お土産殺人事件

@popopress46ha12

第1話 お土産は危険な香り

株式会社冥途商事の商品企画課では社員旅行の話題でもちきりであった。この商品開発を事業とする会社では、年に一度の部署別社員旅行は表向きは商品開発のヒントを得るための研修旅行であるが、実際はただ単に社員達の息抜きの旅行にすぎなかった。それ故年に一度の会社経費で行く旅行の行き先は社員達の一番の関心事であり、年度初めになると部署の課長や部長にそれとなく探りを入れたり、遠回しに自身の行きたい場所を告げたりする者が続出するのだ。

「ねぇねぇ、今年の社員旅行って何処行くと思う?」

「ん~、去年が三重県の伊勢神宮に行ったから今年は京都とか?」

「部長は験担ぎとか好きだからね~。でも京都は中学時代の修学旅行で行ったし、別の所がいいよ。」

「俺リゾート地に行きたい。沖縄とかさ。」

「いいねぇ~。青い海・・白い砂浜・・・綺麗な夕焼け・・・。そして素敵な彼氏がいれば文句無し・・。」

「課長にそれとなく探りいれてみるか。」

こんな調子で仕事そっちのけで社員旅行の話題でもちきりであった。当の課長は経費節減が騒がれている昨今あまり社員旅行に乗り気では無かった為、5月も終わろうとしている現在も社員旅行の行き先など決めてはいなかった。本来ならば、5月中旬には各部署ごとの社員旅行の行き先の候補地を考え役職者会議の場で報告し検討を重ねた結果社長など役員達から承認を得なければならなかったのだが、部署に与えられている予算の金額を考えると会社が所在している東京近郊の都市で済ませるか、いっその事社員旅行など無しで経費削減を狙おうかとも考えていた。他部署の課長とも立ち話で社員旅行の話題がでたが、どこの部署も自身の考えと似ており上層部からの経費削減の圧力に疲れ果てておりとても旅行などしなくても良いのでは無いか、との結論になりつつあった。

「大体、商品開発なんてわざわざ社員旅行に行かなくてもできる!それよりも、経費削減に実績を作った方が役員達は喜ぶに違いない。僕の給料も上がるかもしれないし。」

こんな感じである。


「よう、吉川。」

休憩室で一服していた吉川課長に声をかけたのは部長の荒井だった。荒井部長は吉川課長と同期入社してお互いをよく知っている仲なのだが、荒井が先に出世したのを吉川は僻んでいた。

「これはこれは荒井部長、いかがされましたか。」

「吉川、そんな言い方するな。俺たち同期なんだから。」

「いえいえ、同期で先に出世した部長様にめったな口はきけません。」

「まったく、俺が先に出世したことをいつまで根に持つつもりだ。まるで子供だなお前は。」

荒井は苦笑いしながら自動販売機で飲み物を買うと大きなため息をついた。吉川は荒井から目を背けながらタバコを吹かした。

「そんな事より吉川、今年の社員旅行の候補地決めたか?」

「いや、まだだけど。」

「まだなのか、上の連中は社員旅行の行き先を知りたがっているぞ。なんせ会社の経費が幾らかかるのか気にしているからな。」

「・・なんだったら、今年の商品企画課の社員旅行は無しでもいいじゃないか。それか、都内のどこかこじゃれた店で飲み会で終わらせるのはどうだ?そっちの方が経費を安く済ませられるだろ。」

「まあそうだな。今年は無しでもいいかもしれんな。もしお前が決められないのなら俺が候補地を考えてもいいと思ったけど、社員旅行は無しということで次の部課長会議で報告するぞ?その時は、課の奴らにお前から伝えとけよ。」

