第6話
脱力して再び床に尻をつく。胡坐をかき、膝の上に肘を立て、頬を乗せる。
「なあ、浅倉」
「なんですか?」
「さっき、オレがオマエを助けたって話。もしかしてあれがオレを好きになった理由とでも言うんじゃないだろうな?」
「理由の一つではあります」
頭を抱える。浅倉が特殊なのかもしれんが、こういう勘違いをさせてしまうことがあるとは。これから人を助けづらくなるじゃねぇか……。
でも、困っている人を見捨てることが出来ない性分だから、脳より身体が勝手に動くだろうけど。
「私にとって大きな出来事だったのに、先生は覚えてないなんて残念です」
「言ったろ。生徒の救護も教師の仕事。一つ一つ覚えてられん」
「そういうものですか?」
「そういうもんだ」
悲し気に俯くそんな彼女を見て、驚いた反面、罪悪感がじわりとこみ上げる。
オレにとってはたいしたことではなかったが、瀕死に近い状態になっていた浅倉にとっては大きな出来事だったのだ。「そういうもん」で片づけたのは少し言葉がきつかったかもしれない。
「助けてもらった日から一年間ずっと先生のこと見てました。集会の時に居眠りして椅子から落ちそうになってた子をそっと起こしてあげたり、立てかけてあった木の板が生徒に当たりそうになった時、先生が受け止めて間一髪だったことも知ってます」
「どれも仕事だ、仕事」
「でも他の先生結構見てみぬふりしてますよ」
「そうかぁ? オレが先に気づいてるだけじゃねぇか?」
「山田先生なんか、集会の時、よく居眠りしてますし」
言われてみれば、眠ってることあるな、あの人。事実だからオレは庇えん。
微笑みながら、浅倉は伸ばしていた足を引き寄せ、膝を抱く。
「先生に出会う前の私は空っぽでした。両親は共働きで、お休みの日もバラバラで家族が揃うってことあまりないんです。妹がいますけど、塾や部活で帰りが遅い。趣味もなくて、毎日同じことを繰り返して、家に帰っても一人。寂しくてつまんなかった。だけど、先生に出会って、恋を知りました。先生とお近づきになるチャンスが来るかもと静江先生の料理教室に潜入……入学したんですけど、目的忘れるくらいお料理が楽しくて。本を読むようになったら、マンガとは違う面白さに気づくことができました。どれもこれも先生がきっかけで、毎日に彩りが出て来たんです。桂家でお食事するのもすごく楽しみで。誰かと一緒に食べるってご飯がさらにおいしく感じて素敵なことなんだって感動しました。先生からは、私は邪魔者だと思われてるかもしれませんが……」
「邪魔者とまでは思ってねぇよ」
「本当ですか?」
「ただ生徒がいるっていうのが気まずいだけで。でも、まあ、おふくろはオマエのことたいそう気に入ってるし、あんなに生き生きしてる姿、珍しいからな。来たい時は来たらいいんじゃないか」
「嬉しい。これからもお邪魔しますね」
そう言って笑う浅倉の頬に赤みが戻っている。少しでも体調が回復してきたならオレも安心した。
その時、耳をつんざくようなハウリング音がしたと思えば、
『二年A組、桂先生! 至急、職員席の方へお戻りください! 桂先生ー!』
大音量でスピーカーから聞こえる教頭の声。生徒の爆笑する声も微かに聴こえる。
「やべっ、行くしかねぇな」
「あ、先生。最後に一ついいですか?」
「なんだよ?」
「先生のおかげで将来の夢も決まったんです」
「ほぉ?」
「先生のお嫁さんです」
「……」
「というのは、少しだけ冗談で。お料理に関するお仕事に就けたらなって思ってます」
「そうかい。見つかったなら良いんじゃないか」
「応援してくれますか?」
「もちろん。先生だからな」
「あーあ。私だけの先生ならいいのに」
「あのなぁ……」
『桂先生ぇー! 桂先生、どこですぅ⁉』
さっきよりも声がデカいせいで、音割れしている。
「とにかく無理すんなよ」
「ありがとうございました。……先生、大好きです」
オレは大急ぎで職員席へ戻る。教頭が仁王立ちで待ち構えていた。
「どこ行ってたんですか! まさかサボりですか⁉」
