第150部分
そのタチバナの返事を合図に、アイシスが荷物の方へ元気良く歩き出す。十分な睡眠の後に朝食を取り、更にはいくつかの喜ばしい出来事を経たアイシスは、気力と体力が共に著しく充実していた。タチバナは直ぐにその後に続きながら、そんなアイシスの意気揚々とした様子を二つの意味で喜ばしく思っていた。則ち主が心身共に健康な事への喜びと、この調子ならば今日も十分な進行が可能であるという見込みへの喜びである。だが、その内の一つには直ぐに暗雲が立ち込める。
荷物の所に辿り着いたアイシスだったが、それを拾わずに動きを止める。何が起きたのだろうか。少なくとも、自身の感覚では周囲やアイシスの身体等に何らかの支障を感じる事が無かったタチバナはそう疑問に思うが、その後のアイシスの動きによりそれは直ぐに氷解する。アイシスはタチバナの方を見て何かを言いたそうにした後、太陽のある方向や周囲の風景等を見渡し、そして最終的には自身のポーチからコンパスを取り出すと、暫しの間それを眺めていた。
自身の感覚では目指すべき方向は明白だが、旅慣れていないアイシスがそうではない事は仕方が無い事である。そう考えたタチバナが静かにその様子を見守っていると、やがて進むべき方向を見付けたアイシスはコンパスを仕舞う。それを見たタチバナが自身の荷物の所へ移動してそれを拾うと、丁度アイシスが自らの荷物を拾うタイミングと重なるのだった。
無論、旅慣れぬアイシスとて太陽の方向や、ぼんやりとだが遠くに見える一面の森林らしき物から、概ねの進行方向は割り出せていた。だが、昨日自身が決めた方針の通りに北西に進むのであれば、しっかりとその方向に最短距離で進みたい。その様な思いがアイシスにコンパスを用いての万全の確認をさせ、それを汲んだタチバナは黙して見守っていたのであった。
「それじゃあ荷物も持ったし、今度こそ出発しましょう」
「かしこまりました」
今立ち止まっていたのは、あくまでも荷物を拾う為である。そういう体でアイシスが発した号令にタチバナが応じると、再びそれを合図としてアイシスが元気良く歩き出す。その方向は北西からほんの少しだけ西寄りになっていたが、それを指摘する事もなくタチバナはそれに続くのだった。
それから暫しの間の道中は良く言えば順調、悪く言えば退屈なものだったが、今日のアイシスはそれで歩を緩めたりはしなかった。栗鼠や野鳥等の野生動物に目を奪われる事はしばしばあったものの、強い意思を持ったままその足を進めていく。タチバナはそんなアイシスを見守りながら、口を挟む事も無くその右側を歩いていたが、ある時ふとその口を開く。
「お嬢様、少々お待ち下さい」
「何かあったのかしら?」
突然のタチバナの言葉に不意を突かれたアイシスではあったが、特に動揺を見せる事も無く立ち止まるとそれに応じる。その様子に主の成長を感じながら、タチバナはその質問に答える為に再度口を開く。
「水の音が聞こえて来ましたので、また湧き水が付近にあるかもしれません。進行方向からは少々外れてしまいますが、探してみますか?」
タチバナがわざわざアイシスの足を止めさせた理由を説明し、それへの対応を主であるアイシスに委ねる。無論、タチバナ本人としては水場を探すべきであると考えていたが、此処まで一心不乱に歩を進めて来たアイシスの様子を見ると、それに自ら水を差す様な事はしたくなかった。
「愚問ね。当然、水場を探すのが先決でしょう。と言っても、私にはそんな音は聞こえないから、貴方に頼る事になるのだけど。それじゃあ、早速案内して頂戴」
当然の様にそう答えるアイシスに、タチバナは再びその成長を感じていた。此処までの脇目も振らぬ様子から、少し前のめりになってしまっているのかもしれないとも思っていたが、しっかりと冷静な判断をする余力も残している。その事に対してのものであったが、似た思いはアイシス本人も持っていた。あんまり疲れても居ないし、今の判断も悪くないわよね? 話し終えた後、アイシスはその様な事を思っていた。
「かしこまりました。私が先行致しますので、お嬢様はその後に付いて来て下さい。……もし速過ぎる時には、ご遠慮なく仰って下さいませ」
以前に似た様な事をした際、小鬼が近くに居た為にアイシスの発言をタチバナは制したが、その言葉はしっかりと記憶していた。今度はそれを念頭に置いて前を歩くつもりではあったが、タチバナは念の為にその対策をアイシスにも伝えて置く事にしたのだった。
「分かったわ」
そうとだけ短く答えたアイシスであったが、例によってその声には喜びの念が滲み出てしまっていた。あの時は少しだけ蔑ろにされた様にも感じていたけど、ちゃんと気にしてくれていたのね。そんな事を思うと、アイシスは自然と嬉しさが込み上げているのであった。
「それでは……」
主の了承を得たタチバナはそう言うと、殆ど真っ直ぐ北方向へと歩き出す。その後に続いたアイシスは、以前よりも緩やかな速度で前を行くタチバナの後を追いながら思っていた。こうしてタチバナに引っ張って貰うのも、悪くはないわね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます