたからだ。
今日だってそう。
淹れたての紅茶を片手に、スマホの画面に目を落とすお姉ちゃん。その横顔がどこか嬉しそうなのが分かるようになったのも、きっと私が恋を知ったせいなのだろう。
「……そんなに熱心に見つめてどうしたんだ、モモ」
それは、伊都先輩から招待してもらったSMS同好会のお泊り会から一週間ほどが過ぎたある日の朝のことだった。
相変わらず気温も上がりかけだというのに、今日も忙しなく外では蝉の大合唱が始まっている。それとは裏腹に暑がりなお父さんのおかげで、今日も我が九条家のリビングには既にひんやりと涼しい空気が朝一番から漂っていた。
私はというと、夏休み真っただ中というのにかまけて今日も少しだけゆっくりとした起床だ。ジトリと肌に張り付くパジャマに少しばかりの不快感を感じながら、二階の自室を抜け出してリビングへと降りる。
そんな折に見かけたのが、既に出掛ける準備万全でリビングでくつろぐ我が姉
「あ、いや、な、なんでもないっ」
「なんでもないなんてことないだろう?」
「いやっ、その、どこかに出掛けるのかなって思って」
その横顔に一瞬ドキリとして、ついその場を取り繕うようなセリフが口を付く。普段はシックな印象の部屋着を愛用している姉が、既に年相応に女性らしい格好をしているだけでこの後に誰に会うのかなんて明白だった。
「あぁ、今日は生徒会で打ち合わせなんだ」
「そ、そうなんだ……」
お姉ちゃんは私の通う青ヶ峰高校の生徒会副会長だ。美人で勉強のできるお姉ちゃんは私と違って学校の生徒にも人気がある。集会や学校行事なんかでみんなの前に立つことも多く、クラスの子たちの口からもこの三か月、お姉ちゃんの名前をよく耳にした。
一学期の頃は、そんなお姉ちゃんの姿を見るたびにまるで知らない人を見ているような寂しさをよく感じていたのを覚えている。
「生徒会の予定なのに私服なんだね」
「美波の奴がケーキバイキングに行きたいってうるさくてな」
そう言ってお姉ちゃんは笑みを零す。相変わらず綺麗で、気高くて、品のある私の好きな笑い方だった。
「ケーキバイキングで打ち合わせって……」
「私もどうかと思うがな。まぁいいさ。私も甘いものは好きだし」
でもそんな笑顔を私に見せてくれるようになったのもお姉ちゃんが高校生になってからだ。いや、正確に言うと……高校生になって半年ほどが経ってからだっただろうか。
「それに、耕平の奢りらしいからな」
お姉ちゃんを変えたのは、間違いなくたった一つの出会いだった。
「あんまり常盤先輩に迷惑かけちゃダメだよ?」
「あははっ、可愛い妹からの忠告はしっかり心に刻んでおくよ」
青ヶ峰高校生徒会長
優しくて、気の利いて、だけどどこか抜けてるところが憎めなくて……。お姉ちゃん経由で何度も顔を合わせている、とっても素敵な先輩だ。ちなみに相園先輩という可愛らしい彼女さんがいて、今は二人で幸せを絶賛満喫中なのだそうだ。
お姉ちゃんの好きだった人。
そして――私の初恋の人でもある。
もし常盤先輩への想いに気づけなければ、きっと私はお姉ちゃんの横顔の意味にも気づくことが出来なかっただろう。
「っと、もう時間か。行ってくる」
出掛けるお姉ちゃんを玄関先まで見送ると、不意に私はその背中に声をかけたくなった。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「お姉ちゃんの今日の格好、常盤先輩にも気に入ってもらえるといいね」
瞬間、お姉ちゃんは普段じゃ決して見ることのできないような驚いた表情を浮かべると、幾度か口をパクパクと開閉して見せた。
『負けヒロイン』
漫画やアニメなんかで主人公と結ばれなかったヒロインたちをネットなんかではそう呼ぶことがあるらしい。だけどそれは決して物語の世界だけの存在じゃない。叶わなかった想いを抱き続けている人たちは、現実にも存在している。
きっとお姉ちゃんも傍から見たらその一人なのだろう。
だけどそんな想いを糧にして歩き続ける人がいる。そういう強さを持った人たちを私はよく知っていた。
