『きっかけとクラスメイト』

 どこにでもあるような住宅街を散歩しながら、ぼっーと空を眺める。

 そこに特別な何かがあるわけではない。いつもの真っ青な空に幾つかの雲が流れているだけ。

 今度は南の方角を眺める。

 そこにも特別な何かがあるわけではない。まばらに建つ民家と高速道路、そして四国山脈――言ってしまえばただの山が見えるだけ。

 今度は北の方角を眺める。

 そこにも特別な何かがあるわけではない。いたって普通の街並み。無理にでも何かをあげろと言われれば、この町のシンボルとも言える製紙工場の煙突群と瀬戸内海――言ってしまえばただの工場地帯と海が見えるだけ。

 僕が住んでいる町は高層ビルが並ぶ都会でもなければ、田園が広がる田舎でもない中途半端な町だ。中学の時の社会科教師が「この町は珍しい地形をしていて、平野部が狭く、海と山が近い距離にある」なんてことを言っていたが、18年も見てきた景色に特別なんて感情を今更持つはずがなかった。

 分かってはいたけど、話のネタになるようなものは何一つとしてない。

 まぁ、これはただの気分転換の散歩。だから、そんなものを期待なんてしていなかったけど、それでももう少しぐらい何かあってもいいんじゃないかと、そんなことを考えながら僕は神社の鳥居を潜る。

 幼い頃に友達と鬼ごっこをしたりかくれんぼをしたりして遊んだ思い出の神社。だけど今は境内の中にいるのは僕1人。

 四国八十八ヶ所の寺には土日問わず平日でも人が訪れるが、観光名所でもない、ましてや住宅街に囲まれた中にポツンと佇むただの神社には、土日だろうと行事がなければ人なんて来ないもの。

 前の利用者が座ってからどのくらいの期間が空いているか分からないボロボロのベンチには、近くの木の葉っぱや茎などが大量に散り落ちていた。

 僕はそれらを払い退けて腰を下ろし、スマホのメモ欄を開く。そして、[小説]と題が打ってあるファイルをタップする。

 画面に表示されたのは書きかけの小説。

 展開に、文章に、セリフに――あらゆるものが行き詰まってしまった小説だ。

 僕はプロの小説家という訳ではない。趣味で書いてネットに投稿しているだけの、ただの高校生。

 しかし、そんな僕が書いたような小説でも読んでくれる人はそこそこの数はいて、続きを楽しみにしてくれている人も少しばかりはいる。

 今書いている話の前話を投稿したのはもう2ヶ月も前のこと。それまで僕は少なくとも月に1回、多い時は月に5回は投稿していた。

 続きを待ってくれている人たちの為にも早く続きを書かなくてはいけない。

 僕は1回深く深呼吸をして、書きかけの小説に集中する。

 書いている小説は恋愛もの。内容は、小説家を目指している男子高校生がある出来事から憧れの作家がクラスメイトの女の子であることを知り、物語が進んでいくに連れて2人の関係は進展していくが、中盤で彼女から病気で余命半年であることを告げられて……といった手垢が付きまくったような話。

 僕はいつものように思いついた文章を手当たり次第に書き連ね、あらかた書き終えたあとにその文章を読み返す。

 そして僕はそれらの文章を――全て削除した。

 他の人がどういったやり方で小説を書いているのかは知らないが、僕は考えついた文章をとりあえずそのまま書き、あとから修正や削除を行う、2歩進んでは1歩下がり、また2歩進んでは1歩下がるといったふうに少しずつ進めていくやり方で小説を書いていた。

 だけどこの1ヶ月間は先にそうしたように、書いた文章を全て削除。1歩進んでは1歩下がり、また1歩進んでは1歩下がりの繰り返し。

 自分の書いた文章が気に喰わない。読んでいて違和感を覚える。ただ単純に稚拙。その時その時で理由は様々だが、何も進まない状態が続いていた。

 環境が変われば書けるかもしれないと思い、今日は思い切って外で書いてはいるけど結局は同じ。

 小説を書き始めた中学1年生の夏の頃はこうじゃなかったのに……。と、僕は文字を打つ手を一旦止める。

 あの頃は思いついたことをそのまま書いて、ろくに修正もせずにネットに投稿していた。

 文章が稚拙だろうと内容に矛盾が生じていようとお構いなし。

 あの作品はこうだったらもっと感動できたのではないか? あの作品はこうだったらみんなが幸せになれたのではないか? そんな空想を形にした、きっと誰にも読まれない、自分の為に書いた自分だけの小説。

