第30話

 高桑たかくわが姿を見せなくなって二日が経った。それまでしつこく会いに来ていた人間がパタリと来なくなったのだ。本音を言えばホッとしているけれど同時に不安で仕方がない。

 あの男が自分に会いに来た理由が理由だ。自分が知らないところで、また何か画策しているかもしれないと考えるのが妥当だろう。そう思い至ってすぐ頭に浮かんだのは、以前世話になったクライアントを動かすことだが、プライドが高い高桑が彼らに頭を下げるとは思えない。が、保身のためならなんだってやる男だ。もしかしたら土下座して頼み込んでいる可能性も捨てきれず、遼子りょうこは落ち着かない日々を過ごしていたのだった。そんなある日のこと、深雪みゆきから相談を持ちかけられた。

 昼食後のコーヒーを飲んでいたら、

「遼子先生は誰かに守ってほしいって考えたこと、ありますか?」

 突拍子もない問いかけだった。遼子はあっけにとられる。

「実は、昨日遼子先生と別れたあと、岡田おかだくんに言われたんです。俺がお前を守るって。でも、その守るってどういう意味なんだろうってずっと考えてて」

 戸惑い顔の深雪が発した言葉は予想外のものだった。

 岡田と深雪の関係がいつの間にか進展していたことに驚きつつ遼子は昨日の行動を振り返る。昨日はたしか仕事帰り三人で薬膳料理を食べに行った。帰りに近所の洋菓子屋へ行き、そこにもうけられたイートインエリアでスイーツを食べてから帰宅した。そのあとのことだろう。

 大半の男たちが口にする「守りたい」は意味がわからない言葉のひとつだ。一昔前なら、女性より男性のほうが社会的な地位や収入が高かったこともあり「守りたい」という言葉も実を伴っていたかもしれないが今は違う。だけどいまだにその言葉を多用するのは「女性を守る」という役割を持つことで男としての体面を保ちたいがゆえだろう。

「何から深雪さんを守ろうとしているのか岡田くんに聞いてみたらいいんじゃない?」

 間違いなく岡田は答えに窮するだろうが、これを機会に二人の関係性や未来を一緒に考えてほしい。内心でそう願いながら遼子が聞くと、深雪は困ったような顔ではあとため息をついた。

「聞いたんです」

「え?」

「お前を一生掛けて守るって言われたので、何から私を守ろうとしているのって聞いたんですが、あいつは何も言えませんでした。きっと、そう言えば女は喜ぶと思ってるだけなんでしょうね」

 急な展開に頭が追いつかず遼子は絶句する。渋い顔の深雪を見つめながら彼女の言動を整理するのがやっとだった。

「それって、つまりプロポーズ、されたってことで合ってる?」

 言葉を選んで尋ねたら深雪はこくりと頷いた。

「もしも結婚しようって言われたら嬉しいし、喜んではいって言ったと思います。ですが見当違いなことを言われて思い知らされたというか……」

「思い知らされた?」

「なんか……、あいつが急に遠いところにいるように感じてしまったんです。隣にいるはずなのに……」

 かつて自分も、今の深雪と同じことを高桑に感じたことがある。一方的に貶められ続けたあの頃は、二人で家にいても耐えがたいほどの孤独を感じたものだった。

 人間として弁護士として尊敬していた男と夫婦になり、二人で手を繋いで同じ道を歩いていたはずなのに、いつの間にか道が分かれてしまっていた。これが俗に言う心が離れたということかと思ったのだった。

「じゃあなおさら、岡田君と話し合ったほうがいいわ」

 でないと自分のようになる。その言葉を遼子はぐっと飲み込んだ。

 夫婦といえど所詮は赤の他人、生まれ育った環境が異なる相手と一つ屋根の下暮らしていくうちに価値観の違いを感じて当然だ。それぞれの考え方の違いを突き合わせ、どうしたらよりよい方向へ進めるか二人で考えればいいものを、衝突を恐れやり過ごしていくうちに心に澱のようなものが溜まっていく。そしてなにかのきっかけで積もりに積もったモヤモヤが心の奥からあふれだし、自分自身を瀬戸際まで追いつめるのだ。高桑から逃げるように家を出たときのことを遼子は振り返る。

 誇りをもってやっていた仕事を真っ向から否定され、女だから妻だからと夫と肩を並べることを許されず、ついには日々のことにも不満を訴えられ続けた結果、何が正しくて何が正しくないのかわからなくなった。そんな状態になると人は道を見失う。いくつもあるはずの選択肢が見えなくなってしまうものだ。自分自身がそうなったからといって深雪も同じようになるとは限らないが、これくらいの助言くらいはしていいだろう。それにしても男女の仲はわからないものだ。十月のはじめには険悪だったはずなのに、月の半分を過ぎた今、結婚の話が出るまでになっているとは。だが、もともと二人は両思いだったわけだし二人の気持ちが通じ合ってしまえば、あっという間に結婚の話が出たってなんら不思議なことではない。しみじみしながら飲み終えたコーヒーをテーブルに置いたら、

「ですね。そうします」

 深雪は得心したのか頬を緩ませたのだった。

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