「あ、あのなぁモモ、あんまりお姉ちゃんをからかうんじゃないぞ。それに――」
今までの私だったら、きっとその強さに気づくことも出来なかっただろう。
悲しくても、悔しくても、それでも好きな人のために精一杯笑える人たち。それがどれだけ立派で難しいことなのかを、私は身を持って知ることが出来た。
だからこそ、私はお姉ちゃんを改めて尊敬している。
「分かってるって。お姉ちゃんはもう、前に進んでる人だもんね」
「……どういう意味だ?」
「んー、ある人からの受け売りっ」
だからこそ、私は自分の目に映る景色を変えてくれたあの人に感謝をしている。
大げさで、カッコつけで、立派なことが何一つ似合わない。だけど誰よりも目の前の気持ちに真摯に向き合ってくれるあの人のことを、私はきっと――
「モモ、顔が真っ赤だが大丈夫か?」
「へっ!?」
突然の指摘に思わず顔に手を当てると、僅かに頬が熱くなっているのが分かった。
「まぁ、夏は体調を崩しやすいからな。夏休みを満喫するのは良いが、あまり不健康な生活はするなよ」
「わ、わかってるってっ!」
「分かってるならいい。それじゃ」
小言を言い残して去っていく姉を見送ると、リビングに戻った私は思わずソファの上で天井を仰いだ。
「……実際、私はどう思ってるんだろう」
ずっと助けてもらってばかりだったせいで、私は本当のところあの人のことを良く知らない。
知っていることといえば変な同好会の作戦参謀を名乗っていることと、いつも可愛い先輩たちに囲まれていること。最近は自分もその構成メンバーの一員扱いされているけど、実際のところあの先輩たちには一回りも二回りも劣っている。
なりゆきであの場に一緒にいるけど、私はあの人のことをいったいどれだけ知っているんだろう。
「ううん……どうやったらもっと近づけるんだろう。やっぱりもっと知るしかないのかな」
でもどうやって知ればいいんだろう。
直接本人に聞くわけにも行かないし、かと言ってヒメ先輩や伊都先輩、更には先生に聞くのもなんか違うような……。
そんな時だった。不意に手元が震えたかと思えば、いつの間にか部屋からずっと握りっぱなしになっていたスマートフォンの画面がメッセージの受信を告げていた。
「朝から誰だろう。SMS同好会の先輩たち……じゃないだろうし……」
SMS同好会の先輩方とは先日写真の共有をしてもらったばかりだ。綺麗な海に綺麗な砂浜。更には立派な建物も相まって、写真の撮りどころには暇がなかった。
それにしてもヒメ先輩のあの水着姿は……。一つしか年齢が違わないのにまさかあんなにも戦闘力に差があるとは。いや、止めよう。考えるだけで虚しくなる。
「って……桜木先輩?」
メッセージの相手は思ったよりも意外な人物だった。
最近はSMS同好会の活動が中心になっていたけれど、これでも私はクラスでは立派に美化委員を務めているつもりだ。
メッセージをくれたのは、そんな美化委員で入学当初からお世話になっている二年の桜木先輩だった。思い返せば、SMS同好会との初遭遇は桜木先輩と一緒だったな。
『急な連絡ですまない。突然だが市の清掃ボランティアでうちから人員を出すことになって……。頼まれてはくれないか?』
瞬間、不意になんとなくその時が目の前に現れたような気がした。
こういう時、普通の人だったらあっさりと断ってしまうのかもしれない。だけどなぜだかこうしてメッセージを眺めている私は柄にもなくワクワクしている。
いつか誰かが言っていた。いつだって人を変えるのはほんの些細なきっかけだ。
きっとこれもほんの些細なきっかけなんだろう。だけどそれがいつしか少しだけ私の世界を変えてくれるような気がした。
『わかりました。詳しい予定を教えてください』
こうして始まった私のひと夏の些細な冒険が、まさかあんな風に転がっていくなんてこの時の私は思ってもいなかったのだった。
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