第9話 和解の一杯
「はぁ……、何やってるんだろ私」
昼休み。誰も来ない校舎の裏庭で一人寂しく望が作ってくれた弁当を食べる紗希。案の定、クラスメイトから奇異な目で見られていた。その視線に耐えられず、此処までのこのこと逃げてしまったのである。
「お困りですか、紗希」
「うん、どうしよう……って望!? 何でアンタが此処に居るのよ!?」
ふと呼び掛けられた声の方へと振り返ると、其処には家に居る筈の望の姿があったので紗希は思わず跳び上がる程に驚いてしまった。音も気配も無く此方の背後を取っていたものだから猶更である。
「家の事もソーニャの散歩も全部終わらせましたので此処からは紗希の護衛ですよ。さぁアールグレイをどうぞ。リラックス出来ますよ」
「あぁ、そう……。もう何もツッコまないわ……」
改めてこの男は本当に人間なのかと疑問を抱いたが、今に始まった事ではないので紗希は差し出されたティーカップを受け取り、紅茶を飲んで気持ちを落ち着かせた。
「……それで、何のお困りごとですか?」
ゆっくりと正面に回り、膝を着いて紗希の目線に合わせてから男は改めて訊ねてきた。本来ならば些末な事で自力で解決するべき事なのかもしれないが、藁をも縋る想いで彼女は大きく深呼吸してから話す事にした。
「あー……その。実は……」
「クラスの誰かと大喧嘩をして気まずくなって教室に居辛くなった。……と言った所でしょうか?」
まさか其処までドンピシャで当てられるとは思いもしなかった。紗希が愕然としていると、望は可笑しそうに口元を抑えて笑っていた。まるで意を決して話そうとした自分を
「分かってるなら聞かないでよねっ!!」
「ただの当て
「化けの皮とか言うな!!」
完全に望のペースに持って行かれている事に気付いた紗希は手に持っていた残りの紅茶を飲み干し、乱れている心を鎮めさせた。
「紗希はどうしたいのですか? 喧嘩する前の当たり障りの無い日常を過ごしたいのですか?」
「うーん、そういう感じになるのかな?」
「それでは紗希の喧嘩相手を始末しましょうか」
「何でそうなるのよ!?」
望が何食わぬ表情で突拍子も無い事を口走るので紗希は思わず引き留めた。何が問題なんだ、とでも言いたそうにしているので猶更その極論は断固拒否しなければならない。
「一番手っ取り早く喧嘩相手との禍根を断ち切れる妙案だと思いますが」
「どうしてそんな極端な解決策しかしないのよ! もっとあるでしょ!!」
「例えば何ですか?」
「例えばぁ!? そうねぇ……、素直に謝って仲直りする、とか?」
ほう、と望は感心した様に相槌を打った。結局の所、絵里花を殺すを除外するとこの方法以外思いつかないだけであるが。
「仲直りするかしないかはさておき、そもそも何が原因で喧嘩したのですか?」
「喧嘩の原因? ……そう!! アイツ!! あのバカがパパの悪口を言って!! あぁ思い出しただけで腹が立ってきた!!」
自分の事を馬鹿にされた事は何とか我慢が出来たが、義之の事となると話は別である。妻を亡くし男手一人で此処まで育ててくれた偉大な父の事も知らないのにアイツはそれを平気な顔をして踏み躙った。まさに愚の骨頂である。
「旦那様の悪口を言われて、腹が立った紗希は負けじと相手の御父上を侮辱した、といった流れでしょうか?」
「だから何でそれを知ってるのよ!?」
「おや、また当たってしまいましたか。つくづく紗希は言う事する事全て分かりやすいですね」
まるで掌で踊らされている様だった。可笑しそうに一笑する望に思わず手が出そうだったが、此処で冷静にならなければ男の思う壺だったので紗希は深呼吸して怒りを抑えた。
「原因が分かっている以上、紗希が謝って仲直りしたらいいじゃないですか」
「そんなのヤダッ!! 何で私が謝らないといけないワケ!?
