透明なわたしたち

永坂暖日

01.傘

 まだ着慣れないつなぎに袖を通し、髪の毛をフードの中に押し込んだ。首の周りがちくちくとする感覚を不快に思いながら、ファスナーを首もとまで引き上げる。いかにも頑丈そうなブーツタイプの安全靴に履き替えて、あらかじめはめていたインナー手袋の上に、厚手で頑丈な手袋をはめた。

 ロッカーの中に入れてあるヘルメットを手に取った時、扉の内側に設置された鏡の中の自分と目が合った。つなぎ――防護服を着る前に、防塵機能付防毒マスクを装着していたから、強化プラスチックの面体越しであるが、憂鬱な表情をしているのが、嫌でも分かった。

 ロッカーの扉を閉めて、頭を振った。マスクをしているし防護服も着ているから、それだけの動作でさえ、いつもよりもやりづらい。

 もっと簡単だろうとどこか気楽に考えていたから、予想と違うことばかりで気重になっているのだ。自分の見込みが甘かったのだが、だからといって投げ出すつもりはない。

 やると言ったのは自分だし、皆の役に立ちたいと思ったのも、自分なのだ。

 そしてここでは、やる気があるように振る舞わなければならない。

 ヘルメットを被ると、壁に立てかけてあった銃を手に取る。安全装置を確認して、小柄な体に似合わぬ重い足音をたてながら、地上に続く扉に向かった。


   ●


 地球の環境が一変したのは、今から約百六十年前のことだ。小惑星が地上部分に衝突し、甚大な被害が出た。それだけでなく、衝突によって膨大な量の塵が成層圏まで巻き上げられて地球をすっぽりと覆い尽くしてしまったのである。

 人類史上最悪の災害は、それだけにとどまらなかった。小惑星衝突からわずか数年後、今度は超巨大噴火が起きたのである。場所は、北アメリカ大陸のイエローストーン地区。もとより火山活動が活発な場所だったが、小惑星の衝突により噴火が誘発された、とも言われている。

 ともかく、火山は噴火により、様々な物質を放出する。小惑星衝突で巻き上げられた塵に、火山噴出物が加わったのだ。その上更に、世界中のいくつもの火山の活動が活発化。大気に放出される噴出物はますます増えて、大気の組成がほんの少しだけ変わった。

 わずかな変化ではあったが、人間の体はその変化に耐えられなかった。

 すぐに人体に影響があるわけではない。けれど、大量の塵と変質した大気にさらされ続ければ、喉や肺を病み、目や鼻の粘膜は深刻な損傷を負った。不織布のマスクや眼鏡は焼け石に水で、空気清浄機も役には立たなかった。

 地球を覆ってしまった塵は太陽光を遮り、急速な寒冷化が起きた。塵が落ちて日射しが復活するまで、数百年はかかるとされた。

 地上で、かつてのような暮らしを送るのは困難。そう判断した人類は、塵が落ち着くまで、地下で暮らすことを決めた。

 とはいえ、それも容易に進められたわけではない。地下都市の建設に適した場所は限られていて、土地を巡る争いが世界中で起きた。海に囲まれたこの国も例外ではなく、また、争奪戦は簡単に国境を越えて広がった。

 様々な兵器が開発され、次々と実戦に投入された。そのほとんどが自動制御で、巨大なものから分子サイズのものまで千差万別。災害により減少した人口は、地球規模の争奪戦で更に数を減らした。

 それでもなんとか地下都市は建設され、生き残った人々は先を争うように地下に潜ったのである。

 地下都市建設前の時代を知る人々は、もう生きていない。そして、地球はまだ塵に覆われたまま。人類は、まだまだ地下で生きていかなければならない。

 そのために必要不可欠なものの一つが、空気だ。地下都市では、汚染された大気を取り込み、フィルターや浄化槽を通して清浄にした大気を内部に供給している。その関連する設備の整備を担当するのが空調局。古海ふるうみアヤの職場でもある。

 

 古海が暮らす地下都市〈春時はるとき〉は、上層、中層、下層、最下層の四層構造になっている。下に行くほど横にも広がっていて、最下層は天井も高いという。上層で生まれ育った古海は一度も最下層に言ったことがないので、メディアの情報でしか知らないが、作り物ではあるものの、空があるらしい。

