柩(ひつぎ)の森をさまよう乙女とさすらうピアノ弾きのおはなし
犬坊ふみ
第1話 ぶどう畑の姫君
これは、むかしむかしのお話。
黒い森のほとりに小さな城が建っていました。
溢れんばかりの太陽、いくらでも湧きだす豊かな泉、そこから流れる河川。
森にはぐくまれた肥沃な大地には、一面のぶどう畑が広がっています。
ぶどうからはよい酒を醸すことができたので、城に住んでいる領主の一家は、とても裕福な生活を送っていました。
領主には4人の娘があり、その4番目にレメーニスクオーレという名前の娘がいました。レメーニは今年で19歳。いいかげん嫁がなければならない年齢です。
レメーニの生家はいまでこそぶどう畑の領主ですが、もとは貴族につながる血縁の良い血筋の一家でした。過去には王様の戴冠式にだってお呼ばれしたことがある家柄なのです。
その家柄を重んじ、家格を大切にしているのがレメーニのおばあさまです。
このおばあさまは絶大な権力をもっていたため、一家の大事な取り決めごとはおばあさまの許可なくしては何事も進ませることができません。
むろん大事な娘たちの嫁ぎ先はおばあさまが決めます。そんなこんなで上の3人の娘たちは、ぶじ嫁ぎ先が決まり、家格のみあった婚家へ嫁いでいきました。
最後にのこったのがレメーニです。そしておばあさまの推薦により結婚相手に選ばれたのは、伯爵家の一人息子、アザルト・タッチートです。
アザルトは24歳。日に焼けた肌、栗色の巻き毛、がっしりした体格のわりに、柔和な顔の青年です。
「よい青年ですわ」
「性格も派手なところもなく、温厚で、お嬢さまとお似合いですわ」
どの人もレメーニの相手にけちをつけるような人はいませんでした。それほどレメーニにとって家柄も、外見も、性格も申し分のない相手だったのです。
やがてアザルトとの顔合わせのための小さなパーティが開かれることになりました。ダンスパーティーの夜、レメーニはドレスに身を包み、髪を結い上げ、高いヒールの靴をはき、ぴかぴかした首飾りと腕飾りをいくつもつけ、美しいいでたちで現れました。
アザルト・タッチートも、レメーニを初めて目の当たりにし、その美しさにぼーっとしているようでした。そんな夢見心地のまま、
「僕と、ダンスを踊ってくださいますか」
アザルトはレメーニをダンスに誘いました。
差し出されるその手を取り、レメーニはアザルトと幸せな恋に落ちるはずだったのです。
……が、そのときはもう、レメーニの目も耳も、心をも、別のことに吸い寄せられていました。
それは管弦楽のしらべに乗せて聞こえてくる、ピアノの旋律。
なんの変哲もないいつものダンス曲なのに、そのピアノの音だけが際立っています。まるで白い陶器に、ひとすじの金のふち取りがしてあるかのように、はっきりとした音色……
「おや、今夜のピアノ弾きは、いつもの人じゃないね」
耳ざとい人はすぐに気が付きました。いつものお抱え演奏者は所用ができたのか休みをとり、そのかわりに
レメーニの耳は、どのピアノ弾きとも違うその音色に釘付けになりました。なんということでしょうか、婚約者になるはずのアザルトの声すら届きません。
ピアノの音は、そのひとつひとつが生命を吹きこまれたようにいきいきとしています。こまかな音の連続、その一音一音が意志をもったさえずりでした。鍵盤のうえを転がるように躍動する手。とても人の手とは思えないようなすばやく動く指。
いつものダンス曲なのにいつもの曲には聞こえませんでした。
まるで一枚の絵画をビリビリに破り、それをつなぎ合わせ、貼り合わせ、別の絵に生まれ変わらせたような。
絵の具をさらに塗り重ね、まるでデタラメに見えていたにもかかわらず、一歩ひいて眺めてみたらいつのまにかだれも見たことのない巧緻な名画ができあがっていた…、そんな不思議な曲だったのです。
正直、ダンスどころではありませんでした。
レメーニはもとよりパーティに来た人々もとても踊るどころではなく、その卓越したピアノに聴きほれていました。
だれかが手拍子をうちました。
すると手拍子はあっというまに伝播して、ホールは拍手と手拍子と、歓声に包まれました。
「お嬢さま、なぜ泣いているのですか?」
召使いのベスがぶしつけなことをいいました。なによ、黙っていてくれたらいいのにと思いました。
レメーニ自身、なぜ涙が溢れて止まらないのかわかりませんでした。なぜこんなピアノ曲をきいて涙がでるのか…。そのわけがわかったのは、もっと後になってからのことでした。
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