第二章 あなたを守りたい

第14話

遼子りょうこ先生、チェックお願いします」

 深雪みゆきの声が耳に入った。遼子は作業の手を止める。見上げるとすぐ深雪と目が合った。

「これで今日のノルマ終了です」

 向けられたほほ笑みにつられ笑みが出る。

「じゃあ今日も定時で帰れるわね」

「ええ。ということで、今日は立ち食いソバ食べに行きませんか? あの人気の……」

 深雪が言っているのは最寄り駅にほど近い店のことだろう。

「いいわね」

「でしょう?」

 深雪は嬉しそうに笑って離れていった。遠ざかる彼女の後ろ姿を眺めながら、遼子は頭をもたげた心苦しさを理性で押さえ込む。

 あの日――別所から告白された日――から数日が経った。この間深雪は自分と別所べっしょがなるべく顔を合わせないよう気遣ってくれているらしく、常に一緒にいてくれている。特に帰社の際はバッタリ鉢合わせしてしまうのを避けるためなのか、夕食を一緒に食べに行くから揃って帰るようになった。深雪の心遣いはありがたいが、本音を言えば申し訳ない気持ちになる。けれど、だからといって断ることができないのは一人になりたくないからだ。一人でいるといらぬことばかり考えてしまうし、深雪のおかげで落ち込む時間が一分でも少なくなるのだ。だから遼子は深雪の配慮に内心で感謝していたのだった。

 別所の会社で書類をチェックする日々も、あと一ヶ月で終わる。それまでに気持ちの整理ができるかどうかわからないが、今はとにかく契約が終わる日を待つしかない。

 別れた夫とすれ違っていた日々も離婚届にサインしたときもそれぞれつらかったが、忙しくしているうちに悲しみは薄れていったではないか。遼子は中断していた仕事を再開させながらずくずく疼く胸の痛みに耐えていた。

 十八時となり帰り支度をしていたらスマートフォンに着信が入った。画面を見てみると、そこにはかつて働いていた法律事務所のボスの名前が表示されている。嫌な予感がしたけれど遼子はすぐに出た。

「もしもし、麻生あそうです」

富沢とみざわです」

 少しかすれた声が耳に入り込んだとたん、忘れたい記憶が頭の中で像を結びそうになった。遼子は気持ちを切り替えて返事する。

「御無沙汰しております、ボス。どのような御用件でしょうか」

 なるべく平坦な声で尋ねると、スピーカーの向こうからため息が聞こえてきた。

「回りくどいことは嫌いだから率直に言わせてもらう。戻ってきてくれないだろうか」

「え?」

 他人に頭を下げることがない相手が懇願してきたものだから遼子は面食らう。

「君から引き継いだクライアント全部から契約を打ち切られてしまってね。大変なんだ。だから――」

「どういうことですか?」

 言葉を遮るように問う。

「言葉通りだ。高桑たかくわに任せたら続々と打ち切られて困っているんだ」

 別れた夫の名前がいきなり出た。呼吸が一瞬止まり、頭の中が真っ白になる。

「こんなことになるのなら高桑ではなく君の補佐をしていた間宮まみやに任せるべきだった。そうすれば――」

 間宮はかつての部下だった女性だ。

「なぜ間宮ではなく高桑に任せたんですか? わたしは間宮に引き継がせたはずですが」

 退所する際、それまで懇意にしていたクライアントは補佐をしていた間宮に任せたはずだ。間宮なら、自分のやっていたように対応してくれるはずだからと。それなのになぜ元夫が担当することになったのか経緯を知りたかった。こみ上がってくる苛立ちを押さえ込んで聞いてみたところ予想外の言葉が返ってきた。

「経験が足りない間宮より自分のほうが適任だと言ってきたんだ。だから任せたんだが……」

 たしかに間宮は高桑に比べたら実務経験は少ない。が、クライアントに対して真摯な姿勢をとる彼女のほうが別れた夫よりはるかに誠実だ。しかしボスはそれを知らないから高桑に任せたのだろう。そこに行き着いたらいら立ちは呆れに変わる。

「だから、戻ってきてほしいんだ。麻生くん。君が戻ってくれるのなら契約を打ち切った企業も戻ってくるはずだから」

 過去にしてしまいたいつらい日々の記憶に押しつぶされそうになったが、富沢の声が現実に引き戻してくれた。

「わたしは戻るつもりはありません。来てほしいと言われている事務所もありますので。お話がそれだけでしたらこれで失礼いたします」

 また高桑に振り回されるのだけは御免だ。仕事を奪われてしまった間宮のことが気にはなったが、だからといって何ができるわけでもなく。遼子は感情を押し殺し淡々と告げたあと電話を切った。

 どんな話であっても無理やり終わらせたことに対する気まずさを心の隅に追いやり席を立つ。視線を感じたどってみると深雪が不安げな顔をしていた。

「さあ行きましょう」

 無理に笑みを作って見せたら深雪の表情が和らいだ。遼子は気持ちを切り替えてコートとバッグを手に席を離れたのだった。

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