〈春時〉の一番深いところにあるその空は、こんな灰色なんかじゃないだろう。

 地上に出た古海は、マスクとヘルメットでいつもより重い頭で、空を見上げた。

 つまらなく、くすんで、陰鬱ですらある空が一面に広がっている。太陽の欠片も見えない。

「それでも、ライトなしで周囲が見渡せる。太陽の光がちゃんと地上には届いている証拠だよ」

 古海が初めて地上の出た日、明るい表情でそう言ったのは、チューターである鹿屋かのやだ。古海の少し先を、重い工具箱と銃を持ってずんずんと歩いていく。

 古海はその後を、銃だけを携えてついて行った。給排気口のメンテナンスに必要な工具類は全て鹿屋が持っている。主に地上部分の設備を担当するこの部署に配属されて、まだ半月。研修期間中である古海の仕事は、鹿屋からメンテナンス方法を教わることと、周囲を警戒すること。どちらも気の抜けない役割で、地上にいる間は緊張しっぱなしだ。

 大量の無人兵器がばらまかれ、せっかく災害を生き延びた人々が殺し合った時代は百六十年も昔のことだが、無人兵器は今も地上をさまよい、『敵』を探し続けている。そのため、地上に出る際は警戒を怠れないし、空調局員のように、業務上の必要がある場合をのぞいて、地上に出ることは禁止されている。だから、地上のすぐ下、〈春時〉では一番地上に近い場所で育った古海でも、空調局に入局するまでは、地上に出たことがなかった。

 近代史も学校で習ったから、地上がどういう場所かは知っているつもりだった。けれど、ありきたりではあるものの、知っているのと実際に見るのとでは大違いである。

 地上は、習って想像していた以上に、荒れ果てた世界だった。空には一筋の光もなく、雑草もない。もちろん、滅多に人影もなく、動くものもいない。動くものがいれば、まだ見たことはないが、無人兵器かもしれない。

 無人兵器の恐ろしさは家庭や学校で教わるが、それは通り一遍の説明で、具体的なことは、入局後の研修で知った。VRを使った訓練でも体験したし、先輩局員達が実際に遭遇した時の話も聞かされた。

 それを思い出して、銃を握る手に力が入る。遭遇した時、訓練通りに対応できるだろうか。

 それにしても、鹿屋はどこまで行くのだろう。古海は不安になって振り返った。地下につながる入り口は、もうずいぶんと遠くなってしまった。

 日常点検やメンテナンス程度では、空調局が保有する車両は使えない。地下都市で使える資源には限りがあるのだ。

 体感で三十分ほども歩いた頃――実際は十分程度だろうか――ようやく今日の目的地に到着した。

 鹿屋が足下に工具箱を置く。

「ここが第五排気口だよ」

 地下都市は大気を取り込むばかりではない。排気もしなければ、新たな空気を入れる場所がない。

 説明をする鹿屋の声は大きかった。ファンが回転する音で、そうしなければ聞こえないのだ。古海は、防護服の左腕に取り付けたモバイル端末に、必要そうなことをメモしていく。所々、騒音で聞き取れなかった。あとで鹿屋に聞かなければ。

「まあ、説明はこれくらいにして、早速作業に取り掛かろう。――雨が降る前に終わらせたいし」

 一度空を仰ぎ、鹿屋は足下の工具箱から必要な治具を取り出した。

「雨、降るんですか?」

 強化プラスチック越しに見える空は、地上に出た時からずっと灰色だ。それが塵なのか雲なのか、古海にはよく分からない。

「気象班の予想によると、確率七十%。ま、外れることも多いけどさ。酸性の雨に打たれたくはないでしょ?」

「あの、傘って使わないんですか……?」

 地下都市に雨は降らないので、古海は傘は持っていないが、インテリアとしての傘は見たことがある。地上でならば本来の使い方をするだろうが、古海の持ち物の中に、傘はなかった。鹿屋が持っているようにも見えない。

「雨が降るかもしれないからって、いちいち持って来てたら持ち物が増えるし、傘を差しながらじゃあ、両手が使えないからね。それに、この防護服は撥水加工してあるよ。濡れてもしみてくることはないから、大丈夫」

