防波堤の夜明け

川辺 せい

防波堤の夜明け

 毎晩飲んでいる薬とアルコールをちゃんぽんするいつもの夜、ふらっと散歩に出かけてはたと気づいた。仮にも二十代の女が深夜に出歩くもんじゃない。


 私とその男——青年とも少年とも形容し難い人物とは完全に目が合ってしまった。端麗な顔立ちをしているその男はにっと笑って、「やってんねぇ」と楽しげに言う。とんがったふたつの犬歯が特徴的だった。


「お姉さん、こんな時間に出歩いたら危ないよ」

「あなたも大概ですよ、今どき性別は関係ないですから」

「まぁ、僕はまだ飲んでないから」


 その言葉がどちらのことを指しているのかはわからなかったが、こっち側の人間なのだろう、と勝手にカテゴライズする。ずっとにやにやしているその表情は不気味そのものだったが、あやふやになった理性ではもはや危機感を抱くことができなかった。


「お姉さん、死にたいの?」

「いいえ」

「じゃあなんで?」

「習慣で」


 それ以上言葉を交わすこともなく、のろのろと歩き始めた彼の背中についてゆく。遠くへゆけるのなら、なんでもよかった。私はいつだって夜に閉じ込められるばかりで、“どこか”までを歩いてゆく勇気を持てない意気地なしだった。だけれど、今夜だけは違う夜になるかもしれない。


「外に出るのも、億劫だろうに」


 彼が言葉を発したのは、二時間以上歩いて海辺に辿りついたときのことだった。ちゃんぽんで濁った意識のなかでは、二時間歩くことなど体感三秒程度のできごと。気づいたらここについていた、というのが率直な感想。


「酔ってるときだけは、活発なんですよ」

「はは、よろしくないね」

「誰にもおすすめはできません」


 私と彼は防波堤に腰掛けて、海を眺めた。夜の海は黒く、深く、とても生命が生まれる場所とは思えない。ごうごうと唸る波が押し寄せるたび、吸い込まれたい衝動に駆られた。私はもう、どうかしてしまっている。その自意識は日に日に強まっていた。


「別に飛び込んでもいいけどさ、泳いで戻ってきてね」

「そんなこと、人前ではしませんよ」


 奇妙な男だ。たぶんこの人は海に飛び込んだことがある。だけれどそれは、私にとってどうでもいいことだった。私にはどうせできやしない、明日も変わらず重い頭を引き摺りながら満身創痍を隠して社会へ出てゆく。


「朝焼けを希望だと感じる人と絶望だと思う人との間にはどんな差があると思う?」


 両の口角をにっと上げて問いかける彼の瞳は、夜闇でも視認できるほどきらきらしていた。こんな時間に放浪している人間のものとはまったく思えないほど、純真無垢な眼差しだった。


「生きたいか死にたいかってだけじゃないですか」


 私は呟いて、道中寄ったコンビニで調達した缶酒を煽る。彼はそれを止めなかった。


「僕もそう思うよ」


 私たちは朝日が昇りはじめるまで、その防波堤にいた。真っ黒に染まっていた空はしだいに藍色と紫を混ぜ、そして橙色と深い蒼のグラデーションを成す。その中央、地平線の上にはつよすぎる光を放ちながら太陽が昇った。夜の終わりは、この人生の終わり。太陽が昇る時間、それは異なる人生を生きること。


「誰だってさ、ふたり以上いるんだよ、自分なんて」


 防波堤を降りて三叉路で別れたあと、その男と出会うことは二度となかった。あの夜明けになんの意味があったのだろうかと、今でも考える。答えの見つからない事象が増えるたび生きるしかないと諦める私のことを、彼は知っていたのだろうか。今夜もまた、覚束ない足取りでふらふらと街を彷徨う。ひとりきりで見上げる日の出はむなしく、だけれどほんの少しだけぽかぽかとした柔い心地が、私の全身をぬくもらせた。



(瓜生山の本屋さん『いつか見た夢』より)



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