私のお兄ちゃん 《有栖》

「おかえり」


心地よい低い声が、ドアを開けると同時に迎えてくれて、私は、心から安堵して、半ば駆けるように家に入った。


「ただいま、お兄ちゃん!」


「おーおー、お行儀が悪い子が帰ってきな…靴揃えてきてないだろ…そんなに焦らなくたって、夕飯はまだだぞ」


兄はタバコの火を消しながら、少し笑って私を迎えた。


「今日はハーフアップか…竜之介もバリエーションが増えたな…有栖、よく似合ってるよ…」

兄のきれいな瞳を細めて、少し骨ばった長い指が私の髪に触れる。ふわっと少し甘い煙草の香りが鼻をくすぐる。 


「昨夜は眠れたみたいだな…

いい顔してる」

端正な顔をくしゃっとイタズラっぽく崩して私に微笑みかける。


「あ……うん……ありがと」

私は照れて俯きながら答えた。


自分の兄に照れるというのもおかしいのだろうか…。でも、兄は妹の私も見惚れるほど男前のハンサムだった。

「うん」

兄は、私の頭をぽんぽんと軽く撫でると、もう一度微笑んだ。


「お、竜之介もおかえりさん。」

私の靴を揃えてきてくれたのか、少し遅れて竜之介もリビングに入ってきて、兄が声をかける。

「…ただいま…。兄貴、今朝は帰らなかったね…」

竜之介はちょっとそっけないふうに言う。

いつものことなので、気にはならないけれど。


「仕事から学校に直行だよ…だからもう眠い眠い…」

欠伸するしぐさをしながら兄が言う。

私は兄が何の仕事をしているのかよく知らない。 


「お兄ちゃん休んでて。

夕飯、私が作るよ…何が食べたい?」

私は少し慌ててコートを脱ごうとする。

「慌てなくても…」

兄が言いかける。


「慌てなくても、もうどこにもいかない?」


自分で口に出して、なぜそんなことを言ってしまったのか不思議に思った。

私は何を言っているのだろう。


すると、お兄ちゃんは一瞬目を見開いたりように感じたが、すぐ目を細めて笑った。


お兄ちゃんの瞳が優しく揺れて私を映していた。

「ああ、もうどこへも行かないよ、今晩はね。ありすと一緒だ。それに…おまえたちが腹を空かせて帰ってくると思って、もう兄ちゃんはビーフシチューの下拵えをしておいたよ」 


「お兄ちゃん、お仕事と学校で疲れていたなら、休んでいてよかったのに…」

私は自分の先ほどの言葉をかき消すように笑いながら言った。


「大丈夫だよ、料理は俺の息抜きみたいなもんだからな、ありすは竜之介とゆっくりしてな、あ、宿題があるならちゃちゃっとやっちまいなよ」

そう言って、お兄ちゃんはキッチンへ消えていった。 


兄と私たちは4つしか離れていないのに、いつも兄は私を子供扱いする。

私が幼いだけなのか、兄がしっかりしているのか、私にはそんな兄が大人びて見えた。


うちにはパパとママがいないから兄は大人にならないといけなかったのかな。

だとしたら……


***


「ねえ、お兄ちゃん……あのね……」

兄の作ったビーフシチューを食べ終え、食器を片付けはじめる彼に私は話し掛けた。


「ん?どうした?コーヒー飲むか?

それとも紅茶?

今日はオレンジジュースもあるぞ」

「あ、じゃあ……コーヒーもらうね……」

私が答えると、彼はふわりと微笑んで

「砂糖はひとつ?ふたつ?」

「えっと……今日はふたつで……」

「はいよ」

彼は、マグカップにコーヒーを注ぐ。 


竜之介は冷蔵庫から冷えた水を出してぐびぐび飲んでいる。

「はい、ありす」

「ありがとう」

受け取ったマグカップから漂う湯気があたたかい。


兄は、ソファに座る私のとなりに腰掛け、 私を見つめる。

竜之介も、そばで黙って私を見ている。


兄も竜之介も、私が言葉を発するまで何も言わない。

ふたりは何も聞かずに待ってくれている。

私は言葉を選びながら、話し始める。


「あのね…最近すごく幸せなの」

「うん」

「学校では華ちゃんや他の友だちとも仲良くできてるし、私が困ったときはリュウがフォローしてくれる…。

家に帰ればお兄ちゃんがいる。

ずっとこうやって暮らしていきたいって思う」

「……そうだな」

兄は優しく微笑む。


「でも、ときどき不安になるの」

ピクっと竜之介の肩が揺れた気がした。私は構わず続ける。


「だって……この幸せが壊れてしまう日が来るかもしれないもの……それはいつかはわからないけど……私はそんな未来をたまに想像してしまう…なぜそんなことを、考えてしまうのかわからない…ただ…」

「……」


兄は真剣な表情で私の話を聞いてくれている。

「私は大切なことを忘れているような気がするの……でも、どうしても思い出せないの…」

私の言葉を遮るように兄が私の頭を撫でた。


「なーに心配してんだよ。

俺はどこにも行かないし、お前たちを手放したりしないよ。」

「……」

私は兄の優しい眼差しから目を逸らす。

そして、自分の膝の上に視線を落とす。

「……でも……私は……忘れていることを思い出したら、きっとここにいられない」

「……」

兄の優しい瞳にすこし動揺の影が差したのがわかった。

竜之介も驚いて私を見ている。


「……お前たちは、大事な家族なんだ。どんなことがあろうとも、俺が守るよ。

だから安心していいんだ。

何も心配いらない。」

兄は私の髪を撫でながら言った。

その声はいつものように温かくて、私の心を満たしてくれる。


「うん……」

兄の言葉に嘘偽りはないと信じられる。 


「ありすは」

黙っていた竜之介が口をひらいた。

「もんのすごく心配症だからな…そんなんだからいつまでもおちびのまま、大きくなれないだよっ」


おどけたように言った竜之介の声が少し震えていたように感じたのは思い過ごしだろうか。


「そうだな…ありすは心配症だな…そしておちびちゃんだな…」

兄も竜之介の言葉を拾って優しく微笑む。

「もう!おちびちゃんじゃない!」

膨れてみせながら、笑いだす。

私の不安は去ったわけではないけれど、優しい兄と竜之介にあたたかい毛布でくるんでもらったような気持ちになった。


なぜあんなこと言ってしまったんだろう。

湯船の中で考えていた。

「慌てなくても、もうどこにもいかない?」

だなんて。


兄は仕事で夜、家を空けることはあっても必ず次の日には帰ってきてくれるし、兄がいない夜も竜之介がいてくれる。

ひとりぼっちになることはないのに。


目が覚めたら、そこは見慣れた天井だった。

私は確かに夢を見ていた。

でも夢は目覚めるとすぐにあぶくのように消えて、忘れてしまうのだった。


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