6『呼びたいんだ。私が、キミの名前を』
サイラス領最初の、ポメラ王国最初の手話講座が始まる。
「こ・ん・に・ち・は」
私は人差し指を額に当て、『正午』を表現する。
続いて両手を握り、人差し指を立ててから、第一関節を曲げる。これは2人の人間が相対し、お辞儀している状況を表現している。
『手話』というと難しく捉えられがちだけど、実際は非常に直感的で視覚的。覚えやすい言語なのだ。
今、この礼拝堂にいる数十人の『生徒』たちは、サイレンが集めてくれた。
城壁造りや国境警備のローテーションに手話の受講を組み入れて、まずは最初の1ヵ月で全兵士・職人・弟子に初級編を覚えてもらう運びだ。
そのスケジューリングはサイレンが全てやってくれた。
領主様がそんな事務作業をしなくても、とも思ったが、城壁造りが最優先のこの都市において、城壁造りの速度を2倍、3倍化させ得る手話の普及は最重要課題。
私は生徒に教科書を配る。
ぺら一枚だが、手話の基礎をぎゅっと詰め込んだ私の力作だ。
そう、サイレンは貴重な羊皮紙まで放出してくれたのだ。
とは言っても、さすがに教科書は授業後に回収するが。
なーろっぱ世界において、知識というのは基本、口伝。
児童全員が学校に行き、全員に何十冊もの教科書が行きわたり、どころか無料でさまざまな知識の動画が見放題などこかの星のどこかの時代とは違うのである。
私は生徒を見渡す。
最前列の生徒とばっちり目が合った。
その生徒――サイレンは、前のめりになって目を輝かせている。
領主特権でメモ用の羊皮紙まで手にしている。
そう、生徒第1号こそがサイレン。
そして第1回手話講座の数十人は、軍と職人の中でも最も位の高い人々ばかり。
きっとサイレンには、手話の導入を領の最重要課題だと喧伝する狙いがあるのだろう。
◇ ◆ ◇ ◆
『手話はすごいな!』
その夜、事後のベッドの上で、サイレンが『すごい』『すごい』と繰り返す。
その目の輝きは、まるで少年だ。
可愛いなぁ。
私は妙な母性を感じてしまう。
というのも、前世の年齢も併せれば、このくらいの子供がいてもおかしくないからだ。
思わず彼の頭をヨシヨシしてしまい、
『何をする!?』
サイレンが飛び退いた。
暗いランプの明かりの中でも分かるくらい、顔が赤い。
『あまりにも可愛くて。ご無礼をお許しください』
『怒ってはいない』
私の手話に、彼はスラスラとついてくる。
学習能力、というより学習意欲が飛び抜けて高いのだろう。
今までコミュニケーションロスに苦しめられてきた反動で、手話を学べるのが嬉しくて仕方ないらしい。
本当、可愛い。
『次の課題は軍事だ』そのサイレンが、難しい単語を操りながら、『手話を使って魔物との戦闘を改善させたい』
『というと?』
◇ ◆ ◇ ◆
なるほどなぁ……。
サイレンに軍事の触りを教えてもらったが、音が聴こえないということが軍隊においていかに困難な状況をもたらすのか、私はまるで分かっていなかった。
軍隊・軍人というものは、とにもかくにも『命令』がなければ動けないのだそうだ。
そりゃそうだろう。
一挙手一投足、剣の一振り、弓の一本によって敵や味方を殺害し得る軍人が、各自の誤った判断で殺すべきでない相手を殺してしまっては取り返しがつかない。
だから軍人は、『進め』と言われなければけっして進まないし、『放て』と言われない限り絶対に矢を放たない。
だが、命令・号令には声かラッパ、太鼓が不可欠だ。
まさか弓や槍が降ってくる最前線で、悠長に木簡に筆記するわけにもいかない。
今は複数の色やマークの旗を組み合わせて指揮をしているが、やはり限界があるそうだ。
だったら、『○○な場合には××せよ』といういくつもの命令をあらかじめ伝えておけば? と現代地球人並感覚でサイレンに尋ねたところ、首を振られてしまった。
この異世界における主流の戦い方は、
それに、高度な遊撃戦闘が可能な指揮官など、それこそサイレンと他数名しかいないのだそうだ。
『では一度、戦闘を見学――』
『ダメだ!』私の手話をさえぎるようにしてサイレンが、『ダメだダメだダメだ、絶対にダメだ! 危険すぎる!』
何だろう、ウチの旦那が私に対してすっかり過保護になってしまった。
『昨日は魔の森にまで連れていってくださったではありませんか』
『あれは』言いよどむ――手話しかねる様子のサイレン。やがて、『魔の森を見せれば、怖くなってこの地から去ると思っていたんだ。それが、ライトのためなのだと』
やはり、か。
『役立たず(特に戦闘面において)な嫁には徹底的に冷たくする』
『役立たずな嫁をすぐに実家に追い返す』
というサイレンの悪いウワサの真相が、コレだ。
彼は、この魔物に溢れた地・サイラスで生き延びられそうにない令嬢を、可哀そうに思って追い返していたのだ。
もちろん、『うっかり死なれて監督責任を問われては困る』という外交的思惑はあったにせよ。
おおむね、令嬢たちのことを想って追い返してきたのだろう。
『なのにライトときたら』サイレンが顔を赤くして、『私の腕をつかんで、「そばにいて」などと』
ちょっと待って? 意義ありだ。
私がつかんだのは袖であって、腕ではなかったはずだ。
サイレンにとっては誤差なのかもしれないが、大事なことだ。
『頬に口づけでもしてやれば、怯えて去ると思った。なのにライトときたら』
よりにもよって、唇にキスし返しましたね、あはは……。
確かにあれは、我ながら暴挙だった。
なるほど、そうか。サイレンの中では、あの瞬間が分岐点だったんだ。
私の身を案じて追い返そうとするサイレンと、彼の心の防波堤を2度も乗り越えて、彼の中に入り込んできた私、というわけだ。
『健気に手話を教えるライトの姿や、その愛らしい容姿や。すっかり欲しくなってしまった』
『愛らしくはないかと……』
『ないわけが、ない!』
何だろう……何だろう、この感覚は?
脳がしびれる。
そうか、これが『歓喜する』ということなのか。
『一目惚れだった。キミの姿絵を見たとき、この婚姻を受け入れることに決めた』
『耳が聴こえないのに?』
『【沈黙領】において、それは欠点になり得ない』
それはまぁ、そう。
つい先ほどまで私は、『私たち、いったいいつからこんなに仲良しになっていたんだろう?』と疑問に思っていた。
だって、ごくごく自然にセックスしてるし。
しかも、全然嫌じゃないし、むしろ嬉しいし。
情事中の彼の壊れ物を扱うような優し気な様子や、私が戦場に赴くことに反対する様子など、まさしく『溺愛する』といって差しさわりない。
けれど実は、私は出会う前から彼に溺愛されるのが決まっていたわけだ。
彼は私を自分の物にしたくてたまらないのに、自分を律して、2度も私をはねのけてくれた。私の身の安全のために。
けれど私はそうと知らず、2度も彼の拒絶を踏み越えた。
結果、溺愛されるに至った。
『ライトは――。そういえばライト――。それでライト、手話の件で――』
『ライト』『ライト』とやたらと指文字で呼びかけてくるサイレン。
指文字は、手話に比べて手間がかかるというのに。
『「お前」「キミ」、でよろしいですのに』たまらずそう返すと、
『呼びたいんだ』頬を染めるサイレン。『私が、キミの名前を』
~~~~ッ!!
かっっっっ、可愛いなぁ!
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