星彫る私たちの夢見心地な日々
よなが
第1話 星との出会い
1-1 長鼻と看病
真昼の月を彼方に望みながら、小高い丘を登っていく。青々とした空に白く霞んだ半円が、闇夜のそれと比べると頼りなさげに、ひっそりと浮かんでいた。
ふと、晩春らしさのある柔らかい風が吹きつけた。私の頬を優しく撫でていき、ほのかな花の香りが鼻腔をくすぐる。
うららかな日差しを浴び続け、たどり着いたのは石造りのお屋敷だった。庭付き、二階建て。丘の下に広がる町並みを構成する多くの家々と同様、お屋敷の建築様式は前時代的だ。と言っても、あくまで王都を基準にすればの話。日々の発展と共に何か大切なものを取り零している気がしたあの都市よりも、時代の波に取り残されている長閑な風景のほうがどこか落ち着く。
この地――ルーンワイスはかつて上流階級の保養地として賑わっていた時代もあったと旅行本に記されていたけれど、今やその気配はなく鄙びいているみたいだ。
管理が行き届いているとは言い難い庭を横目に、正面玄関と思しき立派なドアの前へと向かう。
胸の前で抱えていた包みを左手に提げ、右手で真鍮製のドアノッカーを握った。ドアを叩く。二回、それからしばらく待っても返事がなく、もう二回。それでも何の反応もなかったので、おそるおそる大きなドアに耳を近づけて室内の様子を、誰かそこで暮らしているのかをうかがってみたが、音らしい音は聞こえなかった。
荒れ放題の庭のほうから屋敷の内部を目にできないかと考え、ドア前から離れた。
そうした矢先に、ドアがすっとわずかに内向きに開く。中から人が現れるのを待ったが、しかし何者も現れず、声もしなかった。
固唾を呑んで暫しその場に立ち尽くしていた私だったが「こんにちは……メルクトゥールさん?」とやっと口にする。だが、返答はない。覗きこもうかと思ったその時、内側から何かが、音もなく現れた。
動物だ。
おそらく、動物だろう。
中型犬ほどの大きさ。一見すると猪のような面構えだが、どうにも違う。象を思わせる長い鼻がついている。象ほど長くはないけれど。体の表面はつるりとしていて、しかも奇妙なことに胴体部分が白く、四肢は黒い。ついでに言えば尻尾は太く短かった。
そのツートンカラーの奇獣は存外つぶらな瞳をしており、その両の眼が私を捉えた。突進してくるかも、と身構えたが、彼あるいは彼女はトコトコと足元にやおら近寄ってきた。そして、ぐっ、ぐっと長い鼻を押し付けてきたのだった。執拗に。それが好奇心や敵意ではなく、屋敷の中へと進めと促しているふうに解釈したのは私の勝手。でも、結果として正しい判断だったと後になって知る。
私は「こんにちはあ」ともう一度、今度はやや間延びした調子で口にしながら中へ入ると、ドアを後ろ手で閉めた。背後にいたはずの奇獣がいつの間にかひょっこり前方にいて、短い足で進み始めた。そうかと思えば立ち止まり、くるりと私のほうを向く。
ついてこいってこと?
心の中でそう尋ね、奇獣がいる方向へと一歩踏み出すと、奇獣はまた前を向き直して動き始めた。薄暗い室内を、窓から差し込む陽光を頼りに歩く。いるはずの住人へと何度か声をかけながら進むが、返ってくるのは沈黙だけ。
通りがかった廊下の姿見に映る像――肩につかない程度に切り揃えられた暗めの金髪、翠の眼。それは私自身に他ならない。
名前を知らない珍獣は一階の突き当たりの部屋の前で止まる。ドアはこの白と黒の生き物が通れるほどのスペースが開かれていた。
足を止めた獣が私を仰ぎ見る。訴えかけてくるような目つきだ。もし部屋の中にこの獣の何十倍も大きな怪獣がいて、私を喰らう腹づもりで待ち構えていたら……そんな怪奇小説じみた妄想を振り払って、私は部屋へとお邪魔する。
まず目に入ったのは閉じられたカーテン、その隙間から漏れ出る光の線。それから視線は壁際のベッドに引きつけられた。誰かいる。横たわっている。荒い息遣い。
――病人?