「わーかってるよ。課の連中は不満かも知れないが、上の連中は会社の経費削減になるから喜ぶだろうさ。その時は・・俺の手柄だからな。」

「ああ、その時は発案者はお前だって上役の連中によーく言っておくから。」

荒井は再び苦笑いをして頷いた。そして吉川はタバコの火をもみ消すと、荒井を残して休憩室を後にした。


商品企画課では新田和花菜江は同僚であり友人の大谷有実とで先輩の佐藤水希と和気藹々と話をしていた。

「佐藤さんって長野県の出身だったんですね。」

「そうだよ。千曲市って所。」

「私長野県って行ったこと無いから沢山お話聞かせてくださいよ~。」

「うん、今度ね。今日はお土産のどら焼きもあるから、課長が帰ってきてから皆に配るから、楽しみにしててね。」

「どら焼きだって~、花菜江~私和菓子大好きなの~。」

有実は物欲しそうな顔をしながらゴクリと生唾を飲み込んだ。

「佐藤さん、ありがとうございます。他の皆もきっと喜びますよ。」

「そう?ただのお菓子だよ。長野県の名物のね。でも喜んでくれて良かった。私も良いこあったし・・。」

「何か地元帰省されてたとき何かあったんですか?」

花菜江が問い返したタイミングで吉川課長が休憩から戻ってきた。佐藤は花菜江の問いを返さずにきびきびと課長に近づいていった。

「課長。あのこれ、地元に帰省していた時のお土産です。課の人数分ありますので皆さんで食べてください。」

吉川課長は佐藤から菓子折を受け取ると、箱の中から醸し出される甘い匂いを嗅ぐと満足そうな笑みを浮かべた。

「おぉ、どら焼きか。甘くていい匂いがするよ。ありがとう。さっそく課の皆に分配していただくよ。」

課長は箱の中身を確認してその匂いを堪能した後、課で一番年若い水川真莉愛に手渡し課員に分配するように促した。

佐藤のお土産は速やかに課員に分配され、それぞれ包み紙から取り出した甘いどら焼きに心を奪われていた。

皆、それぞれ佐藤に軽くお礼を告げただけだったが男性社員の井上はお土産をだしに立ち止まって佐藤に話しかけていた。

「佐藤さんって長野県の出身だったんですね。俺長野って行ったこと無くて。

「長野はいいところだよ。お水も美味しいし。新幹線で行けば、大体二時間位でいけるから日帰りでも行けるよ。」

「いいですね~。俺愛知の出身だけど長野には行ったこと無くて。いつか遊びに連れて行ってくださいよ。」

「そうだね、井上君。いつか皆で遊びに長野まで行くのもいいかも。その時は案内してあげる。」

「・・はい・・みんな・・で・・行きましょう・・。」

本来なら佐藤と二人きりで行きたかったつもりで、遠回しに誘ったのだが華麗に躱わされた井上は落胆してしまった。

井上は自分よりも年上の佐藤に好意を寄せていた。その事は花菜江と有実は気がついて居た。もしかしたら他にも気がついている者がいるかもしれない。井上はわりと素直な性格で、好意を寄せている佐藤を前にすると落ち着きがなくなるのでわかりやすい。

吉川課長はどら焼きを口に運び匂いを嗅ぎながら社員旅行の事を考えていた。

(長野か、長野なら東京からも短時間で行けるし、下手に遠くの観光地に行くよりは経費を節約できるかもしれないな。社員旅行を取りやめるとなればこいつらも不満そうに俺を責めるに違いないし・・。)

「課長、どちらにいかれるのですか?企画書の決済印いただきたいのですが。」

「部長の所。」

どら焼きを暫くみつめていた吉川課長は意を決したように立ち上がり、呼び止める女子社員にぶっきらぼうに一言答えただけで、部長の荒井に社員旅行の行き先を決めたことを告げに向かった。