 ただただ書くことが楽しかった。

 だけど今は違う。

 書き続けてネットに投稿していく内に読んでくれる人は増え、僕の為に書いていた小説はいつしか誰かの為の小説に変わっていた。

 一休みを終えた僕は再びスマホに思いついた文章をひたすら書き込む。

 書き終えたら読み返し、そしてまた全てを削除する。

 書き込んでは消し。書き込んでは消し。書き込んでは消し。書き込んでは消し。永延とそれを繰り返す。

 苦しい。辛い。哀しい。まるで水中の中でずっと足掻いているかのような感覚。

 それでも僕は書くことを止めない。

 どうすればみんなの心を動かせることが出来る? どうすればみんなを笑顔にすることが出来る? みんなはいったいどんな展開を求めてる?

 どこを細かく描写して、どこを省略して、どこを大胆に表現して、どういう書き方をすれば僕が伝えたいことは伝わる?

 どうすれば。どうすれば。どうすれば。どうすればどうすればどうすれば――

  

「どうして泣いているの?」


「うわっ⁈」


 頭の上から降ってきた声に僕は驚き、スマホを落としてしまった。

 スマホは嫌な音をたてながら地面を跳ね、目の前に立っている人物の足下で止まる。


「わわっ⁈ ご、ごめんね! びっくりさせるつもりはなかったんだけど……」


 僕に声をかけてきたのは女性だった。

 彼女は申し訳なさそうな顔をして僕のスマホを拾い上げる。

 持ち上げられていくスマホの画面はメモ欄が開いたまま。

 あっ、マズイ……。

 僕は焦り、ひったくるような手付きで彼女からスマホを奪い取った。


「きゃっ⁈ ちょっと、乱暴じゃない? 奪って逃げようだなんて思ってないよ!」


「すみません。壊れていたり画面にヒビが入っていたりしていないか気になってしまってつい……」


「あー、それは気になるね。調子はどう?」


「……大丈夫そうな感じです」


「そっかぁ、良かったぁ……って、さっきからどうして敬語なの? 同い歳なのに」


「え?」


 僕は女性の顔をじっと見る。そして今更になって、声をかけてきた人物がクラスメイトの女の子であることに気付いた。


「あぁ、菜花さんか」


 そう僕が名前を呼ぶと、彼女は驚いたように目を丸くする。


「私の名前知ってたんだ……」


「いや、同じクラスになったばかりならまだしも、一緒のクラスになってもう半年も経ってるんだ。そりゃあ、クラスメイトの名前ぐらい把握してるよ」


 そうじゃなかったとしても、きっと僕は彼女のことを知っていた。

 いや、僕だけじゃない。多分、同じ学校に通っていて彼女――菜花 旭なばな あさひのことを知らない人なんていないだろう。

 彼女は校内ではちょっとした有名人だ。

 その理由は、今も彼女の首にぶら下げられている大きなカメラ。

 僕たちが通っている高校には写真部はない。だけど彼女は個人で写真を撮って数々のコンテストで賞を受賞し、去年の冬には全日本なんちゃら展という大きなコンテストで金賞を取って校舎に名前入りの垂れ幕が掛けられていた。