私は持っていた包みを書き物机の上へ無造作に置くと、ベッドに駆け寄った。
寝ていたのは女の子だった。髪は黒くて長い。顔つきからすると私よりもいくらか年下、おそらく15歳ぐらい。厚手のブランケットはめくれ上がっていて、彼女の寝間着姿を晒している。その寝間着にしても部分的にはだけていた。熱と汗。彼女がそれらに苦しみ、うなされているのがわかった。目は閉じられ、険しい面持ち。
不意に、例の白黒長鼻動物が玄関先にいた時よりも強めに私へと鼻を押し付け、というより頭突きをかましてきた。そうか。察するに主人を助けてほしいということなのだろう。そのために私を招き入れたのだ。
考える。ルーンワイスは私にとって、今朝生まれて初めて訪れた町だ。医者がどこにいるかわからない。うん、お屋敷を飛び出して闇雲に探しに行くよりも、ここでできることをすべきだろう。水分補給と汗の処理、それぐらいならきっと。
室内を見回す。四つ脚の木製四段チェスト、下から確かめる。頻繁に中身を入れ替えてはいないようだ。少し埃っぽい。とりあえず衣服と肌着類、それにタオルを見つけた。タオルを手に部屋を一旦出る。ありがたいことにこの屋敷には上下水道が整備されているようだ。探し当てたキッチンでタオルを濡らし、食器棚からグラスを取り出して水を注ぐ。それらを持って急いで部屋へと戻った。
思えば、生まれてこの方21年余り、介抱や看護と縁遠い人生だった。いっしょに暮らしていたおばあさまは元気過ぎるぐらいで、学生寮にいた頃は一人部屋をあてがわれていた事実もあって、寮生の誰かが風邪を引いても私が世話役になることはまずなかった。
結局、私はいつかどこかで伝え聞いたとおりに、あるいは本の中に出てきた看病の場面を参考に、喘ぎ苦しむ少女の世話にあたった。ブランケットをめくりとると、彼女の身体をなるべく動かさずに処置を施していくことにする。まず多量の汗でぐっしょりと湿った衣服を脱がせ、全身を濡れタオルで拭き始めた。
これまで異性同性問わず、誰かの裸身を間近で目にして、こうもくまなく触れた経験はない。薄暗い部屋に目がすっかり慣れ、彼女の体つきや表情がくっきりすると、しだいに気恥ずかしさが込み上げてきた。
綺麗だと素直に感じる。顔の輪郭や目鼻の整いぶりだけでない。着飾って王都の大通りを談笑しながら歩く婦女子たちとは別の、むしろそうした人たちにはない素朴な美しさ。
体型は痩せ気味だけれど、栄養失調というほど骨が浮き出てはおらず、その柔肌はタオル越しではなくうっかり直に触れてしまいたくなるような感触をしていた。
それは図らずとも、机の上に置いたあの包みの中の品物、あれに手を触れた時のことを私に思い出させた。
この女の子はメルクトゥール氏とどんな関係にあるのだろう?
汗を拭き終え、準備した肌着を身につけさせながら思案する。うら若き使用人、それとも氏の娘ないし孫娘だろうか。もしくは妹? ひょっとして幼妻? まさか……本人?
お屋敷の間取りだけで考えるなら、この女の子一人暮らしというのは不自然だ。けれど、キッチンの様子を思い起こしてみると、確かに一人で生活しているふうではあった。
いや、まるっきり一人ではない。
ちらりと例の珍獣を見やる。私が主人(推定)の介抱をしている間、ずっと近くにいた。ただし自分の役目は果たしたでも言わんばかりに、ごろんと横に転がって眠っているようだった。……意外に愛らしい動物かもしれない。
それはさておき、私はベッド脇のスツールに置いたグラスを手に取り、悩む。持ってきたはいいが、彼女が目を覚まさないことには飲ませられない。無理に飲ませていいものではないだろう。そうこう考えているうちに、おもむろに彼女の瞼が開かれた。
「……お……ねえ、ちゃん?」
消え入りそうな声。
一人娘の私だけれど、学生だった時に親しくしていた同性の後輩から「お姉様」などと冗談半分に呼ばれていたっけ。ううん、そんなこと今はどうでもよくて。
「えっと、その、怪しい者ではないの。お水、飲む?」
客観視すると、とても怪しかった。
幸か不幸か、彼女の意識はまだ混濁していて私のことを闖入者扱いせずに、こくりと首肯いた。彼女が身を起こすのを手伝い、口元にグラスを運ぶ。
半分ほど上手に飲ませることができたと思った瞬間、彼女がげほげほとむせる。「ご、ごめんね」と謝る私に彼女が「もっと……」と虚ろな目つきのままで言った。「もっと、ほしいの?」と聞き返すと小さく首を縦に動かした。
その火照った額にぺたりと張り付いた前髪、その艶やかな黒の束を私は指で払って「自分で飲めそう?」と尋ねる。今度は横に小さく首が振られる。そこで、先程よりもゆっくりと彼女の口に水を運ぶ。
小さく開かれた可憐な唇から溢れ、つぅーっと雫が伝い落ちる。
お屋敷のどこかに適当な薬はあるか、誰か頼れる人はいるか、等々と確認したいことはあったけれど、水を飲み終えた彼女はまた眠りに落ちてしまった。
あ、名乗ってもいないや。
シーツは変えられなかったが、汗の始末をして水分を補給したおかげで、心なしか彼女の寝顔は安らいだ。思わず私も安堵の溜息をつき、それから途方に暮れた。
二階に上がってみようか。もしかすると、この子や不思議な動物とは別に住人がいて、私の訪問に気づかなかっただけかもしれない。何か作業に没頭していて。
たとえば、石を彫るのに夢中になっているとか。
書き物机へと近寄ると、置いていた包みを手に取った。固く縛っていた紐をほどく。中身は、植物をモチーフにしたレリーフだ。片手には余る帳面ほどの大きさで、石でできている。石灰岩や砂岩、大理石ではなく黒曜石に似た色合いと手触りの素材。
夜空の色をした花弁、葉、茎……それらの神秘的な様相に心惹かれた。特別に。
この石に星図を見たのだ。そのきらめきこそ、ここへ来た理由。
レリーフの作者であるらしい、メルクトゥール氏に弟子入りをお願いするために、私はやってきたのだ。
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