断片
翌々日の午後、宣言通り枚岡は霍翠の下宿へやってきた。居るとは思えないがいないとも思いたくなかった。下宿先のおかみさんも霍翠の行方を知らなかった。もとより引きこもりがちな霍翠だ、また布団の中で眠っているんじゃないのか、とおかみさんは言っていた。
「小川ぁ、入るぞ……」
襖を開けた枚岡はハッと息を呑んだ。万年床がきっちり畳まれ、机の上には原稿が5枚と枚岡への手紙が置かれている以外なにもなかった。ただ、本棚と布団と机のみがあるだけだった。もぬけの殻、というのがいちばんしっくりくる。
慌てて原稿を読み始めた。
『月に居る乙女と地獄への逃避行を致します。否、正確に云へば、月に居ると騙る私の妄想が受肉した女と、地獄へ参ります。
その女、陽子さんに出会つたのは先日の満月より前であつたと記憶してをります。満月の晩、風鈴が鳴るような声で名を呼ばれました。「霍翠先生」と。誰も呼ばぬ私の筆名。枚岡君が私に授けてくれた霍翠という名を、陽子さんは確かに呼びました。私はそこで、まただ、と思つたのです。彼女との出会いは覚えている限りではそれが最初です。
最初は、それは全て夢の中の出来事だと思つていました。しかし日増しに陽子さんの陰は濃くなるばかり。感触のある夢になつていくのです。些か私も恐怖を覚えましたが、どこか安心するような、嬉しいような心持ちが致しました。ある時、髪の毛が指先に絡んでいました。自分のものではない、長い黒髪が。思はず恍惚の笑みを浮かべていたことでせう。
彼女と私の関係は深いものになつていきました。気付けば、私が過去の女性に拠つて穴の空けられた心の、その空洞に陽子さんは住んでいました。もう身体の一部になつてしまつて居るのです。
彼女のことは夢魔の類ではないかと疑つて居ました。自分では月の精霊と云ふけれど、私は窶れていく一方で、竹取物語の翁と媼に窶れていく記述は有りません。もし月の精霊なら、弱竹の姫と同じで有る筈だから、夢魔だろうと思ひました。
しかし枚岡君が云ひました。それはお前の妄想だ、と。なるほど、と思ひました。それならば説明のつくことが沢山有る。
まず、初恋の人に似ている事。私の恋の物語のモデルは全て初恋の人です。陽子さんはあの人よりもっと愛嬌の有る人だけれど、其れは私の理想の真ん中を射貫いていて、此処まで理想的なのは妄想であるからだと説明する事が出来ます。
次に、私が窶れていく事。神経症の一つに
最後に、死ぬのだと決まつて居る事。私の本当の気持ちを云ふと、両親が死んだ時から、死にたくて堪らなかつた。其れは両親に会へるからではなく、真に独りになつてしまつた事への絶望であります。兄達には見離され、実家と縁を切られてしまつたぼんくらな私は、独りで天寿を全うすることなど恐ろしくて出来ません。枚岡君は「俺が居るではないか」と云ふのですが、枚岡君には私以外にも面倒を見ている人間がいて、とても頼れませぬ。兎に角、死にたいと何処かで願つて居た私の妄想であるのなら、死を迫っても可怪しく有りません。
以上の点から、私は妄想に取り憑かれている事が判りました。
妄想と判つても、愛してしまつた女を思へば、心は離れ難く思ひを断ち切ることなど出来ませんでした。昨夜も彼女は私の前に現れ、私の生気を吸つていきました。頭は重く、身体はふらついて、何度か血を吐きました。もうひと思いに死んでしまつた方が早い。「早く殺してくれ」と彼女に云ひましたが、涙ながらにまだ一日あるぢゃないと云はれ、まだ苦しまなくてはならない様です。
それから、「女郎蜘蛛」の発言の意図を彼女に聞きました。彼女曰く、自分は何度か殿方を殺して来たけれども、いつも死にかけてから「殺さないでくれ」と懇願され、その顔が最高にそそると思いながら人殺しをしてきた。しかし今回は違う。共に地獄へ行かうと手を取ってくれた。その何と温かいこと……。と。所詮私の妄想ですから、この話も彼女が生まれてくるのにあたつて付随した要素だと思ふのですが、少し恐い気持ちが致しました。自分の中にそんな要素があつたのかと。
