第15話

  部屋に電子音が鳴る。朝六時を知らせるアラームだ。画面を指で叩き、停止させる。

 布団から這い出て、枕元に置いてある服を手に取る。三月とはいえ、朝の寒さは相変わらず肌を刺す。震えながらもさっさと着替える。

 洗面所に行く道すがらにある台所から小気味いい音と、空腹を刺激する出汁の香りに誘われ、足を踏み入れた。

 茶色に染めたショートヘアの髪を、上半分をゆるく一つにまとめた女性がそこに立っている。

「おはよう紗子」

 朝一番のかすれた声で呼びかけると、紗子は包丁を持った手を止めてオレの方を見て微笑む。

「仁志さんおはよう」

「今日は早いな」

「楽しみ過ぎてアラームより早く起きちゃって」

「今日だな、咲が帰って来るの」

「久しぶりに咲に会えるし、総一郎くんも来てくれるって言うから張り切るしかないでしょ」

「ご飯どうするんだ」

「お昼はこないだ綾ちゃん家からお歳暮でもらった、おうどんにしようかなって」

 ふと奥のコンロに目をやると、小さな鍋に金色に輝く出汁が輝きと香りを放っていた。

「夜はお鍋か巻き寿司。総一郎くんの好き嫌いがわからないから訊いてから、みんなで買い出ししに行こうと思ってるんだけど」

「そうか。いいんじゃないか」

「車の運転よろしくね」

「おう、任せろ」

「仁志さんも起きたことだし、ご飯並べるね。あ、髭ちゃんと剃るんだよ」

「言われなくても今からやるっての」

「そう言いながら、すぐ忘れちゃうじゃん」


 髭をいつも以上に丁寧に剃って戻ると、ダイニングテーブルには朝ごはん。白飯、わかめと豆腐のみそ汁、サバの甘酢掛け。ほうれん草に煮びたし。

「「いただきます」」

 二人で声を合わせ、食べ始める。

 夜はオレの帰宅が遅いから合わない。せめて朝だけは家族揃って食べよう。それが、桂家の日課だ。

 咲がまだいた頃は大変だった。とにもかくにもアイツが起きない。目覚まし時計を止めて二度寝は当たり前、紗子が起こしに行ってもダメ。結局オレが出動して二人がかりで叩き起こす。ほとほと困ったものだった。

 咲を起こすという作業が減って、最初のうちは正直寂しさがあったが、今は十八年間よく起こしてやっていたなと思いながら、飯を食らう。ふっくらと炊き上がり、噛みしめるほど甘みが溢れる。

「んまい」

 と小さく呟くと、その言葉を紗子は聞き逃さず、にこにこと笑っている。

「総一郎くんってどんな子なんだろう。写真見る限りだろ、目が大きくてかわいいかんじよね」

「性格も真面目で清潔感のある青年だ」

「仁志さんだけもう挨拶してるのホントずるい」

 とある事情で、今年の正月明け早々に日帰りで咲に会いに行き、その際に総一郎くんとも対面を果たした。

 あの日は紗子に内緒というか、突発的衝動のまま動いた結果だった。

 人見知りの娘に彼氏が出来たと聞いたら、そりゃあ心配でいてもたってもいられなくなるもんだろ。

 でも実際は、そんな心配など全くいらないくらい、総一郎くんは好青年だった。むしろ遅刻癖や忘れ物常習犯の咲を「世話してくださってありがとうございます」と頭を下げねばならんくらいだった。

 手土産もなく、時間もゆっくりないままに帰宅したから、今日は話せるのを楽しみにしている。

「今度はオレたち揃って咲に会いに行かねぇと」

「行きたーい! まだ大阪観光だってしてないし」

「オマエと咲でお土産だなんだで金もふっ飛びそうだな……」

「そりゃそうなるだろうね~。めいっぱい楽しみたいもん。頑張ってお仕事して稼いどいてね」

「はいよ……」

 これでまたオレの小遣いが減っていくそんな未来が見えた。

 

 食べ終わり、居間でテキトーにテレビを観て時間をつぶしていると、紗子が化粧をし、服を着替えてやって来た。

「ねぇ、仁志さん。こないだ買ってもらったカグラミイコのワンピース着てみたんだけど、どうかな?」

 子どものようにはしゃぎながら、ワンピースの裾を持ってひらひらと揺らす。

 紗子が若いころから好きなカグラミイコというファッションデザイナーが手掛けている商品。

 オレはファッションに関してはまったくわからんが、紗子いわく「今までは庶民はなかなか手が届かないハイブランド」だったが、「低価格帯で展開する別ブランドの店を東京でオープンした」のだそうだ。

 一人で勝手に大阪へ出向いた罰ということで、先日東京に旅行へ行った際に買わされた。予算より何倍も高くて白目剥いてぶっ倒れそうになったが……。

 紺色の生地全体に水玉模様、大きな襟やボタンがどこか少女的。一昔前の映画のヒロインが着ているようなデザインだが古臭さはない。さすがファッションデザイナーといったところだろうか。


「似合ってる……って試着の時から何度も言ってんだろ」

「それでも仁志さんに褒めてもらえるの嬉しいんだもん」

「まったく……。似合っててかわいいナー……これでどうだ?」

「うふふ、ちょっと棒読みなのが気になるけど、ありがと!」

 そう言うと、毎度嬉しそうに笑う。その笑顔見てると、震えながらお金を払いプレゼントしたことも、何度でも言ってやる価値もあるっちゃある。

「用意できたんならそろそろ駅向かうぞ」

 畳に手をかけ、立ち上がろうとすると、

「あ、ちょっと待って」

 紗子はそう言うと、中腰になり、オレの唇に軽く口づける。

「咲たちが帰ってきたら、好きな時にキスできないから」

「でも、寝る前はおやすみのチューは? ってどうせ訊いてくるんだろ?」

「バレたかぁ」

「バレたかじゃねぇよ」

「キスもしたからリップ塗って来る」

「まったく。早くしろよー」

 結婚して、咲が生まれても、二人きりになった瞬間に新婚状態になる。咲が家を出てからは朝から晩までずっとこれだ。もう四十一と五十一だってのに、と自分自身でも少しは呆れているが、紗子には負ける。咲や総一郎くんには見られないようにしなければ……。

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