商品企画部部長室では、部長室の主である荒井の呆れた声が響き渡った。

「な、なにぃ~!やっぱ社員旅行へ行くだと?」

「そうだ、行き先は長野県だ。」

「おい吉川、お前少し前に今年の社員旅行は無しにするって言っただろ!?」

「そうだけど・・気が変わった。行き先は長野だ。長野なら新幹線を使えば短時間で行けるし田舎だからそれなりに経費を安く済ませられるはずだ。」

「それなりに・・って、そりゃ下手に遠方のリゾート地に行くよりは安く済むだろうさ、でも長野だって観光地の一つとして有名な場所だぞ。時期によってはそれなりに高くつくぞ。」

「わーかってるって。観光は大体8月がピークのはずだ。9月~10月頃なら長野も観光シーズンを外れるから、ホテル代とか安く済むはずだ。それに観光場所は寺とか適当に安く済む場所でいい。善光寺っていう寺なんてどうだ?有名な寺だぞ。」

「まあ・・善光寺は観光場所として有名な場所だが。前々から思っていたけど、

吉川、これは同期としての助言だが一度決めたことを軽々しく覆すのは良くないぞ。部下からも信用されなくなるし、なによりも役職者としての資質も問われる。そんなんだから出世も俺よりも遅いんだぞ。」

「荒井よ・・」

吉川課長は真剣な顔を荒井部長に近づけると耳元で囁いた。

「先月、常務の接待でキャバクラに行っただろ。」

「う・・どうしてそれを・・。」

「俺の情報網をなめてもらっちゃ困る。なあ荒井は同期入社した頃から上役に取り入るのが上手だった。それは認めるぞ。でもやり方が少々破廉恥だと思わないか?」

吉川はニヤ二ヤ薄笑いを浮かべながら荒井の方に腕を回し、荒井は捕えられた獲物の様に小刻みに震える。

「な、なにを言っているんだ!あれはれっきとした仕事だ。常務の接待でキャバクラ行って何が悪い。ただ単に女の子にお酒をお酌してもらっただけだ。」

「本当かな~?お前はどうか知らんが、常務はその後お店の女の子と・・・。」

「!!お、お、おい・・・常務のプライバシーだぞ!やめんか。それに俺は別にやましい事は何もない!。」

「ならお前のかわいい奥さんにキャバクラ接待に行った事話してもいいんだな?後、キャバクラ接待代を会社経費で落としたことも。」

「ぐっ・・・それは・・・。でもなんでそれを知ってるんだ!」

「お前の奥さんこの会社に勤めていた頃可愛かったな~。可愛すぎて男性社員の憧れだったんだぜ~。あきちゃん。」

荒井は不満そうに顔を背けるも吉川に顔の向きを強制的に向けさせられ、そして吉川は荒井への脅しともとれる話を続ける。

「あきちゃんが、自分の旦那がキャバクラに行ったことを知ったらどう思うと思う?それに娘さん達は高校生と中学生だっけ?多感な年頃だから嫌われちゃうかもよ。」

「うぐぐ・・ぐ・・。つ、妻と娘にだけはキャバクラの事黙っていてくれ。特に娘達は最近潔癖な性格で俺の事を邪魔者扱いしていて寄せ付けないんだ。これ以上嫌われたら俺は生きていけない・・っ。」

「だろ?なら長野旅行の事よろしく頼むわ。具体的な観光場所はこっちで決めておくから、決まったら報告するから。」

「ああ・・判った・・・。吉川よ・・お前はその狡猾さを仕事に向けろ。そうすれば一気に出世できるぞ。」

吉川は荒井の言葉を無視して部長室を後にした。後に残された荒井は深いため息をつくと一瞬うなだれたが、すぐさま何かに気がついたようにスマートフォンを取り出すと慌てて自宅で家事をしているであろう自分の妻に電話をかけた。

「あ、もしもし、俺だけど。うん、そう。あのさ、もし吉川から変なこと言われてもそれを信じるなよ。・・なんで?・・そりゃ・・ホラ・・あれだ・・、仕事だ仕事。兎に角信じるなよ。今日は早く帰るから。」

