同居人

 中村氏は奥歯に物が詰まったような言い回しで顧客であるはずの俺をあしらう。それでも、不都合に思うことはなかった為、俺は早々に“夢クリニック”から退店しようと腰を上げた。


「一万二千円になります」


 薄汚れた有象無象の雑居ビルから出てくる人影は、猥雑な歓楽街の中といえど、なかなかに怪しげな雰囲気がそぞろに纏わりつく。客の手を掴むことにかけて気炎を吐く看板の煌めきは、各々の欲望に従って群生する人々の誘導灯のようである。親子ほどの年齢差がある男女が、ホテルから出てくる。


「またよろしく」


 金銭で結ばれる情事を終えたばかりの男は、女が口を硬く結んだまま首を縦に振る姿に対して、居心地の悪さをまるで感じさせない颯爽とした足取りで家路に向かっていく。互いの欲求を満たしているというのに、そこには情動的な動きが見られない。俺も、その感覚に同意するところはある。慢性的な不眠症を「夢」というもので解消してきた。方法は違えど、貴賤的な視線によって立場を峻別するつもりはない。ましてや、傍目に見ればこの如何わしさは然のみ変わらず、わざわざ「正常です」と公言して回る傾奇者を演じるのは馬鹿馬鹿しい。


 暫く歩いていると、雑多に企業が間借りするビ群の谷間で、強風が俺の髪をかき上げる。鬱陶しいと顔を左右に振って、乱れた髪の整理を図ると、不意にガラス張りのビルに映り込んだ自分の姿を見た。それはまるで、陽を浴び損ねた花のように首を垂れて、丸まった背中は貧相この上ない。悪事に目を光らせる街灯の灯りは、そんな俺のうだつが上がらない姿勢を遠慮会釈なく照らしている。俺は、何度も関節を曲げ伸ばしに時間をかけて、仕事帰りに疲労を労る社会人の韜晦を授かる。


 夜気を切り裂く前照灯が天気雨のようにポツリポツリと三車線道路を走る。もはや、目の前の横断歩道に掲げられた赤信号を律儀に守る必要はほとんどなかった。それでも俺は、青々とした実が赤く熟れる瞬間を待つように、ぽつねんと立ち往生を食らっていれば、自転車に乗った中年男が豪放磊落に横断歩道を渡っていく。価値観や道徳心は国によって、或いは肉親の教育を通して形作られ、それを盲目的に墨守しようとするのは、敬虔な国民の一人として間違いはないだろう。とはいえ、恵みや縁を期待するなどの打算的な心模様は一切なく、恭順に規律を保つことによって精神の安定をもたらそうとする、所謂ルーティンであった。


 一人暮らしでは手狭な思いをするところを、家賃の折半によって負担を分け合い、少しでも快適な生活を求めた若者らしい合理的な理由を共有する友人がいる。文明社会に身を置き、会社に勤務する以上、月々のあらゆる支払いに追われ、自由に使える金額はごく僅かに留まる。そんな憂鬱な計算を少しでも和らげようと、俺は同居を友人に提案した。「気の置けない」「仲睦まじい」「旧知の仲」、題目は様々あるかもしれないが、どれも当てはまらない気がした。

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