Lose,Loser,Losest

蒼青 藍

序章:異外者覚醒編

開演 -curtain raising- その1

「クソ雨がよ……」


 二〇三九年、六月某日。午後九時頃。


 ずぶ濡れの少年━━後に見鹿島 ハバキと名乗る彼は、レンガのひび割れた古いビルの玄関前で雨宿りをしていた。

 何のビルかは分からない。自分が何処に居るかも分からない。少なくとも東京なのは確かだが、東京のどの辺りなのかは検討もつかなかった。


「……寝床、どうするかな」


 ポケットから湿気たハンカチを取り出して、顔を拭く。そしてハンカチを顔に当てたまま、深く単調なため息を一つ吐いた。


「フゥー……」


 彼はその場に座り込む。今後の生存戦略を思案する為に。


 ━━


 同日、同時刻。


「ハァ、ハァ……」


 ビニール傘を差した少女━━後に佐間宇 サヤと名乗る彼女は、褪せたグラフィティにまみれた通りを無我夢中で走っていた。


「やっちゃった、やっちゃったやっちゃった……! 」


 今差しているビニール傘は彼女のものでは無い。コンビニの前の傘置き場に置かれていたものだ。店の前に人が居ないところを見計らって、盗んだ。途中、後ろから声が聞こえた気がした。監視カメラの存在も忘れていた。もしかしたら、顔が映ったかもしれない。


「逃げなきゃ……走らなきゃ……! 」


 彼女は走る。己に追い縋る全てから逃避する為に。


 ━━


 同上。


「さ〜て、どうしよっかな〜……」


 自動運送車ソロタクシーに乗る男━━後に鵐目 椒林と名乗る彼は、空の缶チューハイを弄びながら呟く。


「なぁ、『メアリー』……キミはどうしたい? 」


 そう言って彼が目を向けた先には、一台のスマホが助手席のシートに置かれていた。見た目は何の変哲もないスマホだ。

 彼が声をかけた数秒後、スマホから合成音声が再生された。


『……子供が、欲しいです』

「コドモ……ハハッ、良いねぇ! 作ろう! いっぱい、ボクとキミだけの子供プログラムを! 」

『はい。たくさん作りましょう。このクラウドの容量限界まで』


 彼は心底楽しそうに笑う。メアリーも、ネットの海からサルベージした数千万の笑いの音声を学習し析出した最も人間に近い合成音声の笑い声を再生する。

 ひとしきり二人で笑いあった後、彼はスマホを取り上げて言った。


「……愛しているよ、ダーリン」

『私もです。マイハニー』


 彼は行く。AI人工知能との間に芽生えた、純粋で歪な愛情を守る為に。


 彼らはいずれも、自身の置かれた環境に耐え切れず、逃避を選択した者達だった。

 学校から、職場から。

 無理解なクラスメートあるいは同僚から。

 そして、目前に広がっていたはずの平和な未来から。


 この物語は、そんな敗者達への恩赦Amnestyである。


 ━━


「ハァ、ハァ……! 」


 午後十時頃。

 強まった雨足の中、通りを抜け、住宅街を抜け、少女は未だ走っていた。彼女の人生で一番走ったかもしれない。少なくとも、中学の時のマラソン大会よりは走っただろう。それほどに、追いつかれるのが恐ろしかった。

 コンビニの店員ではない、もっと嫌なもの・・・・に。


「ハ……ハ……」


 やがて息も続かなくなり、溜まった乳酸が泥のように足を重くさせる。それでも「追いつかれたくない、追いつかれたくない、追いつかれたくない……」と無理やりに足を動かそうとする。