「すいません。急にお腹が痛くなって……!」
「まったく! そういうことなら、他の先生に一言かけてから行ってもらわないと! 小学生でも出来ることですよ⁉」
全教員、全生徒の視線を感じながら怒られた。恥ずかしかったが、救護とはいえ生徒と二人きりだったとバレるよりはよかっただろう。
昼休憩を挟み、午後の部が始まった。早々に若手教員による五十メートル走だ。
「山田先生、張り切ってるんすね」
「そりゃそうだよ。生徒に良いところ見せたいじゃないですか」
彼の額には『二年C組絶対優勝』とマジックで書かれた黄色い鉢巻を巻かれている。ホント気合が違う。よく見ると、A組の連中までオレに見向きもせず、山田先生に声援を送っている。
年の近い男性教師合計五人がスタートラインに並ぶ。
とりあえず、オレはケガしない程度に走るのを目標にしておこう。
ピストルの音が鳴り、一斉に走り出した。さすが山田先生、真っ先に飛び出す。他の三人の先生もその背中を追いかける。つまり、オレは今最下位というワケだ。まあ、いい。別にボーナスが出るわけでもなし。
走っている途中なのに、「浅倉の体調、大丈夫だろうか」とよぎってしまう。体調悪くても、オレの走るところなんて見たいだなんて、おかしいヤツだ。アイツも他のヤツらみたいに山田先生にワーキャー叫んでいればいいものを。それなら、助けてくれたからって、アイツがオレに興味や好意を持つことなどなかったのに。
これまでの生活の中で「好きだ」とあんなに伝えてくるのはアイツが初めてだ。過去数人と付きあったことはあるが、こんなに好きとは言われなかった。いつも向こうから告白してくる割に、すぐ別れを切り出して来て、勝手に泣きだす。「あなたは私を好きになってくれない」とかなんとか。
正直、オレも悪い。告白されて、断って相手を悲しませるのも……と思って、その場の空気に流され頷いてしまう。気持ちが追い付いてないまま始まって、終わる。
今もきっとそう。いつもとは違う状況だが、アイツが「好き」と言ってくるたびに混乱しているのは事実だ。でも受け取るわけにはいかない。雪のように降り注ぐ好意が地面に落ちて溶けて消えるのをただじっと見ている。見ているくせに、見なかったふりでやり過ごそうともしている。
しかし、溶けても水滴となって足元に残り続けて、水たまりが出来て、どんどんと大きくなっていっている。いずれ池になり、もしかしたら海になって溺れるかもしれない。理性の浮き輪にしがみつかなければ深く深く沈みそうな自分が怖い。
最後のカーブを曲がると白いゴールテープが見えてきた。
ようやく終わるなぁと気を抜き、ふと退場ゲートを見ると、そこに浅倉が立っていて、目が合う。胸元に置いた両手は固く握っていて声は出さずとも、瞳の力強さからこちらへエールを送ってくれているのが伝わった。
一気に身体がカッと熱くなる。目をつむり、顎を引く。腕と足を大きく動かし、直線を走り切った。
「いやぁ、桂先生すごいや。最下位から二位まで上げてくるなんて」
「あー……はあ……」
「なんだかんだ見せ場作るじゃん」
「えー……そうですかね……」
山田先生が一方的に話してくるのを、話半分で聞き流しながら、チラチラ後ろを振り返ってしまう。浅倉はまだオレを見ながら、数歩後ろから付いてきているからだ。
すると、突然口を手で覆うと、声を出さず、パクパクと動かした。
カ・ッ・コ・よ・か・っ・た。
そう言って、目を細めて笑う。
慌てて山田先生の方を確認する。知らぬ間に山田先生は立ち止まり、生徒に四方八方囲まれて楽し気に会話している。どうやら今の浅倉の行動は見えてなかったようだ。胸を撫で下ろし、浅倉に視線を戻すと、また唇を動かした。
だ・い・す・き。
オレは何も返さず、足早にその場を去った。
ずっと心臓は高鳴ったまま。アイツが見ていたからだとか、また好きだと言われたからじゃない。走ったからだと何度も自分に言い聞かせた。
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