おまけ
幸福の園①
水盆に移るひとつの美しくも儚い物語に、わたくしはいつの間にか詰めていた息をゆっくりと吐き出し、同時に握りしめていた手の力を抜いた。
「今回もまた、わたくしは何も出来なかったわ」
まるでため息のように自然と零れ落ちたこのセリフも、一体どれだけ使いまわしてきたのか、もう自分自身ですら分からない。そう、人間に女神と崇められているわたくしにも、分からない事はある。
それは人間の思考回路だ。
「どうして神であるわたくしが人に祝福を与えても、彼らはより困難な道へと進むのかしら?」
与えられた祝福を正しく理解し、それを使いこなす事が出来ていたならば、彼らは正しく幸福な人生を歩んでいけたというのに。
だから使い方を間違えてはいけない、と忠告までしてあげているにも関わらず、いつの時代も人間という儚い生き物は道を踏み外し、自らの選択で茨の道へと突き進む。
それに……わたくしが作った楽園に住まう人間達は、どういう訳か他の神が作った楽園に比べて困難な道を自ら選び進んで行くのよね。
それぞれに与えた祝福さえ正しく使えていたならば、このような結末にはならなかったと言うのに。
──いつだって人は過ちを犯し、そして愚かにもそれを繰り返す。
その重大な過ちを前に、後悔はしても学ぶ事はないのだ。
人間は神の考える事は複雑で理解出来ないと言うけれど、わたくしから言わせれば人間の考え方や思考回路の方がよほど複雑で歪んだ考えをしていると思うわ。
幸福への道を約束された者達が、道を逸れずに進む確率は極めて低い。
それはいくつもの時代を巡っても同じ事。
わたくしは自らが選び祝福を与えた人間が、道を踏み外すのを黙って見ている事しか出来ないこの状況が、なんとも酷くもどかしいと思う。
それでもわたくしには手出しが出来ない。
魔界との約定に則り、神であるわたくしが人間界への直接的な干渉は行う事が出来ないからだ。
自分達で決めた縛りだと、分かってはいても厄介な事に変わりはないのよね。
水盆に映るかつて愛した彼に生き写しである青年を眺め、わたくしは深いため息を吐いた。
青年もあの時の彼と同じように、美しく壊れた笑みを浮かべながら心から愛する人をそっと抱きしめている。
彼と同じ見た目の子が生まれる度に、繰り返されてきた確かな物語。
わたくしは貴方だけが欲しかったのに、肝心の貴方はわたくしを選んではくれなかった。
「すまない、アビー。俺は彼女を愛しているんだ」
あの時申し訳なさそうな表情を浮かべる青年に、わたくしは何と声を掛けたのだったかしら。
彼がわたくしを拒んだあの瞬間、わたくしは女神として君臨する己の未来から永遠に遠ざかる機会を失ってしまった。
そして女神となったわたくしに、魔界と結んでいる約定という縛りも、個人として結んだ約定すら覆す力はない。まあ、それは下も同じ事なのだけれど。
だから……貴方が最愛を失ってしまった瞬間ですら、力になる事が出来なかったのよ。
最愛を失った貴方は静かに、だけど確かに壊れていったわ。
まあ、壊れた貴方の瞳にすら、わたくしが映る事はなかったけれど。
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