 そして、歩道のアスファルトに足を取られた。


「きゃっ」

「うぉ危ねっ。傘の先っぽ目ん玉に当たるかと思った」


 彼女の前に男の手が差し伸べられる。顔を上げると、ずぶ濡れの少年が傘も差さずにこちらを見ていた。


「怪我は? 」

「あっ……大丈夫です。すみません急いでるので━━」


 差し伸べられた手を無視して、少女は立ち上がろうとする。

 しかし、足に力が入らずまた倒れそうになった。慌てて地面に手をついたが、手のひらを少しすりむいてしまった。


「おっと。何してんのさ、危なっかしい」

「すみません、すみません、急いでるので……」

「大丈夫なのか、本当に? 何だ、ナンカから追われてたりすんのか? 」


 追われてたり、と言われた時、少女の心臓は一際大きく跳ねた。


「え、あ、いや、違うんです、私、違、あ、ああ……」


 言葉を次ごうとするが、上手く出てこない。弁明しようとするが、出来ない。そもそも弁明それ自体が怪しんでくれと言っているようなものだと気づき、言い直そうとするが、それも出来ない。

 代わりに出てきたのは、止めようのない涙だけだった。


「……あっちのビル、行こうか」


 ━━


「落ち着いたかい」


 少年は近くの階段で、両手で頬杖をつきながら聞いた。その目が捕まえた虫を見るように渇いている風に感じられたので、少女は少し狼狽した。


 服装は灰色のTシャツにジーパンで、背は高いが筋量は少なめ。醜顔ブスというには整った顔で、美形というには目が細く、若干癖のあるウルフカットの黒髪と相まって、どこか豹のような色気と酷薄な雰囲気がある。

 実は蜂準長目ほうせつちょうもくという、彼の顔と性格を表すのにぴったりな言葉があるが、しかし彼女はそれを知らなかった。


「は……はい、すみません……」

「謝らなくていいし、タメ語でいいよ。見た感じ十六とかそこらだろ? じゃ、俺とタメだ。敬語使われるほど敬われる人間じゃないからさ、俺は」


 歳の割にダウナーな声でそう言うと、彼は困り眉で微笑んだ。

 先程とは打って変わって、悪戯好きの小僧のような目付きだ。かなり雰囲気が変わったが、少女はさっきまで自分が警戒されていたんだろう、と納得することにした。


「分かった……」


 少女の言葉に彼は小さく頷き、外に目をやる。つられて少女も外を見る。

 しばらくは特に会話も無く、二人して強まる雨足を眺めていた。


「あの……そんなにずぶ濡れで寒くないの? 」


 そのうち気まずさに耐えきれず、少女の方から声をかけたが、彼はただ肩をすくめるだけだった。

 そして、今度は彼の方から口を開いた。


「『雨の中、傘を差さずに踊る人間が居てもいい。それが自由だ』━━」


 唐突な引用にどう反応していいか分からず彼の顔を凝視するが、彼は構わずに続ける。


「四十年くらい前のアニメのセリフ。更に四十年ちょっと遡ると一本の映画に辿り着く。アンタはどう思う? 」

「私は……特にどうとも。『へーそうなんですか』って感じ」


 率直な反応だった。

 このような抽象的な問いに答えるようなことは、彼女の人生で全くと言っていいほど無かったからだ。正確には、昨今の世界情勢や時事問題に対する主張を、高校での面接の為に練習していたが、自分の進路とは無関係な、言ってしまえばほとんど何の意味も無いこの手の哲学的な問いには、ノウハウが無かった。


「つれないねぇ。もう少し会話を楽しもうや、どうせ行く当ても無いだろうに」

「それは……あなただってそうでしょう。多分……」

「まあね」


 そう言って、彼はまた肩をすくめる。彼は小さな子供に教えるような優しく、少し意地の悪い声色で続けた。


「この手の話が苦手なら、もう少しリアルに考えてみるか」

「そういうことじゃないんだけど……まあ、ちょっとだけなら」

「アンタは学校帰りで、交差点を渡ろうとしている。信号が青になって、色んな人間が自分の行きたい方向に行こうとする。傘を差しながらな。で、一人だけ、傘を捨てて交差点の中心で……フィギュアスケートの、めっちゃ回るヤツあるだろ? アレをずっとやっている」

