4『ラ・イ・ト。それが私の名前です』

 職人たちもお弟子さん・お手伝いさんたちも、私が考案した簡易手話をあっという間に覚えてしまった。

 まるで渇いたスポンジのように、まるで喉を枯らした乳飲み子のように。

 みんな、コミュニケーションの手段に飢えていたのだろう。


 忙しく動き回りながら手話の指導をしていると、辺りが騒がしくなっていることに気づいた。

 人々が慌てふためいて、何かから逃げようとしている。

 いったい何が――――……ヒッ!?


 禍々しいオーラをまとったオオカミが、そこにいた。

 魔物だ!

 私は後ずさろうとして、無様にすっ転んでしまった。

 それを見て、魔物は私を標的に決めたようだった。

 ものすごい勢いで走ってくる!


「助けて!」


 誰の耳にも届くはずがないのに、私は叫んでいた。

 恐怖のあまり、目をつぶる。


 ――――――――。

 ――――。

 ――。


 だが、待てど暮らせど痛みは来ない。

 ……も、もしかして痛みを感じる間もなく死んじゃったの、私?

 ここ、もう死後の世界?


 恐る恐る目を開くと、


「サイレン様!?」


 そこには、

 首を落とされて絶命した魔物と、

 血まみれの剣をビッと振った、サイレンの姿が!


 倒したのか!

 そうか、そうだよ、相手は救国の英雄だった!

 英雄サイレン!

【勝ち鬨】サイレンだ!


「だ・い・じょ・う・ぶ・か?」


 剣を納めたサイレンが、こちらに手を差し伸べてくる。

 か、か、か、カッコイイ……!!


 彼は私の手を取って立たせると、そのままひょいっと私を抱き上げた。

 お姫様だっこだ。

 さらには、私を抱き上げたまま、器用にも馬に上がる。

 体幹どうなってんの!?


 私は、胸の高鳴りを抑えられなかった。





   ◇   ◆   ◇   ◆





 サイレンは、そのまま私を領都の屋敷まで連れ帰ってしまった。

 私に死なれたら、外交上困るから?

 それとも、手話の有用性を認めてくれたからだろうか。


 私はサイレンに抱き下ろされる。

 地に足をつけたとたん、その場に座り込んでしまった。

 脚が、全身が震えている。

 あの、魔物に襲われた瞬間のことを思い出したのだ。


 サイレンは、そんな私を抱き上げる。

 また、お姫様だっこだ。

 さすがに恥ずかしい。

 が、サイレンは下ろしてくれない。


 連れていかれたのは私たちの寝室だった。

 優しく、ベッドに寝かされる。

 そのまま部屋を出ていこうとしたサイレンの袖を、私はつかんだ。

 ……心細かったのだ。

 だって、死ぬところだったのだから。


「まっ・て」ゆっくりと、唇を動かす。「そ・ば・に・い・て。お・ね・が・い」


 サイレンは躊躇した様子だったが、やがてベッドに入ってきた。

 髪を、頬を撫でられる。

 私は目を閉じる。

 すると、頬に唇の感触を覚えた。

 私は驚いて目を開く。


『嫌か?』と、サイレンの顔に描いている。

 私は微笑む。

 そうして今度は、私の方からサイレンに口づけする。

 唇に、恐る恐る。

 それから二人、ついばむようなキスを繰り返す。


 サイレンが、服を脱いだ。

 覆いかぶさってくる。


 その日初めて、私は男性を知った。





   ◇   ◆   ◇   ◆





『お前は怖くないのか、この場所が?』


 事が終わった後、汗だくの彼が筆談でそう言った。

 私は呼吸するのもやっとの有様だったが、やがて、


『お前、ではありません』


 と筆談で返事をした。

 私は人差し指と中指を交差させ、


『ラ』


 小指を、指切りするみたいに伸ばして、


『イ』


 人差し指と中指を伸ばして、


『ト』


 同じ動作を素早く行い、


『ライト。それが私の名前です』


『指で文字を形作れるのか?』


 サイレンが、まるで子供のように目を輝かせている。

 手話に続いて指文字の存在を知り、その可能性に想いを馳せているのだろう。


『手話の後に、教えて差し上げます』


 サイレンが、コクコクと何度もうなずく。

 あはは、可愛いなぁ。


『怖いです。でも、ここでなら私は私らしく生きていけそうだから』


 実は、実家でも手話を広めようとしたことはあった。

 が、誰一人として私の話に――手話に耳を傾けてくれる人はいなかった。

 父も、母も、兄弟も、使用人たちですら。


 けれど、ここの人たちは違う。

 みんなきっと、コミュニケーションロスに苦しんでいる。

 素早く安価なコミュニケーション手段に飢えているはずだ。

 手話はきっと、絶対に受け入れてもらえる!


 サイレンが、力強くうなずいた。


『教会の礼拝堂を使って、手話学校を始める。ここの領主として、妻であり家臣でもあるライト・フォン・サイラスに命じる。手話の教師になれ。領民全員に初歩的な手話を覚えさせろ。優秀な者を選別し、手話の教師として育て上げろ』


「分・か・り・ま・し・た」


 私は身を起こし、ビシリと敬礼した。


 サイレンが、楽しげに笑った。

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