番外編 六師外道
資料とは関係ない番外編です。趣味に走らせていただきます(笑)。
ある時「悪というのは悪いと思うから悪はあるのであって、悪いと思わなければ悪などというものはない」という説を聞きました。その時期、善悪の問題に敏感だったので興味を持ちました。
詭弁の一種かと思うのですが、ギリシアのものとか中国のものを聞いた時は詭弁に興味を持たなかったのですが、このインドの六師外道の6人のうちの1人の説ということを聞いて六師外道に興味を持ちました。
六師外道が活躍したのはちょうど、仏教が興起した時期です。インドの伝統的なバラモン教から見れば、仏教も異端なのですが、この時代は盛んに色々な思想が自由に議論される時代の雰囲気があって、その中の有力な6人の思想家が六師と呼ばれました。中村元先生の『インド思想史』から引用し簡単にまとめて紹介させていただきます。
(1) プーラナの道徳否定論
彼によると、生き物および人間の体を切断し、苦しめ、悲しませ、おののかせ、生命を奪い、強盗・追剥・姦通・虚言などをしても、少しも悪をなしたのではない。悪行に対する報いも存在しない。また祭祀を行っても、施し、克己、感官の制御、真実を語ることによっても、善の生ずることはなく、また善の報いも存在しないという。
(2) パクダの七要素説
彼によると、人間の各個体は七つの集合要素、すなわち地・水・火・風の四元素と苦・楽と生命(霊魂)によって構成されている。これらは不変で安定していて互いに他をそこなうこともないため、剣で人の頭を断ってもこれによって人の生命を奪うことはできない。ただ剣が七つの要素の間隙を通過するのみである――と。故に世の中には、殺す者も殺される者もなく、教えを聞く者も聞かせる者もない。
(3) ゴーサーラの決定論
彼は一切の生きとし生けるものには支配力もなく、意志の力もなく、ただ運命と状況と本性とに支配されて、意志にもとづく行為は成立しえない。愚者も賢者も流転し輪廻して苦の終りに至る。その期間においては修行によって解脱に達することは不可能である。あたかも糸毬を投げると、解きほごされて糸の終わるまで転がるように、愚者も賢者も定められた期間の間は流転しつづけると主張した。
(4) アジタの唯物論
彼は人間そのものは死とともに無となるのであって、身体のほかに死後にも独立に存在する霊魂なるものはあり得ない。愚者も賢者も身体が破壊されると消滅し、死後には何ものも残らない。したがって現世も来世も存在せず、善業あるいは悪業をなしたからとて、その果報を受けることもないと主張した。
(5) サンジャヤの懐疑論
彼は「来世は存在するか?」という質問を受けるときに、次のように答えた、『もしもわたくしが「あの世は存在する」と考えたのであるならば、「あの世は存在する」とあなたに答えるであろう。しかしわたくしはそうだとは考えない。そうらしいとも考えない。それとは異なるとも考えない。そうではないとも考えない。そうではないのではないとも考えない』などと意味の把握をされない曖昧な答弁をして確定的な返答を与えなかったという。形而上学的問題に関する判断中止の思想で不可知論とも称せられる。
(6) 原始ジャイナ教
ジャイナ教については改めて別の機会に取り上げますので今回は簡単に説明します。
ジャイナ教の始祖の本名はヴァルダマーナです。当時の思想界では種々の思想が対立し、互いに争っていましたが、彼は事物に関しては絶対的なあるいは一方的な判断を下してはならないと主張した。もしも何らかの判断を下そうとするならば、「ある点から見ると」という制限を付して述べなければならない。すべては相対的に言い表し、相対的に解すべきであるとした。
ジャイナ教を説明しようとすると長くなるので今回はここまでで。
そしてこの6人の異端、六師外道を超越した、超然・中道で称えられることが多いのが仏教です。仏教も説明しようと思うと長くなると思います。
とにかく色々な議論が自由に活発にされていたこの時代の雰囲気が好きだなと思います。
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