第95部分

「……まあ、貴方がそう言うならそうしましょう。ところで、この死体はどうするのかしら? あまり見ていたくはないのだけど」


 胸の中のなんとも言えない初めての感覚を味わいながら、アイシスが言う。冒険者を続けていればいずれは慣れるのかもしれない。だが現時点のアイシスは、生々しい死体の近くにはあまり留まりたくはなかった。


「かしこまりました。それでは私は荷物を回収し、洗い物等を済ませてしまいます。小鬼の死体に関しては、私達が水場の向こう側にでも移動していれば、後は放って置いても誰かが掃除してくれるでしょう。幸いな事に、この辺りは肉食の魔物や獣には事欠きませんので。お嬢様がどうしても気になるのでしたら、片付けるなり埋葬するなりして頂いても無論構いませんが」


 タチバナは淡々とした口調でそう言うと、宣言通りに荷物を回収する為に、すっとアイシスの前から離れる。そのタチバナの話を聞き、アイシスは考えていた。仕事は早くて確実で、こうして私に的確な助言もしてくれる。そんなタチバナはとても優秀で、気配りも出来て忠誠心も兼ね備えている、私にとって最高のメイドである。それはこれまでの働きからも間違いないが、その感覚は一般的なものとは少々異なっているかもしれない。


 だが、アイシスはそれを欠点として認識した訳ではなかった。タチバナ程の高い能力を持っていれば、凡人と感性が異なるのは当然の事である。更に、別に暴き立てようとは思わないが、その過去にもどうやら色々と複雑な事情がある事は、これまで行動を共にして何となく察せている。そんなタチバナに一般的な感覚を求める方がおかしいし、タチバナのそういう所が私は――。


 そこまで考えた所で、後に続く言葉を明確にする事を恥ずかしく思ったアイシスは思考を打ち切る。気付けばタチバナは既に水場の方で作業を始めており、自分もいつまでも小鬼の死体の傍に居る訳にもいかない。そう思ったアイシスは、先程身を隠していた木の方へ移動して自分の荷物を拾うと、タチバナの居る水場の方へと向かうのだった。


「お嬢様、先ずは水筒に水を補給なさって下さい。水は際限なく湧いてくる様なのでいずれは入れ替わるでしょうが、血の付いた布等を洗った後の水を飲むのは気が引けるでしょう」


 アイシスが水場付近に到着すると、荷物を広げていたタチバナが声を掛ける。ああ、気を遣わせてしまっていたのか。そう思ったアイシスは、直ぐに水筒を取り出すとその中身を地面に捨てながら口を開く。


「ごめんなさい、待たせてしまったわね」


 アイシスはそう言うと水場の前に座り、それを良く観察する。小鬼が占拠していたとあって、アイシスはその汚染を少々心配していたが、どうやら杞憂に終わった様だった。安心して水場から水筒に水を汲むと、蓋をして数回振ってその中身を地面へと流す。そしてもう一度水を汲むと、やや間を置いてからそれを少量、口に含む。


「あ、美味しい」


 久し振りに新鮮な水を飲んだアイシスは、心からそう思った。地下水が湧き出ている為に十分に冷えており、しかもそれなりに喉が渇いているという状況では、下手な味付きの飲料以上に美味しく感じられたのだった。アイシスはそのまま続けて数回水を飲むと、最後に水筒を一杯にしてその蓋を閉じる。


 主が用事を終えた事を確認し、タチバナも先ずは自らの水筒へ水を補給する事にする。物心が付いてから、一度も外的要因によって体調を崩した事が無いタチバナには、主の行動は気にし過ぎている様に感じられたが、此処では主と同様の手順を踏む事にする。タチバナもアイシスと同様に一度水筒の内部を良く濯ぎ、その後にもう一度水を汲む。だが、タチバナはその場で水を摂取する事は無かった。別に気にする事ないのに。そうアイシスが思っていると、タチバナが口を開く。


「お嬢様。私はこれから洗い物等の作業を行いますので、その間にまた薪の収集をお願いしてもよろしいでしょうか。ついでに周囲を散策等をなさっても構いませんが、あまり遠くへは行かないようにお願い致します」


 タチバナのその言葉はやはり合理的なものだったが、アイシスはその裏にある意図にも何となく気付いてはいた。タチバナは、自分が飲食をしている場面をあまり私に見せたくないらしい。それは今までの様子からも何となく感じてはいた事だったが、それを指摘するような気はアイシスには毛頭無かった。大切な人が、美味しそうに何かを食べる姿。それを見る事が出来ないのは、アイシスにとって少々残念ではあった。だが、タチバナ本人の意思よりも優先すべき事など、アイシスには考えられなかった。


「分かったわ。それじゃあ、早速行ってくるわね」


 そう言い残し、アイシスは早足で小鬼達の死体とは逆方向へと歩き出す。それにはタチバナに気を遣い、その場を早く離れるという理由もあったが、多くはアイシスの胸の高鳴りがそうさせたのだった。この世界に来て以降、少女は既に多くの濃密な体験をしたと言って良いだろう。だが、この様なちょっとしたお出かけや、周囲の平凡な荒れ地の風景も、少女にとっては未だ十分に感動の対象になり得るのだった。

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