電話を切ると無言で机に突っ伏した。


次の日、朝から課長のミーティングが始まった。社員旅行の行き先が決定したとの報告であった。

花菜江も有実も社員旅行の行き先は気になっていたので、課長の言葉に意識を集中する。

「えーっ、今年の社員旅行の行き先は長野県長野市に決定した。」

課員一同ザワついた。

「えー長野か。青い海のリゾート地かと思った。」

「なぜ長野・・?あそこってそんなに有名だっけ?」

「ほら、寺とかあるじゃん?そこ行きたいんじゃない?」

「オッホン!静かに。旅行日は寒くなる前が良いので9月下旬にします。いいですね?」

「はぁーい。」

「長野って佐藤さんの地元っすよね?長野市は実家とか近いんですか?」

「ん・・長野市からは少し遠いよ。」

花菜江と有実も顔を見合わせて今回の旅行の行き先決定に驚いた。

「長野県って確かに善光寺とかいうお寺で有名だけど、偉い古風だね。お寺行きたいならせめて京都とか・・。」

「ほらぁ、この間佐藤さんのお土産でどら焼きもらったじゃない、もしかしたら課長がまたどら焼きでも食べたくなったんでしょ。」

「あ~、ありえそうだね。ま、たしかにどら焼き美味しかったんだけど、そんなに気に入ったのかな。」

ふと佐藤の方に目線を向けると、井上君が佐藤に熱心に話しかけていた。その目や表情は輝いていて、一目で好きな女性の故郷を見ることができると喜んでいる顔をしていた。

「井上君。」

「新田さん、今、佐藤さんから長野の名物について聞いていたんですよ。」

「そんなことよりも、コレを機会に佐藤さんの実家にお邪魔してみたら~。」

「大谷さん止めてください。」

井上は顔を真っ赤にして慌てふためいてる。花菜江も有実も井上のこういう素直な反応が面白くてついからかいたくなってしまう。

「おやきって知ってる?」

「おやき?」

「それ食べ物ですか?」

「そう、食べ物だよ。どら焼きも有名だけど、長野といえばおやきでしょうね。駅前のお土産屋さんにも売ってみるから、是非一度食べて観るべし。」

「信州といえば信州リンゴなら知っていますが、長野県は美味しい食べ物がいっぱいあるんですね。私行くの楽しみになってきました。」

「なら良かった。善光寺は全国的に有名だけど流石にお寺見学だけじゃ満足できないでしょ。この際だから長野県の美味しい者食べていって。」

「はいっ。」

「はい、もちろんっす。」

「私、今からお腹空いて来ちゃった~。」

食べ物の話をした為か、有実はさっそくお腹が空いてしまった様だ。

「もう!あっちでお菓子食べにいこ。」

花菜江は有実の背中を押して、持ち寄ったお菓子を集まって食べている群れへ向かった。

後に残された井上と佐藤はそんな二人を見送ったあと、一瞬目線を合わせた。佐藤と目を合わせた井上は照れくさそうに目を伏せ、仕事に戻って行った。佐藤はそんな井上に軽く微笑んだが、目は笑ってはおらず哀れみの目で見つめていたのは誰も気がついてはいなかった。


「では、今年の商品企画課の社員旅行の行き先は長野県長野市でいいんだね?」

「はい!長野県なら東京駅から新幹線であっという間ですし、安全・近場・短い旅を楽しめます。そして経費もそれなりに抑えられると思います。」

荒井部長は部課長連絡会にてまとめ役の常務に元気よく答えた。

「うむ、さすが荒井君。なかなか考えたじゃないか。長野県ならば経費節減しつつ、観光地を巡る事によってこれからの商品開発のリサーチにもなるしな。」

「はい、ありがとうございます。」

「ちょっと待ってください、考えたのは・・・むぐっ。」

本来旅行の行き先を考えたのは課長の吉川であるのだが、予想外にも褒められたのは部長の荒井だけだった。吉川は手柄を荒井に横取りされないよう慌てて声を上げようとしたのだが、残念なことに荒井に阻まれてしまう。吉川は荒井に心の中で呪いの念を人知れず送っていた。