「ごめんごめん。だってほら。四葩よひら君は本ばっか読んでいるから他人に一切興味がないもんだと思ってて」


「ずっと本を読んでいるから他人に興味がないってのはかなりの偏見だと思うけど……ん? 今、僕の名前を……」


 僕は菜花さんが自分の名前を知っていたことに驚いた。

 彼女と比べれば、僕なんかいてもいなくても変わらないような存在感の薄い人間だ。

 それに同じクラスとはいえ、彼女とは全くと言っていいほど接点がない。

 僕の顔を覚えてはいても、名前なんて覚えられていないと思っていた。


「同じクラスになったばかりならまだしも、一緒のクラスになってもう半年も経ってるんだ。そりゃあ、クラスメイトの名前ぐらい把握しているよ」


 菜花さんは僕が先に言った言葉をそのままに言うと、してやったりという顔で「ふふん」と鼻を鳴らした。

 なんだろう……これが初めての会話だといっても過言ではないのに、まるで友達と接しているかのような距離感。

 薄々勘付いてはいたけど、菜花さんは僕が苦手とする類いの女性のようだ。

 僕はここから逃……家に帰ろうとスマホをポケットにしまい、ベンチから立ち上がろうとする。が、それよりも先に菜花さんが口を開いた。


「ところでさ、さっきはどうして泣いていたの?」


 菜花さんは不思議そうな顔をしながら首を傾げる。

 そういえばそんなことを言って話しかけてきたっけ。

 目の下を擦って確認してみると微かに濡れていたから、彼女の言った通り僕は泣いていたのだろう。

 泣いている自覚が無かったのでどうして泣いていたかは分からないけど、原因は多分小説を書いていたからだ。

 しかし、それを正直にそのまま話す訳にはいかない。

 小説を書いていることは友人はおろか、家族でさえ知らないこと。

 僕は適当な嘘を取り繕って誤魔化すことにした。


「小説を読んでたんだ。自然と涙が溢れてしまうほど感動する小説をさ」


「ふぅん、そうなんだ。小説を書いていたんじゃなくて?」


「違う」


 否定の言葉は反射で出たものだった。

 どうしてそう思った? まさか、スマホを拾う時に画面を見られた? それともただの冗談?

 平静を装いながらも頭の中では色々な考えが忙しく回る。


「すごく食い気味に否定するね」


「別にそんなことはないと思うけど。ていうか、大学も行かずに就職するような学のない人間が小説なんて書けるわけないだろ」


「そっかなぁ。私はそうは思わないけど」


 菜花さんはニマニマとした笑みを浮かべてスマホを取り出し操作する。

 何をするつもりだ? 高卒の作家を調べて見せつけでもするのだろうか?


「夕日に照らされる窓辺の席。そこに座る彼女は教室に入った僕の存在に気付いていない様子だった。彼女は一心不乱に目の前のノートパソコンを見つめている。ピアノを演奏するように華麗にキーボードをタイピングする彼女の横顔はあまりにも美しく、とても綺麗だった」


「……へ?」


 頭の中が真っ白になって、間の抜けた声が出た。

 菜花さんが口にしたのは僕が書いている最中の小説だった。

 まだネットには投稿していない、誰も読むことなんて出来るはずのない文章。

 ……いや、待て。全く同じ文章が偶然たまたまどこかにあって、それを奇跡的な確率で菜花さんが見つけただけ。僕が書いた文章だと決めつけるには早い。

 そう思ったのも束の間、菜花さんは僕にスマホの画面を見せつける。

 そこに写っていたのは小説を書いている僕の後ろ姿。


「い、いつの間に……」


「ついさっきだよ。周りを3周も回ったのに四葩君ったらスマホに夢中で全然気付かないんだもん。さすがに写真を撮る時は無音カメラで撮ったけどね。それで?」


 菜花さんはそこまで言うと顔をぐいっと僕に近付けた。

 幼さを感じさせながらも美しく整った綺麗な顔が、息がかかりそうな距離まで迫り、喉の奥を蓋で栓をされてしまったみたいに呼吸が止まる。


「これでも小説を書いてはいなかったと言い張るつもり?」


 菜花さんはそう言い切ると不敵な笑みを浮かべた。

 別に言い張っていたつもりはないけど……こうも写真でバッチリと残されてしまっては、否定のしようがない。


「……あぁ、そうだよ。僕は小説を読んでたんじゃなくて、書いてた」


 僕は今度こそここから逃げるためにベンチから立ち上がり、足を進める。

 しかし、菜花さんはすぐに僕の進路を妨害する様に立ち塞がった。


「ジャンルは? 何を書いてるの?」


 ほらきた。小説を書いていることがバレることでさえ恥ずかしいのに、こうやって根掘り葉掘り掘り下げられて更なる辱めを受けることになるから誰にもバレたくはなかったんだ。


