パラノイア

長尾

会合

 席を立って家に帰ろう、自分に言い聞かせ始めてからもう一時間は経っている。何故小説家の会合に呼ばれているのか、冷静になってみればよくわからない。民俗学者の小川霍翠は酒が注がれたグラスを横目に帰る時機を探っていた。平素ならば、そっと帰ったところで誰にも気づかれることはないのだが、困ったことに今日は霍翠が話の中心にいたのだ。




 話の始まりは『美しい』という意味のある言葉はさまざまにある、というなんということのない話であった。だが、美男子を表す『桂男』という単語から風向きが怪しくなってきた。霍翠はただの民俗学者であり、小遣い稼ぎに雑誌に寄稿している付き合いで出席(半ば強制的に枚岡という悪友に連れてこられている)だけなので、あまり文士達の会話に口も挟みたくはなかったのだが、ここで枚岡が余計なことを言った。




「そういう話の専門家がいるじゃないか、なあ、小川」




始末の悪いことには、同席していた大御所の菅原先生が興味を持ってしまった。




「小川くんはどういうものを研究しているのかね。君の書くものは異国風の幻想短篇が多いが……。勿論桂男の話は知っているのだろう? 少し話して聞かせてくれないだろうか」




霍翠は困った。この頃は誰ともまともに話していない。うまく話せるかもわからない。そしてなにより、人に囲まれているのが既に怖かった。




「はあ……その、私は……漢学をやっておりまして、その、大陸の方の伝承や民話に興味を持っております」




しどろもどろにやっとここまで話すとグラスに注がれた酒を一気に飲み干した。手が震えている気がする。なにせ大人数に囲まれて話すことなどは、自分には全く縁のないことだと安心しきっていたのである。




「それで、桂男ってのはどこで出てくる話なんだ」




枚岡がいつも二人で会うときにするように、少し訛りの入った発音で煙草を咥えながら聞いたので、いくらか落ち着いた。




「唐の時代の怪異を集めた酉陽雑俎ゆうようざっそに出てくるのが最初だと思います……。その頃は単に、月の宮殿に桂を伐って生活する人間がいるというだけの記述ではありましたが……それが日本に渡り、伊勢物語で主人公を『桂男の君のような……』というような表現がされて以来、美男子とされるようになったと思います。きっと我々の手の届かないような、という意味を持たせての表現なのでしょう……」




「小川、ちゃんと話せたのか」




枚岡がからかうように煙を吐いた。これもいつものやり方だ。ずっと下を向いて話していたので奇妙に思われたことであろう。途端に恥をかいたように思えてきて、早く話が自分から逸れやしないかと期待した。




「しかしそれだけの妖怪ではつまらんね。寿命が削れるなんて聞いたような気もするが、どうかね」




菅原先生はなかなか帰してくれそうになかった。半ば泣きそうになりながら説明を続ける。声が詰まらぬよう気を遣い、喉がとても痛い。




「江戸時代の絵本百物語では『月をながく見いり居れば、桂おとこのまねきて命ちぢむるよし、むかしよりいひつたふ』とあるので、更に前から言われているのでしょう。月に長く見入っていると桂男が現れて、手招きされると寿命が縮む。というそれだけなのですが……」




「面白いね。君の答えも的確だ。他にもその酉陽雑俎には妖しのものが出てくるのだろう? 是非とも雑誌の寄稿を続けてくれたまえ。小説家になってしまえば良いのだ。一介の学者にしておくのは勿体無いと僕は思っているのだよ」




「いえ、そんな……恐れ入ります……」




何故か菅原先生は上機嫌で絡んでくる。枚岡は迷惑そうな霍翠をにやつきながら眺めているだけであった。




 枚岡とはもう五年ほどの仲になる。少しは生活の足しになるだろうとある雑誌へ寄稿した際、霍翠にわざわざ会いに来た。当時の霍翠はただの貧乏な学生で、枚岡の『生活面を援助するから、自分の雑誌の同人になってくれ』という申し出を断る理由もなかった。彼は既に何本か売れていて、名の知れた文士だった。霍翠の名を与えたのも彼であった。






 一度だけ二人で軽井沢に行ったことがある。あまり遠出をすることに慣れておらず、付き合いの日が浅い人と二人だけで過ごすことにとても緊張したのか、あまりよく覚えていないのだが、枚岡はいつもの薄汚れた眼鏡によれたハンチングを被って、上機嫌に鼻歌なぞを歌っていた。その道中で寄った洋食屋で向かい合って座ったとき、いきなり