 話しながらも、鹿屋の手はなめらかに動いている。配電盤の各数値を読み取り、モバイル端末に入力していく。

「へえ……じゃあ、ちょっとくらい、雨に降られてみたいかも」

 何せ、地下都市は気象現象と無縁だ。どうせなら、体験してみたい。

 鹿屋が笑い声を上げた。

「俺も、地上で初めて雨が降った時は珍しくてちょっと興奮したけど、すぐにそんないいもんじゃないって思い知ったよ」

「そうなんですか?」

「そうだよ。手は滑りやすくなるし足下は悪くなるし、いいもんじゃないよ。それに地上に出ていれば、そのうち嫌でも――」

 ヘルメットに、何か、ほんの小さなものが当たる感触があった。あれっと思った時には、強化プラスチックの面体に小さな水滴がぽつぽつと増えていく。

「あー、降ってきた。気象班の予想的中か」

 鹿屋がうんざりした声で空を仰ぐ。それから、工具箱のふたをすぐに閉めた。

「雨がひどくなる前に外観点検をしよう。その後、あっちの第七排気口を見に行く。急ぐよ」

「はいっ」

 鹿屋が工具箱を持ち、歩き始める。

「周辺の警戒も怠らないでね。雨が降ると視界が悪くなるから、より注意深く見るように」

「……はい!」

 銃を握り直し、古海は鹿屋の後を追いかけた。


 小さかった水滴は、徐々に大きくなって視界の邪魔をする。手袋でしょっちゅう拭わなければ見えづらくて仕方がなかった。空から降ってくる雨だけでなく、ヘルメットを伝ってきた雨も視界の邪魔をする。

 大気中の塵を抱き込んで降り注ぐ雨は、前進を濡らすだけでなく塵まみれにする。

 鹿屋がうんざりしていた理由を、古海は実感した。シャワーほどではないが、シャワーのようにきれいな水ではなく、自分で止めることができない。舗装されていない地面にはあっという間に水たまりができていて、歩く度に泥が跳ね上がった。

 第七排気口の点検も終わり、地下都市に戻る直前には、膝より下は防護服の元の色が分からなくなるほど泥だらけになっていた。

 大きくため息を吐く古海を見て、鹿屋が苦笑した。

「初めての雨が土砂降りで災難だったね」

「……鹿屋さんが言っていた意味がよく分かりました」

「だろ。でも残念ながら、これからはしばらく雨が降りやすい時期になる。嫌だろうけど、がんばって」

 ようやく地下に戻れるが、雨で濡れた装備一式を洗わなければならないという。そのまま放置して乾いたら、付着した塵が舞うからだ。全体からすれば、本当にゴミみたいな量だが、せっかくきれいにしてある空気をいたずらに汚すわけにもいかない。

 傘を差せたら、もう少し濡れずに済むだろうか。

 詮無いことを考えて、古海は再び大きなため息を吐いた。


   ●


 装備一式を洗って、拭けるものは拭いてと、地上で雨に遭遇してしまった後始末をしていたら、定時では帰れなかった。

 地上では、雨が降っていなくても緊張を強いられる。ただでさえ気疲れするのに、今日は雨が降ったからなおさらだ。鹿屋は慣れた様子だったし、他の先輩職員達も、初めてが土砂降りで災難だったなと労ってくれたが、この先もこういう天気に巡り会うことはあるのだろう。冬になれば雪が降るという。

 自分で望んできたとはいえ、疲れるのは仕方がない。さすがに、もっと慣れるまでは続けなければならないだろうが、それにしてもいつまでだろう――。

 重い足取りで帰宅した古海は、壁に貼り付けてあるディスプレイの電源を入れた。夜のニュースをやっている時間なので、そこにチャンネルを合わせる。

 番組はもう後半にさしかかっていた。最下層のアミューズメント施設を紹介している。上層に住む古海とは縁がなさそうなその施設では、最近新しいアミューズメントが始まったという。

 美しく整えられた庭園で、訪れた人々が色取り取りの傘を差している。傘は水を弾き、足下にできた水たまりを飛び越えたり、あえて傘を差さずに、しめやかに降り注ぐ水滴の群に全身をさらしたりする人もいる。

「雨って初めて体験しました。葉っぱの水滴がきらきらしてて、すごくきれいです」

「傘は持ってたけど、今まで使う機会がなくて。でも、本来の使い方ができて良かったです」

 インタビューに答える人々の表情は明るく楽しそうだ。リポーターが、施設ではレンタル傘も用意していると補足する。

 古海は、画面の中の人々を睨みつけていた。

 あんなものは雨ではない。規模の大きなシャワーだ。古海が数時間前、地上で体験した雨が、本物だ。足下の水たまりは泥の色をしていて、浅くても底が見えないほど濁り、灰色の空から降り注ぐ雨は塵と有害物質を含んでいる。手袋や、鹿屋の持つ工具箱に付いた水滴は、少しもきらきらして見えなかった。

 画面の向こうで繰り広げられている明るい話題は、まるで別世界の話のようだった。浄化された空気の中で、浄化された水を浴びるあの人達は、上層の、ここのことすら考えたことはないだろう。上層の話題をメディアで見ることがあっても、今の古海と同じように、別世界の話だと思うだろう。

〈春時〉に住んでいても、まるで違う。それが、地下都市内の現実だった。

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