「人が沢山死ぬスプラッター系? それとも貞子とかが出てくるホラー系? それともそれとも、ゾンビとかが出てくるようなパニックホラーとか?」


「……その質問で菜花さんが僕のことをどういう人間だと思っているかが分かったよ」


 どうやら菜花さんは僕をとことん暗い人間だと思っているらしい。


「あははっ、冗談だよ。ず、ば、り、四葩君が書いていたのは恋愛小説だ!」


 菜花さんはドラマ等で探偵が犯人を突き止めた時みたいに、ドヤ顔でビシッと僕のことを指さした。

 どうしてこうも一々の動作が大袈裟過ぎるのだろう……。見ているこっちが疲れる。

 もう色々と面倒なので、失礼だから人を指差すのを辞めなさいと言う気にもなれない。


「まぁ、そうだけど……」


「やった、当たりぃ! それにしても恋愛小説かぁ」


 菜花さんは顎を手で擦りながらにやにやと笑う。


「四葩君って学校では一匹狼って感じなのに、ちゃんとそういうのにも興味があるんだねぇ」


 ……あぁ、嫌だ嫌だ。もし誰かに小説を書いているのがバレたらどんな目にあうのかを幾度か想像したことがあったが、その中でも1番最悪な展開を現在進行形で準えさせられている。

 現実の色恋沙汰なんかに興味なんてない。僕はただ、そういう題材の物語が好きなだけ。

 でも、それを彼女に伝えたところで「そう恥ずかしがらなくてもいいんだよ〜」とか言われて茶化されるに決まっている。

 これ以上の会話は時間の無駄。

 何か適当な理由を付けて早く家に帰ろう。


「夕ご飯の買い出しの途中だから、僕はもうこのへんで」


 そう言って僕は早足で菜花さんの横を通り過ぎる。が、すぐに「あっ。待って待って!」と、菜花さんに服の裾を掴まれて僕は動きを止めた。


「その……お願いがあるんだけど……」


 菜花さんが発したその声は彼女に似つかわしくない、しおらしいものだった。

 なんだかとても嫌な予感がする。お願いって絶対に碌なもんじゃないだろ。

 裾を掴んでいる手を振り払って帰ってしまっても別に構わないけど……一応クラスメイトだし、さすがにそれは感じが悪過ぎるからやめておく。

 聞くだけ聞いて、すぐに断ろう。

 そう決めて僕は無言で振り返る。

 振り返ると菜花さんと目が合った。

 彼女は一瞬だけ僕から目を逸らしたが、すぐに戻し、強い意志の込もった瞳を僕に向けた。


「私のことを小説に書いてよ」


 ……は?

 僕は自分の耳を疑った。

 私の“こと”って言ったのか? 私の考えた小説じゃなくて?

 もしかして言い間違えたとか?

 まぁ、どちらにしても嫌なことに変わりはないけど。


「無理」


「えーっ⁈ なんでぇ⁈」


 僕から「うん、いいよ」の二つ返事が返ってくると菜花さんは思っていたのか、彼女は大袈裟に驚いたリアクションをとりながら地団駄を踏む。


「どうして君のことを書かないといけないのさ?」


「え? あー……それは……私はいつか偉大な写真家になるから! その伝記? っていうの? まあ、なんでもいいや。とにかく四葩君に私のことを書いて欲しいの!」


 ……今の菜花さんの反応を見れば分かる。

 彼女はちょっとした思い付きで提案してみただけ。

 私のことを小説に書いてよ――と、そう言った時の菜花さんの瞳には確かな意志が感じられたはずなんだけど……どうやらそれは僕の勘違いで、特に深い意味なんて無かったみたいだ。


「だったら自分で書きなよ」


「私、国語の成績はよろしくないので!」


「大丈夫だよ。小説なんて書こうと思えば誰でも書けるからさ」


「さっきと言ってること違うじゃん! 学のない人間が書ける訳ないとか言ってたくせに!」


「それを言うなら菜花さんだってそうだろ。そうは思わないって反論してたくせに。っていうかそもそもの話、菜花さんって成績悪く無いよね」


「うっ……それは……」

 