9月になると、課員一同社員旅行に向けて一同落ち着かなくなった。花菜江や有実も旅行雑誌を買い込みご当地名物品を品定めしたり、社員旅行では行きそうにもないが、長野県内の名所の紹介を読んではその場所を旅する妄想に耽って、ついつい仕事がおろそかになってしまう。

「ねえ、花菜江。旅行の時服何着ていく?新しく買った?」

「うん、一応これから買いに行く予定。それよりさ、このお菓子美味しそうだよね。向こう行ったら買おうよ。」

女性の話題といったらこんなものである。

「こらこら、旅行が楽しみなのは判るが今は仕事中なんだから。そういう話は家に帰ってからにしなさい。」

課長に注意され、二人は肩をすぼめながら仕事に戻った。でも、その瞬間花菜江は見てしまった。私語を注意する課長自身、長野県の旅行雑誌を隠し持っているのを。

みんなそれぞれ長野への旅行を楽しみにしているのだろう。

 ある日、花菜江は商品の企画書の承認を貰うために総務へ行く途中に、佐藤が階段の踊り場でこそこそと携帯電話で誰かと話をしているのを見かけた。

「うん、そう。だから自由行動の時に会えないかなって思って。時間作れる?」

(地元の友達にでも電話しているのかな?)

「うん、お土産持って行くね。また電話するから。」

軽く佐藤の電話の向こうの相手が男なのか女なのか軽く想像しながら、あまり他人の会話を盗み聞きしても悪いのでそそくさとその場を後にした。

 次の日、社員旅行のスケジュールについてのミーティングが課内で行われた。

「えー、という訳で長野に到着した当日はホテルにチェックインして荷物を置いた後、市内バスに乗り善光寺へと行きます。その後は再びホテルに戻り自由時間になりますので、夕食までの時間、各自市内で買い物なり観光なり好きにしてください。夕食の時間は午後7:00、ホテル最上階のレストランにて。」

 有実はそっと花菜江に耳打ちした。

「ねえ、自由行動の時どうする?」

「もちろん長野の街を散策にするに決まってるぅ。」

花菜江は嬉しそうに答えると有実も満足そうに頷く。課員の連中もそれぞれひそひそ声で話し込んでいる所をみると各々なりの計画があるようだ。

「なので、第一日目の夕食は午後6:50分に一階ロビーに集合するように。それから全員で最上階のレストランに移動します。遅れた人は食いっぱぐれることになるから注意してください。いや、夕飯を食べれなかった人の分は僕が頂くから遅れてもかまわんからね~。」

課長の冗談に一同笑いが走る。もしかしたら課長は本気なのかもしれないが。

ミーティング終了後は、長野県出身の佐藤にみんな輪になって群がり質問攻め大会と化した。

「ねえねえ佐藤さん、長野の街を案内してくださいよ。」

必死に佐藤にアプローチする井上君。

「私、生まれも育ちも東京なんで長野県って初めてなんですよ。美味しい食べ物屋さんとかあれば教えてくださいよ。」

「ん~、そうだねぇ。名物のおやきとかどら焼きとかは長野駅の駅ビルで帰るし・・後は信州そばくらいじゃないかな。信州リンゴはもう少し後の季節だから。今月は無理かも。水川さんは長野に行ったことないの?東京から比較的短時間で行けるのに。」

「そうなんですよ、学生時代に友達と卒業旅行で沖縄には行ったんですけど、今まで東京から出る機会が無くて。長野って用がなきゃ行かなそうな場所じゃないですか。だから今回の社員旅行と~~っても楽しみにしてるんですよ。」

「そう、楽しんで貰えるといいけど。」

長野出身の佐藤の前で『長野って用がなきゃ行かなそ場所じゃないですか』と長野を少々軽視する水川の若さ故の空気の読めない発言にその場にいた全員は一瞬凍り付いた。だが、佐藤は華麗に流しその場にいた誰もが佐藤に感心した。