「……フフ、何それ」


 おかしな例えで笑みを漏らしてしまったが、続く彼の言葉にはそんな自分を諌めるような、刺々しい真剣さが込められていた。


「自由だよ」


 とても齢十六の少年のものとは思えない、低く、深い声だった。

 少女は衝動的に彼の方を向いたが、そこには年相応の顔をした少年が楽しそうにこっちを見ているだけだった。


「今の疑問をもう少し深堀してみてくれ。そこにアンタの信条があるだろうから……」


 何もなかったように少年は続ける。

 少し迷ったがどうせすることもないので、少女は人生で初めて形而上学的思考に挑戦することにした。


「…………」


 先程彼が話した情景を想像してみる。


 目をつむり、長く息を吐く。頭の中の交差点と、現実に落ちる雨音がリンクしていく。自分と他人が信号を待っている。誰もが黙りこくって青になるのを待っている。そして信号が青になる。皆が一斉に足を踏み出す。

 そして群衆の中から、一人の人間が飛び出した。

 ソレは、皆の足が地面につく前に交差点の中央に躍り出す。自分も含めて、誰しもが驚いて足を止めてしまう。しかしソレは気にも留めていないようだった。

 ソレはゆっくりと、周りの人間を見回し始める。一周で止まるかと思ったが、二週、三週と回数を重ね、その度に速度が上がっていく。気づけばソレは片足を軸に、地面の摩擦を無視した回り方をしていた。

 それは踊りだった。

 彼女は生来、あらゆる踊りに興味がなかった。その為、彼女の想像したソレの身体の動かし方は踊りではないのかもしれない。それでも、ソレは踊りながら無音の歓声をあげていた。

 皆が踊りを見ていた。彼女も見ていた。

 誰も、何も言わない。拍手もしない。ただ静かに見ていた。


 そして、彼女は目を開けた。


「私は……」


 少女は話そうとしたが、反射的に口ごもる。


 今喉まで出かかったこの結論は、果たして合っているのか・・・・・・・? と。

 これは彼の信条に反するものだから、彼の気分を害してしまうのではないか? と。


 長年クラス家庭エトセトラに対して『地雷』を踏み抜かないように気を付けてきた、彼女の本能にまで深く根付いた処世術が機能したのだ。

 そんな彼女の思考に気付いたのかは不明だが、少年はただ一言、あまり気負うなよ、と呟いた。

 それを受けて、彼女は逡巡したのち口を開く。


「私は、きっと何もせずに見てると思う。少し……理解できないから」


 雨は未だ降り止まず、跳ね返った水滴は彼らの肩をしとどに濡らす。


 わずか数秒の静寂が、何倍にも引き延ばされていくのを感じる。そういえば、ここに座ってから一回も車が走っているところを見てないなぁ……などと考えていると、少年は頬を歪ませて言った。


「そうかい」


 呆れるほどに簡素な返事だった。

 よっこらせ、と老人のようなことを言いながら彼は立ち上がる。そして、未だ濡れている手を彼女に差し伸べた。


「じゃ、アンタも一緒に踊ればいい。楽しいぜ? 」

「……いいよ、寒いし」


 彼女は俯きながらそう言った。


「……そうかい。じゃあ一人で楽しんでるから、気が変わったら言ってくれ━━トゥールル、トゥルトゥル、トゥールル、トゥルトゥル……♪ 」


 何かのテーマソングらしきものを歌いながら、彼は道路の真ん中で踊り始めた。時折水たまりを蹴り上げたり、歌うのをやめて笑い声をあげたりしている。決して上手い踊りではないが、全身をダイナミックに可動させ、水しぶきを振り撒きながら踊る様は本当に楽しそうで、彼女は羨望すら感じた。


 だが、それでも彼と一緒に楽しもうとは思えなかった。彼女は雨に濡れて寒気を感じていたし、走り疲れて抱えた膝を一ミリたりとも動かしたくなかったからだ。


「ハハハ━━アッハハハハハ━━」


 端的に言って、彼はエキセントリックが過ぎるのだった。


「変な人……」


 彼女はポツリと呟く。やがて疲労から睡魔の手の中に落ちるが、その目と耳を閉じるまで、彼の踊る姿と心底愉快そうな笑い声が途切れることは無かった。

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