 菜花さんはきまりが悪そうに僕から目を背ける。

 こう見えても実は彼女が勉強が出来ることを僕は知っていた。

 というより菜花さんと同じクラスの人なら誰もが知っていることだ。 

 授業中に居眠りをしているところを見たことがないし、どの教科でも問題を振られた時に即答して間違っているところも見たことがないし、テスト期間に入ると女の子たちが菜花さんに教えを乞いに集まっているところをよく見かける。

 国語の成績“は”よろしくないと言っていたので、本当に他の教科と比べれば多少は悪いのかもしれないけど、きっと彼女の言うよろしくないのレベルは、成績底辺の僕でいうところの凄くよろしいに値するレベルのはずだ。


「お願い! こんなに頼んでいるんだよ? 同じクラスのよしみで書いてよ!」


「同じクラスってだけで、そこまでするよしみはないと思うけど?」


「四葩君の薄情者! 今は大した感情を抱いていなくても、大人になった時に『あぁ、あの頃のクラスメイト達って大切な存在だったんだなぁ』って思うもんなんだよ!」


「じゃあ、その大人になった時にでもまたお願いしてくれ」


 思い付きで言っているくせに、どうしてこうまでして菜花さんは食い下がるのだろう?

 多分このままだと、僕が首を縦に振らない限りはずっと堂々巡り。

 話し合いでは埒が明かないのなら、行動で示すしかない。こういうのは逃げるが勝ちだ。

 僕は少し強めの手付きで、未だに僕の服の裾を掴み続けている菜花さんの手を振り払う。


「あっ……」


 お気に入りの物を奪われてしまった子どもの様な顔で菜花さんはそう声を上げた。

 ……心のどこかにちょっとした痛みを感じた気がするけど、きっとそれは気のせい。

 僕は神社の出口に向けて歩き出す。


「待って……」


 後ろから消え入りそうな儚い声が聞こえた。

 だけど、僕は振り向かない。足を止めずに進ませ続ける。

 感じが悪いとか、そんなこともうどうでもいい。

 所詮はただのクラスメイト。どう思われようと知ったことじゃない。


「ま、待ってくれないと四葩君が小説を書いていること、クラスのみんなに写真付きで広めるよー!」


 菜花さんは急に大声でとんでもないことを言い出し、僕は足をピタリと止めた。

 部分部分で感じていた些細な苛立ちが、纏まった一つの大きな怒りに変化していくのを感じる。

 6年も小説を書いているのに、菜花さんにバレた今日に至るまで、誰にも教えたことがなかった。

 僕にとって小説を書いているということは、それぐらい秘密にしていたいこと。


「あのさ、それって脅迫だよ?」


 僕がそう言って振り返ると、菜花さんはビクッと体を震わせた。

 ……僕はいったいどんな顔をしていたのだろう。

 自分のことだから分からないけど、きっと怒りを露わにした顔をしていて、もしかしたら声にも感情が込もっていたのかもしれない。


「だ、だって、四葩君が……帰ろうとするから……」


 弱々しく怯えた声で菜花さんはそう言うと、彼女の大きく丸い瞳に今にも溢れ出しそうな程の涙が浮かんだ。

 ……なんというか、そういった表情をするのは卑怯だ。

 誰が最初に言ったかは知らないけど、女の最大の武器は涙とはよく言ったものだと思う。

 大きな怒りは一気に飛散し、菜花さんを泣かせまいと、脳が勝手にそっち方向に舵を切り出していた。

 菜花さんは思い付きで小説を書いて欲しいと言っているだけ。どうせすぐに飽きるだろう。僕もずっと小説が書けない状態が続いているから、気分転換に実際の人物をモデルにした小説を少しぐらいなら書いてやってもいいかもしれない。


「はぁ……。分かった、書くよ。だから、そういう顔をするのはやめてくれ」


 僕がそう言うと、菜花さんの顔はさっきまでの表情が演技だったかのようにパアッと一気に明るい表情へ変わった。


「ほ、本当本当⁈ 書いてくれるの⁈ 嘘じゃない⁈」


「嘘じゃないよ。でも、条件がある」


「条件? まさか……触りたいところを好きなだけ触らせて……とか?」


「さよなら。この話はなかったということで」


「わーっ! 嘘嘘嘘! 冗談だって! 調子乗りました、ごめんなさい!」


 菜花さんは出口に向けて歩き出した僕の目の前に急いで回り込み、反省などこれっぽっちもしてない笑顔で何度も頭を下げる。

 つい数秒前までは目一杯に涙を溜めていた人とは到底思えない。

 まさかさっきの菜花さんの泣きそうな顔は本当に演技で、僕はまんまと騙されてしまったのではないか……?