 ある日の休日、花菜江はコンビニの帰り道佐藤がゴミ捨て場で雑誌の束を捨てているのを発見した。

「佐藤さん。」

「あ、新田さん。」

「お部屋の掃除でもしてたんですか?」

「えっ・・、ええ。これね。もう読まないし部屋の片付けも兼ねてね。私の部屋今片付けしてすっきりしてるから寄ってかない?お茶くらいだすよ。」

「え、いいんですか。嬉しい~。行きます。お邪魔します。」

思いがけない佐藤の提案に花菜江は素直に喜んだ。佐藤とは同じ会社の同じ部署の先輩と後輩という仲だったが、職場での付き合いしか無く佐藤の家にお邪魔するのはこれが初めてになるのだから。

 暫く二人で歩いて行くと、少し小洒落たアパートが見えてきた。

「あれが私の住んでるアパート。」

「素敵な場所ですね。私が住んでいる所とは大違い。」

やはり佐藤は思っていた通りお洒落でセンスが良く、課内のみんなの憧れの的なのだと実感した。

「どうぞ。」

「お邪魔します。」

しかし部屋の中に入ると、部屋の様子は花菜江の想像とは少し違っていた。

花菜江の予想では、お洒落な家具が立ち並び綺麗に整頓された本棚には佐藤の知的さを伺わせる難しそうな本がちゃんと分類されていると思っていたのだが、実際には、部屋の中は殺風景でお洒落な家具などは一つも無く、段ボール箱が乱雑に置かれていた。そして食器類も新聞紙に包まれており、まるで引っ越しでもするのかと思わせる部屋の中だった。

「あの・・引っ越しでもされるんですか?」

花菜江は佐藤に問うと、佐藤は花菜江の為に入れたコーヒーを目の前に差し出した。

「あ、ああ、この部屋さっぱりとしてるでしょう。多分この部屋にはもう住むことないと思ったからね。」

「『思った』って・・まだ未確定なんですか?」

「未確定だけど、ほら急に住まなくなるかも知れないじゃない?そんな時に後片付けするのが大変だと思ったから・・さ。」

「やだ、佐藤さん急に会社辞めちゃわないでくださいよ~。佐藤さんにいて貰わなきゃうちの課は困るんだから。」

「わからいよ~。人間っていつ何処で何があるかわからないじゃない。急に交通事故とかで死んじゃうこともあるしね。そうなった時、後片付けをする人が困らないように綺麗に片づけたの。」

「ヤダ、そんな不吉なこと言わないでくださいよ。交通事故で亡くなるなんてそうそう無いんだし、そんないつでも死んでもいいみたいなこと口にしないでくださいよ。心配になっちゃうじゃないですか。」

