千尋さんはラノベが読みたい――ラノベ作家という僕の秘密を知ったのは、『小説が読めない』クラスのアイドルでした――
紅葉 紅羽
プロローグ『僕と千尋さん』
――始業前の教室は、今日も今日とて賑やかだ。誰が誘導するでもなく自然とクラスはいくつかの塊に分かれ、それぞれがそれぞれの興味関心を大きな声でぶつけ合う。よくもまあお互いの話題を邪魔しないものだと思うが、それはあくまでも観察している側の感想だ。きっと集団の内側に立ってしまえば、その外側にいる人間の声も姿も意識からは消え失せてしまうんだろう。
そんなとりとめもない事を、僕――
まあそんなわけで、僕はクラスの隅でひっそりと席が空くのを待っている状況だ。二年生が始まって一か月もしないうちに定位置になってしまったこの場所に、クラスメイト達が意識を向けることはない。ましてや、そこにいる
「あ、まーたこんなところで難しい顔してる。どしたの、ネタ探し?」
――少し前までは、そう思ってたんだけどな。
楽しそうな笑顔を浮かべた女子生徒が、僕の視界の中にひょこりと横から割り込みながらそんな質問を投げかけてくる。その仕草を写真に収めてしまえばそれだけでピンナップとして売り出せてしまいそうなぐらいの美少女――
「……そんな勤勉なことじゃないよ、ただぼんやりしてるだけ。ソファーで寝転がってる時と感覚は同じぐらいだね」
「えー、でも小説を書くには人間観察が大事だっていうじゃん? そういうのの資料としてはこういう騒ぎってとってもいいんじゃないかな?」
「どうだろ、全く役に立たないってわけでもないだろうけどさ……。人間観察を本気でやりたいって思うなら、もう少しほかの場所をお勧めされるだろうね」
いろんな人を知っておくのは大事とはいうものの、このクラスでそれをやるとなるととんでもない偏りが生まれてしまう。というか、クラスの隅っこからの視点だけやたらうまくなってもしょうがないし――
「――というか千尋さん、『その話』は学校ではしないでほしいって前に言わなかったっけ?」
そんなことを考えている途中、がっつり僕の秘密に踏み込んだ話題をしていることに気づいた僕は千尋さんにやんわりと抗議する。思わず乗っかってしまったことを棚に上げるのは心苦しいけれど、それにしたって僕の秘密はあまり知られたいものではないんだ。……今となっては仕方がないと割り切れているにしても、千尋さんにそれが知られてたのも完全に誤算だったし。
だが、当の千尋さんはそれほど大ごとだとは思っていなかったようだ。いつも通りにこにこと笑みを浮かべながら、まあまあとでも言いたげに右手をぶんぶんと振っていた。
「大丈夫だよ、みんなそれぞれのお話に夢中だし。それに、学校の外で話す機会なんて中々あるものじゃないじゃん?」
「千尋さんがここに来るだけで視線は自然と集まるんだよ……。ああほら、もう何人かこっち見てるし」
無邪気に笑う千尋さんを見つめながら、僕は大きなため息を一つ。その言葉の通り、今まで僕の方になんか一ミリも関心がなかったクラスメイト達の視線がこちらに吸い寄せられ始めていた。
こちらに――というよりは、僕の隣に立った千尋さんに、と言った方が正しいな。長く伸びた黒髪を校則違反にならない程度の位置で一つ結びにし、よく笑う千尋さんの振る舞いは理想のムードメーカーそのものだと言ってもいい。そこに生来の端正な顔立ちとすらりとしたスタイルが合わさることで、千尋さんはムードメーカーからアイドルへと見事なクラスチェンジを果たしていた。
ふつうここまでやればそれにいい印象を抱かない人間の一人や二人出てきてもおかしくないんだけど、聞く限りではそんな気配がないのもまた恐ろしい。人望が服を着て歩いていると言ってもいい千尋さんは、クラスの中心にいるのが何よりも相応しいだろう。
