第12話
「さて、挨拶回りも終わったことだし料理とお酒を楽しみますか」
下肢の痛みに耐え続けていたら、別所から笑顔を向けられた。
「お酒と料理を持って行きますから、遼子先生は先にテラスで休んでください」
「え?」
「僕に付き合って疲れたでしょう。ずっと立ちっぱなしだったし」
ずっと別所の腕に絡ませていた手に温かい手が触れる。ほっとするような大きな手だった。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
誰かに甘えるのは正直言って苦手だが、足の痛みもそろそろ限界だ。別所にほほ笑んだあと組んでいた腕を抜いたら少しだけさみしさを感じたが、遼子はテラスへ向かったのだった。
フロアに隣接しているテラスは、パーティ会場の賑わいとは打って変わり静寂に包まれていた。灯りもそう多くないから暗いけれど、月の淡い光に照らされた夜の庭は昼の庭と異なった趣がある。静けさに包まれた薄明かりのガーデンの奥まった場所にあるベンチに座り空を見上げてみると明るい月が見えた。
月を見上げるのは久しぶりだ。離婚してから、いいや違う。それより前からずっと頑張り続けなければいけなかったから、空を眺める余裕などなかったと言っていい。冷たささえ感じそうな白い光を放つ月を眺めていたら、あることに気がついた。バッグから先ほど受け取った名刺を取り出し、印字されている文字を目で追いかける。
別所の会社にいられるのもあと一ヶ月。そろそろ次の職場を探さないといけない頃だ。もともといた事務所には戻りたくないから、まさに渡りに船ではあるもののなんだか気が重い。
別所の会社はとても居心地がいい。法務部の人間たちは真面目で温かいし、補佐をしてくれている深雪とも気楽で気軽な付き合いができていることもあり本音を言えば離れ難かった。でも、一ヶ月後にはもともといた弁護士が復職するから自分の居場所ではなくなるし、来てほしいと言ってくれたところに行ったほうがいいのかもしれない。名刺を眺めながら今後の身の振り方を考えていたら、人が近づく気配がした。
「お待たせしました」
別所だ。温かみを感じる声を耳にしたとたん、心を覆いかけていた不安が消えていく。
「テーブルがないからここに置きますね。シェアして食べましょう」
別所は少し離れたところに腰を下ろし、持ってきたトレーを自分との間に置いた。木製のトレーには様々な料理が盛り付けられた皿だけでなく、白い湯気を放つスープやフルーツがぎっしり入ったボウルもあった。
「すごい量ですね」
「そうですか? いつもはもう少し多いですよ。僕、パーティーを抜けてテラスで食事するの好きなので」
「そうなんですか?」
「実はパーティーは苦手なんですよ。でも、テラスでおいしい料理と酒を楽しめますからね」
はいと言って手渡されたのは細かな気泡を放つシャンパンが注がれたフルートグラスだった。
「乾杯」
澄んだ音がしたあと飲んでみると、とてもおいしかった。
「さあ、食べましょう。足りないようでしたら下僕がお持ちします」
「下僕?」
フォークに伸ばした手が止まる。別所に目をやると、彼は胸に右手を置いていた。
「ええ、あなたの下僕たる僕が」
かしこまる別所の姿が面白いから笑みが勝手に漏れる。すると彼の表情が安堵したようなものになった。
「その下僕から申し上げますが、さっき挨拶した高崎くんはとても真面目で誠実な男です」
「えっ?」
急に真面目な顔をした別所が続きを話す。
「以前、会社の顧問だったんです。父親の事務所を継いだとき契約は切れましたが……」
「そうだったんですか」
目線の先で別所が頷いた。
「だから……、もしも遼子先生が彼のところで働くのなら僕も安心です」
安心という言葉がやけにさみしく聞こえた。一度はなくなったはずの不安がふたたび心に広がりはじめたそのとき、どこかで聞いたことがある曲が耳に入った。
「ああ、ムーンリバーだ……」
「えっ?」
重くなりそうな気分を変えようと料理に手をつけようとしたら嬉しそうな声がした。
「満月に合わせたのかな。さっきもブルームーンが流れていたし、今度はムーンリバーだ」
「そ、そうなんですか。ごめんなさい。わたし、洋楽には明るくなくて」
別所が口にしたのは曲名だろうが、まったくわからない。今聞こえている曲だって耳にしたことがある程度の認識しかなかった。そんな自分がなぜか恥ずかしくなり、遼子は目線を下ろす。
「そういえば、ブルームーンっていうカクテルがあるんですけどね」
「そうなんですか?」
「なんでもカクテルには、ひとつひとつ意味があるようで、ブルームーンにはめったに遭遇しない出来事、幸せな瞬間っていう意味があるそうなんですよ。ほら、青い月ってそうそう見れないものだから」
「青い月って良く聞きますが、一度も見たことがありません」
「僕もです。だからこそ見てみたい。できることなら
唐突にふだんと異なる呼び方をされたのも驚いたが、言われた内容にドキリとした。おそるおそる顔を上げると真面目な顔の別所と目が合い、気まずさから目をそらそうとしたもののどうしてなのかできなかった。
「あなたが、好きです」
別所に告白された直後、頭の中が真っ白になった。
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