「ふふ、人生何があるかなんて誰にも予想できないものだよ。ほら、今月は社員旅行もあるしね。旅先で何かあるかも・・?」

いたずらっぽく笑みを浮かべた佐藤をみて、花菜江は佐藤のある言葉を思い出した。

「佐藤さん。」

「ん?なに?」

「以前、お土産のどら焼きもらった時あるじゃないですか。」

「ふむふむ。」

「あの時、佐藤さんが長野に帰省した時、『良いことがあった』っていってましたけどあれってどういう意味なんですか?」

「あ、ああ、あれね。実は・・私地元に恋人がいるの。帰省した時にその人と結婚の約束を半ば強引に取り付けちゃったっていうか・・。」

佐藤は少し言いにくそうだったが、『結婚』という単語を聞いた花菜江こ心はワクワクした。

「結婚するんですか!?すごい!おめでとうございます。」

「ふふ、ありがとう。私ももう32歳でしょ。そろそろ身を固めたいなぁって思って半ば強引に約束させちゃった。」

「お相手はどんな方なんですか?地元に戻った時に決まったくらいだから、長野の人なんですよね?」

「そう、地元の人。高校の時からの付き合いでね、」

「へ~、どんな職業の人なんですか?」

「職業は・・秘密。でもヒントくらいなら言ってもいいかな。」

「なぞなぞですか。じゃあ、ヒントお願いします。」

「ヒントは・・。役所・・ってここまで言えばもう判っちゃうよね。」

「公務員なんですね。エリートですね。」

「そんな事ないよ。全然平凡な人。・・でもちょっと浮気者かも。」

「あははは。浮気者なんですね。」

「覚えておいてね、新田さん。高校の時からの付き合いで公務員。」

「はいはい、忘れません。彼氏自慢なんてノロケですね。」

佐藤は少し暗い顔をしたが、それは一瞬の事ですぐに明るい表情に戻った。しかし、今度は花菜江が少し俯いて暗い顔をした。

「井上君・・・残念がるだろうな・・。」

佐藤は何の話か一瞬で理解した。

「井上君ね。彼ももの凄く素敵な人だと思う。6歳も年上の私を好きでいてくれる。悪い気しないし、今の彼と別れて井上君と付き合ったらどんなに楽かっていつも思う。」

花菜江は少し苦しそうに話す佐藤を不思議に思った。佐藤自身も井上の事を悪いようには思っていない、むしろ良い印象に映っているみたいだ。しかし佐藤にとったら今現在付き合っている恋人の方を愛しているのだろう。だから井上の気持ちには応えられないという、佐藤の井上に対する罪悪感がひしひしと伝わってきて花菜江までつい井上に対して申し訳ない気持ちになってしまうのだが、『井上君と付き合ったらどんなに楽かっていつも思う。』この言葉の意味を不思議に思った。『楽』とは?今の彼氏と結婚まで決まって幸せの絶頂にいるであろう佐藤は何に苦しんでいるのだろうか。

「彼氏さんとは高校からの付き合いだったんですよね。ずいぶん長いことお付き合いされていたみたいですけど、一度も途中で別れたりしなかったんですか?」

「・・・・無かったよ。少なくとも私はそう思ってる。高校が同じで大学は別々の大学だったけれど、同じ東京の大学だったからね。会おうと思えば会えたし、本当は就職も一緒に東京でするつもりでいたけれど、彼が地元の公務員試験に受かっちゃって。それからは遠距離恋愛かな。」

「遠距離恋愛って不安じゃ無かったんですか?私だったら、恋人と遠く離れて暮らすのは無理かな。」

「そうだね。心配ばかりしてた。たまにの休みに地元に帰省した時に会ってはいたけど、環境が変われば価値観が変わるって言うじゃない?だんだんと会う頻度は減っていったかな。私も東京での仕事が充実してたから、全く連絡を取っていなかった時期もあったよ。」

「それでも別れなかったなんて凄い。」

「うん、私が彼の事好きだったから、東京でキャリアを積みながら必死になって彼を追いかけてた感じ。でもさ、ほら彼は浮気者だから・・。」

「浮気されちゃったんですか!?」

「そーなのよ、私のいない間に別の彼女がいた時期もあったみたい。その時はさすがに終わった、と思って一年位連絡を取らなかった時期もあったけどやっぱり彼の事が好きで付き合い続けているんだよね。」

「浮気するなんて酷いですね。」

「でしょ。いっそのこと井上君と付き合えばこんな想いしなくて済むと思うけどそれでも私は彼の事が好きだから・・。好きなものはどうしょうもないの。でもなかなかプロポーズしてくれないから、私の方から押し切っちゃった感じ。」

佐藤の言うとおり人の気持ちはどうしょうもない。自分自身でさえコントロール出来ないものなのだから。

「他の人には私の結婚が決まったことはまだ言わないでね。いつかその時が来たら言っていいから。」

「ああ、はい。誰にも言いません。いつか佐藤さんの口から皆に言ってあげてください。」

「いつか・・・言えるときが来たらね。」


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