だからこそ、こんな隅で僕と一緒にいると嫌でも視線を集めてしまう。あえて向けられる感情を言語化するなら、『なんであんなところにいる奴に話しかけてるんだ?』……なんてところだろうか。少し付け加えると、多分そう思ってる人たちの半分ぐらいは僕の下の名前を覚えてないと思う。その中のさらに半分は名字すら忘れてる可能性もある。つまるところ、僕の存在感はそんな感じだ。
「千尋さんが僕の仕事に興味を持ってくれてることは知ってるし、最近あまり学校の外で関わる機会が取れないことに関しては申し訳ないと思ってる。だけど、その話を教室でするのはちょっと勘弁してほしいかな」
「……むむむ、ガードが堅いなぁ……」
クラスメイトの何人かがグループを離れてこっちに歩み寄ってくるのを見つつ、僕は小さく両手を合わせて頼み込む。……だがしかし、千尋さんはどうやらそれで納得できる気分ではないようだった。不満そうに頬を小さく膨らませて、何事かを考えるように腕を組んでいる。
そうは言っても、眼の前からはもう何人かのクラスメイトが千尋さんに話しかけようと接近してきている状況だ。猶予はもう五秒もないし、なんなら始業の時間までは三分を切っている。どれほど知恵を絞ろうと、この状況を打開する作戦はそうそう出てくるものじゃない――
「……あ、いいこと思いついた!」
「思いついたんだ⁉」
そう思った矢先の千尋さんの声に、僕は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。それに伴って僕の思考がフリーズしたその刹那、ぶらんと垂れ下がっていた僕の右腕が千尋さんの左腕に絡めとられた。
「え、ちょ⁉」
「ねえねえ照屋君、今から一限さぼっちゃお! 大丈夫、アンモト先生今日の国語は自習にするって言ってたからさ!」
それは一応提案の形をしていたが、その返事を僕が返す前に千尋さんはぐいぐいと僕の体を引きずり始めている。せめて何か言い返さないといけないとは思うのだが、腕に伝わる柔らかい感触が思考を完全に空転させていた。
すらりとしている千尋さんだが、だからと言って『ない』わけじゃない――というか、なんなら『ある』ほうだ。そんでもって、クラスの隅が生息地の僕にそんなことへの耐性が付いているわけがない。……自然、僕はされるがままの状態で千尋さんに連行されていく。
「ちょっと千尋ちゃん、もうすぐ授業始まるよー⁉」
「ごめん、照屋君少し体調が悪いみたいだから保健室まで行ってくる! 先生によろしく伝えといてくれると嬉しいかなー!」
クラスの女子から飛んできた驚きの声にも、千尋さんは堂々と言い訳をでっちあげて一目散にクラスから抜け出す。そうして千尋さんが足を向けたのは保健室とは正反対の方向なのだが、どうやら僕たちのことをクラスの外まで追いかけてくる人たちはいない様だった。
そのまま引きずられるようにして校舎を走り階段を上り、気が付けば始業を告げるチャイムがあちこちのスピーカーから響き渡ってくる。遅刻、もとい一限目のサボりがこの瞬間に完全に確定した形だ。
「……何となく分かってきたけど、こういう時の千尋さんって本当に強引だよね……」
普段からあまり使われていない階段の踊り場に二人して腰掛けながら、僕は息を整えつつ静かに千尋さんへと抗議する。普段は先生たちにも優等生で通しているはずなのに、時々とんでもなく大胆な踏み込み方をしてくるからこっちとしては反応に困るんだよな……。腕に伝わってきた感触とか、考えないようにしようとしたってそうそうできるような印象の薄い物じゃないし。
だが、当の千尋さんはにこにこと笑顔を浮かべてこっちを見つめている。僕が内心悶々としていることに気づいていないのか、あるいは気づいたうえでそうしているのか。僕としては前者であることを祈るばかりだ。
