その日

 私は、いったい何をしているのだ・・・。


8月12日(土) 昼過ぎ


 明日の自炊に向け、食材の買い出しに出る。夏休み中であることもあり、街中では子供を連れた家族が目に付く。

「やはり、思い出してしまうな・・・。」

 妻と娘の面影を、今も探してしまう。


 3年前。私は事故で妻と娘を突然なくした。赤信号を突っ込んできた車に、轢かれたのだ。散々乱暴な運転をした末の明らかな信号無視にもかかわらず、それは事件ではなく事故として処理された。裁判では、その道の高名な弁護士先生による「その当時は心神耗弱状態にあった」という主張や、それを補完するらしい証拠などもあって、執行猶予付きの判決となった。

 信じられなかった。

 罪なき穢れなき二人を轢き殺した男が、執行猶予の名のもとに無罪放免とばかりに自由を得ているのだ。これで良いのか、あの男は許されたのか、許して良いのか・・・そんな思いを、ずっと引きずって生きてきた。


 今、その男が目の前にいる。

 正確には通りの向こうだが、しっかりと視界の真ん中で捉えている。


 花火大会の日に見かけて以来、この街にいるらしいことは分かっていたが、こんな昼間に出くわすとは思いもしなかった。あの日、裁判所で見せた「気弱でおとなしそうな青年」の姿は微塵もなく、この街並みに似つかわしくないほど派手な格好をしている。やはりあの時の姿は、先生方の演技指導の賜物だったのだ。幸いこちらの存在には気づいていない様子だが、果たして私の顔を覚えているかも定かではない。それにどうやら、ずいぶんと酒が入っているらしい。

「こんな時間から、良いご身分だ・・・。」


 気付くと、後をつけていた。


 つけて行って何をしようというのではない。いや、あったのかもしれない。呼び止め、問いただし、せめて一度くらい線香をあげてくれないかと。あるいは、あの男がどんな生活をしているのかを見届けてやろうかと。もしくは、ひと思いに・・・いや、それは良くない。

 店に入った。馴染みの店らしく、店員たちと賑やかな挨拶を交わしている。私は向かいのカフェに入り、通り沿いの席に腰を下ろす。

「私は、いったい何をしているのだ・・・。」

 こんな探偵みたいなマネをしたところで、何にもならないことは分かっている。分かってはいるのだけれど、今は見失うわけにはいかない。そんな使命感にも似たものが、今の私を動かしている。

 たっぷり2時間、私はそこで過ごした。コーヒー一杯で長居したことを詫びながら会計を済ますと、店から出てきたあの男の姿を追った。まだ夕方にもならないというのに、すっかり千鳥足だ。

 大通りを行く。交通量は多いが、歩道を歩く人はまばらだ。足元のおぼつかないあの男を、猛スピードで追い抜いてゆく車・車・車。

「いや、駄目だ・・・。」

 そんなことは考えてはいけない。とは思いつつも、いけない妄想がどうしても膨らんでしまう。タイミングよくあの男の背中を押せれば、きっと・・・これだけ人が少なければ見られることもないだろうし、仮に見られていても・・・見られていたとしても、あの男がやったように「心神耗弱状態で・・・」とやれば、私も・・・いや・・・


 その刹那。


 あの男が何かにつまづき、その拍子に車道に転げ出た。運送業者のトラック。激しいブレーキ音。鈍い衝突音。慌てて飛び出してくる運転手。遠くから女性の悲鳴。もう、助からないだろう。

 私は、動けなかった。いや、動けば動けたのかもしれないが、結果として動くことはできなかった。これは現実なのか。それとも、私の中の妄想の世界なのか。それを確かめたかったのかもしれない。

 程なくして出来た人だかりが、私を現実に引き戻してくれた。確かにあの男は私の目の前で・・・。


 因果応報。これで良かったのだ。あの男は、人の力の及ばぬほど高いところでの裁きを受けることになったのだ。

 きっと、これで良かったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る