「小川くん、女がいないだろう」




と言われた。突然のことに呆然としてなにも答えられずにいると、




「いや、よく当たると評判でね。話題に詰まったときにやって見せるのさ。当たっただろう? 」




などと笑いながら言われた。確かに親しい女がいたわけでもない。しかし不快なことこの上なかった。そのときから枚岡は霍翠の中では、できるだけ避けたい人物となった。




 とはいえ、彼を律儀に避けていては生活が立ち行かぬ。妥協、と自らに言い聞かせ、珈琲を口に含み黙って、爪について力説するのを見守っていた。



 また霍翠も、不器用で口下手で人付き合いを最も苦手とする人間であったため、この適度に見下すことの許された名の知れた文士と付き合うことは、心に平穏を保ちつつ間接的に他の作家達との関係を構築するのに必要だった。一度見下してしまえば怖れることなどなにもない。何度も強引に誘い出されるうちに、枚岡にならば軽口を叩ける程度にはなった。




 文章が原因で言い争ったこともある。霍翠が漢書をもとに童話のような語り口の幻想小説を書くのに対して、枚岡は現実的な娯楽小説を目指して耽美小説で食いつないでいた。まるで違うものを書いていて意見が合うはずもないのだが、枚岡の悪い癖で、つい馬鹿にするような言葉で霍翠の小説の感想を並べてみせたのだ。枚岡の強引な誘いから小説を本格的に書き始めたというのに、なぜそんなことを言われなければならないのか。他人の文章も受け入れられないなら文など書くな。と霍翠は自分でも驚くほど激怒した。




 人見知りで臆病で引っ込み思案であることを、他人に責められたり自分でも気にしていた霍翠ではあったが、何度も強引に誘われ、言い争い、なにかと世話を焼いてもらい五年も経って、枚岡は唯一の気の置けない友人となっていた。なぜ自分なんかを誘いに来るのか、なぜわざわざ会いに来たのか、聞いても決して教えてはくれないが、毎回霍翠の爪の長さを見てにやりと笑う。嫌な男だと思う。






「ねえ君、僕のところの雑誌へ来ないか。枚岡のところでは名も売れんだろうに」




 この一時間こんなのばかりだ。酒に酔った先生方がこんな妄言ばかりを吐いている。霍翠は名を売ろうとして文章を書いているのではないし、それ以前に民俗学者なのだ。




「枚岡さんには拾っていただいた恩もありますし……、その……考えておきます」




それを理解してくれる文士などどこにもいない。実際人気はそこそこあるようだし、少しばかり枚岡の同人も増えてよく売れるようになった。霍翠に手紙が届くこともあったりして、周りはもう文学をやれとしか言わない。不愉快に感じながらも文学を辞めないのは、枚岡の支えがなければやっていけないというのは勿論、収入が原稿料しかない上に、若干の楽しさを見出だしてしまっているからである。枚岡は『お前さんの好きにするがいいさ』と言うが、唯一、民俗学者であり続けろと言ってくれる。一度志したものは捨てるな、と。そんな恩もあって不本意ではあるが会合に出ている。




 当人はというと頬杖をついて菅原先生の細君の自慢話に眠たげに耳を傾けていた。




「小川、帰るか」




唇だけ動かしてこちらに言ってくるので、目配せをして席を立った。




 会合はいよいよ盛り上がって芸妓まで呼んで騒がしくなっていた。霍翠はそういう賑やかさをあまり得意には思っていないので、帰るなら今しかない。引き止める声も、枚岡が一緒に席を立ったのでちらほらと聞こえてきたが、




「悪いな、小川は女が苦手なんだよ」




などと吹聴して、この界隈では少々有名な『霍翠童貞伝説』に尾ひれをつけるような言葉で枚岡がかわしていた。




 本当に女が苦手なのかといえば間違いではない。誰かと上手に話すのが得意ではないというのもあるが、相手が女性となると嫌な思い出が脳裏を掠めて、向かい合ってジッとしていることさえできなくなってしまう。自分はきっと誰にも愛されないまま病にでもかかって死ぬのだと思っている。




 しかし流石に枚岡の返答は悪意のあるものだ。思いきり足を踏んづけて足早に会合場所の宿屋を立ち去る。周りは夜の花街。霍翠は目眩がするのを我慢してふらふらと帰路についた。

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