「で? で? その条件とは?」


 話の腰を折ったのは菜花さんの方なのに、彼女は僕を急かすように握りこんだ両手をぶんぶんと上下に振る。

 ここまでくると、怒りを通り越して呆れて笑いそうになったが……僕はそれを堪えた。

 今から菜花さんに突きつける条件は、僕にとって凄く大切なことだから。


「僕が小説を書いている写真を消すこと」


 菜花さんがあの写真を持っている限り、僕はずっと彼女に弱みを握られ続けることになる。

 写真という目に見える証拠。それさえ無くなれば、もし彼女が周りに僕が小説を書いていることを言いふらしたとしても、どうとでも誤魔化しが効く。


「うん、分かった。四葩君がちゃんと小説を書いてくれたら消すね」


「は? いや、そっちが先に――」


「消してから『書きません』なんて言われたらたまったもんじゃないじゃん。だから、申し訳ないけどこれだけは譲れない」


 僕の言葉を途中で遮って菜花さんは言った。

 その顔は真剣の一言に尽きる様な表情で、僕は思わず押し黙ってしまう。

 ……まぁ、そりゃあそうなるよな。菜花さんも馬鹿ではない。

 あれだけ頑なに小説を書くことを拒否し続けたのだ。もしこれが逆の立場だったなら、僕も当然疑ってかかる。

 菜花さんを騙してやろうという気は元より無く、小説を書いてあげるつもりだったのでそれに関しては問題はない。写真を先に消して貰うのも後に消して貰うのも、どちらにせよ消してくれることには変わりないので、別にいいか。


「じゃあ、それでいい。……書いたらちゃんと消してくれよ」


「大丈夫大丈夫。不安なら指切でもする? 私、約束したらちゃんと守るよ?」


 菜花さんは僕の目の前に小指を立てた拳を差し出した。

 馬鹿馬鹿しいと一蹴しても構わなかったけど、恥ずかしがっていると思われるのは癪だから、僕は彼女の小指に自分の小指を絡ませる。


「指切りげんまん――」


 2人っきりの境内の中で菜花さんの元気な声だけが響く。僕は無言。

 でも、彼女は不快そうな顔をせずに楽しそうに歌い続ける。

 何がそんなに楽しいのか僕には分からない。

 だけど、子どもみたいに無邪気な顔で笑う彼女を見ているとつい気が抜けてしまい、僕も「ふっ」と笑みを溢してしまった。

 それを見た菜花さんは更に楽しそうに笑う。


「――指切った!」

 

 歌い切った後、菜花さんはちょっぴり頬を赤に染めて「えへへっ」と照れくさそうに微笑むと、後ろ歩きで数歩下がって僕から距離をとった。


「クラスのグループから四葩君の連絡先を登録しておくから。後で色々と予定を決めて連絡するね」


「はいはい、了解……ん? 予定? 待て。それってどういう――」


「それじゃ、また明日学校で!」


 僕が疑問を投げかけるよりも先に、菜花さんは逃げるように出口に向かって走り出した。


「あっ、おいっ! ちょっと!」


 菜花さんは僕の静止の声に耳を貸さずに走り続ける。

 そして、鳥居の下まで行くと彼女は立ち止まり、こちらを振り返った。


「四葩君も指切りしたんだから、約束はちゃんと守ってよね!」

 

 菜花さんはそう言うや否や「バイバイ」と手を振って去っていた。

 騒がしかった境内の中が、嵐が去った後みたいに静まりかえる。

 僕はもう誰もいなくなった鳥居の下を見つめながら呆然と佇んでいた。

 もしかすると……僕はとんでもない約束をしてしまったのかもしれない。

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