「向こうもきっと紗希と同じ考えでしょう。このまま喧嘩を続行してずっと気まずい思いをして、ずっと誰とも仲良く出来ずに高校生活を過ごすのですか?」
「それもヤダッ!! 私が何で中高一貫から此処に転校したのかだって望なら分かってるでしょ!?」
年甲斐もなく紗希は駄々を捏ねる。望はわざとらしく困った様子で唸った。そして何処からともなく鋭い包丁の様な物を取り出し、刃を光らせた。
「ふむ……、ではやはり俺が喧嘩相手を抹殺するしか――」
「だーかーら!! 何でそうなるのよ!? それだけは絶対駄目!!」
「何故ですか? 紗希にとっては許せない相手の筈でしょう? なら俺が殺しても問題無いじゃないですか」
「問題大アリよ!! 何で私と喧嘩した位で殺されなきゃ――」
「喧嘩した位で?」
何気無い事を口走った事により紗希は気付けた。件の喧嘩の原因はほんの些細な事であり、取るに足らない意地を張り合った事による、実に下らない事柄である、と。そんな瑣末な事すら自力で解決出来ない様ではきっと義之に馬鹿にされるだろう。
紗希がその答えに辿り着けた事に気付いたのか、望はさっきまで小馬鹿にしていた様な態度を改め、温かな笑みを浮かべながら軽く拍手をした。
「……紗希。そんな簡単な事に気付く事ですら結果的に遠回りになっていましたが、それでも貴方は気付いて考えを改めようとしている。とても素晴らしい事です」
「……望。私、謝っても受け入れてくれなかったらどうしよう?」
「大丈夫です。きっと分かってくれますよ。紗希は優しい御方ですから。……分からないなら俺が少しばかり痛めつけて――」
「絶対やっちゃ駄目!」
「冗談です。……さぁ、早くしないと昼休みが終わってしまいますよ」
望はティーセットを片付け、背中を優しく押してくれた。ふと後ろを振り返ると、瞬く間に姿を消していた。本当に何者なのだろうかと疑問に感じたが、彼の言った通り昼休みが終わってしまう。紗希は決意を固め、絵里花の元へと向かった。
※
「京極院さん? ……ああ、図書室だよ。お昼ご飯の後に珈琲を飲んで読書するのが日課らしいから」
教室に戻った紗希は勇気を振り絞ってクラスメイトの一人に絵里花の場所を訊ねた。すると何の気兼ねも無く答えてくれたのである。少しばかり肩透かしを食らってしまったが、礼を入れて早速図書室へと向かおうとする。
「……風間さん、だっけ? 何? 京極院さんとまた一悶着起こす気?」
「期待を裏切る様で悪いけど、謝りに行くよ」
「あはは、それは残念。……ここだけの話、あのスカしたお嬢様の鼻柱をへし折ってくれて清々したって奴、結構居るからね。私もその一人」
「……それはどうも」
まさかあの向こう見ずな行為を支持してくれるとは思いもしなかった。紗希は少しばかり困惑していたが、褒められるような事ではあまり無いので軽く流して教室を後にしたのであった。
図書室へと続く扉を開ける。空間内に無数の本棚が
公共の場所だと言うのに絵里花は勝手に自分だけのスペースを作り、近くの机にコーヒーサーバーとカップを置き、両隣に取り巻きを侍らせて優雅に本を広げて読み耽っている。
「……折角の読書の時間が台無しですわね。例の野蛮人が居る所為で」
目の前の気配に気付いた絵里花が目線を上げて紗希の姿を一瞥するなり、眉間に皺を寄せて嫌味を言い放った。少しばかり苛ついたが、今はそれどころではない。
「……京極院、さん」
「話し掛けないで下さる? アナタの声は耳障りですの」
「……ごめんなさい」
深々と頭を下げて紗希は謝罪した。さっきまで拒絶していた筈の絵里花は何も言い返さなかった。
「パパの悪口を言われて、ついカッとなって、京極院さんのパパの事を悪く言っちゃった。……仲良く出来そうにないのは承知の上だけれど、せめて京極院さんのパパの悪口を言った事だけは撤回させて、くれない? ……いや、させて、くだ、さい……」
沈黙が続く。向こうがどんな表情をしているのか分からない。受け入れてくれずに拒絶されるのだろうか。静寂を切り裂く様に本を閉じる音が聞こえた。
「……顔を上げて下さいまし、風間さん」
「……?」
言っている意味が分からず、思わず顔を上げる。其処には屈託の無い笑みを浮かべた美しい女の姿が見えた。
「ワタクシからもアナタとは仲良くなれそうにないと言った事、撤回させてくださいまし。……そしてアナタのお父様を侮辱した非礼を詫びますわ。……申し訳ありません」
「京極院さん……!」
差し出された彼女の右手に応えるべく紗希はしかと握り、微笑んだ。その光景を目の当たりにしていた取り巻き二人は涙を浮かべながら拍手を送っていた。
こんなにも単純に解決できる事をどうしてウダウダ考えていたのだろうか。実に馬鹿馬鹿しい、と紗希は改めて気付く事が出来た。
「さぁ、風間さん。友情の証にワタクシ自慢のブレンド珈琲をご用意致しますわ。是非お召し上がって下さいまし」
「え? 嫌だけど珈琲なんか。せめて紅茶にしてよね」
「こっ……、珈琲なんか? 今、珈琲なんかと仰りました?」
突如として絵里花が口角を引き攣らせ、身体を震えさせる。そんな姿を紗希は怪訝そうに見つめていた。
「大体紅茶って何なんですの!? あんな泥水を啜るなんて舌がイカレてませんこと!?」
「はぁぁぁ!? 苦いだけの黒い汁の何処が美味しいワケ!? アンタ味覚障害か何か!?」
「きぃぃぃ!! 言ってはならない事を言いましたわね風間紗希!! アナタだけは絶対に許しませんわ!!」
「はーっ!! アンタに許して貰わなくったって結構よ京極院絵里花!!」
やはりこの女とは仲良くなれない。紗希はいがみ合いながら再認識したのであった。
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