これから私は死にに行きます。彼女に手を汚させたくない気持ちがあるから、自殺をして仕舞おうと思ふのです。紐はもう結びました。森林公園の奥に見に来てください。きつと私がぶら下がつていることでせう。
月満姝花発
星唄夜来香
黒髪流肌透
涼声貫恋傷
月満ちて姝花発く
星に唄う夜来香
黒髪の流る肌は透け
涼しき声は恋傷を貫く
『姝花』
これは彼女に出逢つた頃考へ始めた漢詩です。平仄もなかなか好い具合に行きました。私の遺作として、枚岡君が纏めてくれる事になつて居ます。
それでは皆様、ご機嫌よう!』
原稿の全文は以上の通りであった。極めて冷静に希死念慮に押しつぶされているのが感ぜられて、枚岡には痛々しく見えた。
姝花とは霍翠の造語で、姝という字が美女を指す。漢詩の意味は言うまでもなく、陽子とかいう妄想の女を讃えるものであった。
枚岡は原稿を机に置いて、座り込んでよれたハンチング帽を脱いだ。まだ確認したわけではない、霍翠は死んでいない。そう思いたかった。しかしこんなにも爽快に別れを告げられたのでは、心に諦めが根ざす。とてつもない喪失感に襲われて、涙が目に溜まるのを感じた。
泣いている場合ではない。霍翠を見つけに行かねばならない。たとえどんな姿になろうともそれが友の選んだ道なのであれば。
枚岡はハンチング帽を被り直して、手紙を掴んで立ち上がった。必ず俺が迎えに行く、そして、改めて別れを告げよう。ありがとう、お前は確かに才高き人間であったぞ、と。
✴ ✴ ✴
新月の夜、霍翠は紐を木の枝に結んで深呼吸した。ヒューヒューと息をするたびに喉が鳴るようになった。咳のし過ぎである。
これから俺は死ぬ。下宿には、原稿にことの経緯を書き記しておかみさんにわかるようにしたものと、枚岡への個人的な手紙を残してきた。万年床は畳み、軽く掃除までした。これで思い残すことは何もない。
さようなら、おかみさん。さようなら、枚岡。
「さあ、陽子さん、そこにいるのでしょう。共に地獄へ参りましょう」
陽子が木の陰から現れた。泣いている。
「霍翠先生……私達二人が安らかに生きていくことはできないのですか」
「貴女が言い出したのでしょう、私の命を持って月へ帰るのだと」
「……」
陽子は困ったように眉根に皺を寄せて口を噤んだ。
「とにかく私はもう、死にたいのです。……貴女に取り憑かれて、私はこんなにも大きな希死念慮から目を背けて生きてきたことに気付けた。貴女がいなければ私は苦しいまま生きていたことでしょう」
「……わかりました、では最後に、私を抱き締めて?」
霍翠は紐を手放して台座から降りた。
二人は抱き締めあってくちづけを交した。
と、同時に霍翠がふらりと倒れ込んだ。突然全身に力が入らなくなったのだ。
「……どうして」
陽子がさっきまでの涙など初めからなかったかのような冷酷な顔つきで霍翠を見下ろしていた。
「いま先生に与えたのは痺れ薬。次に与えるのは死の苦痛。
先生、私を愛してくれてありがとう。先生は私を妄想だと思うことにしたようだけれど、残念。私は死神の遣い。これまで言ってきたことなんて全部嘘っぱちよ。もちろん愛している云々もね、私が愛しているのはご主人様だけなの。
自殺されたんじゃ私の手柄にならないし死体が汚くなるでしょう? 文学者先生はもっと叙情的な痛みを欲しがってたのかもしれないけど、死ぬってね、誰でも平等、叙事的なのよ。それじゃさよなら、夢見るお坊ちゃん」
陽子は言い終わるか終わらないかのところで霍翠の頸を懐に忍ばせていた短刀で強かに切り裂いた。
返り血に染まる陽子は、まるで妖艶な夜桜であった。
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