「あたしだっていつも力任せに動くわけじゃないよ。ただ、照屋君に対してはこういうやり方の方が上手くいくんだなって思ったからそうしてるだけで」
「……つまり、学習の結果がこれってわけね……」
千尋さんなりの試行錯誤の結果という事なのだろうが、その結果が力任せな脱出というのはいかがなものだろうか。確かに僕と話をする機会はできるだろうが、その代償にあまりにいろんなものを支払っているような気がしてならない。
「うん、だって照屋君とはお話したいことがいっぱいあるんだもん。毎回毎回話したいことを都合よく思い出せるわけじゃないし、話したいって気持ちが強くなったタイミングは大事にしなくちゃね。……それに、さ」
少し呆れ気味の僕に笑顔を向けながら、千尋さんは楽しそうに自分の考えを語っている。……だがしかし、何を思ったのか千尋さんはいきなりこっちにずいっと身を寄せてきた。
「んな、ななななっ……⁉︎」
さっきの感触のこともあって、僕は頬が熱くなるのを感じながらとっさに後ろに下がろうとする。だがそのたびに千尋さんはついてきて、すぐに僕の後退するスペースはなくなった。
千尋さんの距離感が近いのは何となくわかっていたことだが、ここまで近いとなると流石におかしい。何かそうしなくちゃいけないだけの理由が、千尋さんの中にはあるのかもしれないけど――
「……『国語の成績を上げたい』んなら、先生の話を聞いてるよりも照屋君と一緒にいる方がよっぽどいいでしょ?」
――そこまで考えたところで、悪戯っぽく笑う千尋さんがそんな風に言ってくる。その言葉を聞いて、僕の鼓動は急速に平静を取り戻し始めた。
「……うん、そうだね。千尋さんのことを思えば、それは間違いないと思う」
「でしょ? 秘密を話すならばれないようにしなきゃって小声で話そうとしたのに、照屋君が逃げちゃうからびっくりしたよ」
僕が頷いたのを見て、満足げに千尋さんは笑う。その言葉を聞けば、僕の中でもさっきの千尋さんの行動が完全に腑に落ちた。簡単に言うのなら、僕の早とちりだったってわけだ。千尋さんは秘密を守ろうとしてくれただけで、あの行動にやましい思いなんてみじんもなかった。……まあ、そもそも僕みたいな人間に千尋さんがやましい思いを抱くなんて考えること自体がおこがましくはあるんだけども。
クラスの隅を生息地とする僕と、常にクラスの中心で輝いている千尋さん。正反対のスタンスで高校生活を過ごしていると言ってもいい僕たちを繋いでいるのは、決して単純な友情ではない――いや、今は少なからず友情も含んでいると信じているけれど。現状がどうであるにしても、こうなるに至ったきっかけはもっと違う所にある。僕と千尋さんがこうして一緒にいるのは、お互いにお互いの持つ秘密を共有しているからだ。
「……さあ、そろそろ聞かせてもらおうかな。照屋君が持ってる、キラキラな思い出の話をね」
「うん、分かった。……それじゃあ、今日はどの話にしようかな――」
目を輝かせる千尋さんのリクエストに応えて、僕は記憶の引き出しをあちこち探る。きっと千尋さんはどれでもいいと言ってくれるんだろうけど、それでも僕だって拘りたいのだ。……どうせ物語を語るなら、できるだけ魅力的に飾り付けてあげたいからね。
――生徒のほとんどが授業に励む中で、僕たち二人は身を寄せ合ってお互いにぽつぽつと言葉を交わす。クラスの皆も先生も、僕たちがこんな風に時間を潰しているなんて予想だにしていないだろう。……それぐらい、傍目から見れば奇妙な関係なんだ。
――そんな繋がりが始まったのは、ほんの二週間前ぐらいのこと。まだまだ一年生気分が抜けなかった、ゴールデンウィーク直前ぐらいのときにまで遡る――
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