金曜が土曜に変わる頃、公園で……

城門有美

プロローグ

第1話

 春の夜。湿気を帯びた空気はアルコールで火照った顔を程よく冷やしてくれる。桜庭さくらば冬葉ふゆははトボトボと俯いて歩きながら深く深呼吸をした。


 ――落ち着け。


 暗い道路を見つめながら心の中で言い聞かせる。慌てたところで事態がどうにかなるわけでもない。とりあえず今は酔いを冷まして記憶を探ることが先決だ。

 冬葉は足を止めて顔を上げる。この道を歩いて帰って来たのは間違いない。新しい職場での歓迎会。自分の歓迎会なのだから呑まないわけにもいかず、言われるがままに呑んで解放されたのが今から一時間ほど前。職場の先輩に最寄り駅まで車で送ってもらい、そこからアパートまではこの道を妹と通話しながら歩いた。

 寄り道もせず、ただまっすぐにいつも通り歩いて帰っただけだ。

 それなのに、どうして……。


「家の鍵、出ておいでー」


 泣きそうになりながら呟く。アパートに辿り着き、ドアの前で気づいたのだ。鍵がないことに。

 どこかで落とした。それは間違いないだろう。だが、どこで落としたのか検討もつかない。

 職場で落としたのか、店で落としたのか。それとも先輩の車に落としたのか、あるいはこの帰り道のどこかで落としたのか。


「車かなぁ」


 正直、車内では先輩と話すことに一生懸命で何をしていたのか覚えていない。バッグからペットボトルを出し入れしていたような気もするのでそのときに落とした可能性もある。

 冬葉はスマホを取り出して電話してみようかと考えるが、表示された時刻を見て深くため息を吐いた。

 すでに時刻は深夜を回っている。いくら明日が土曜とはいえ、さすがにこんな時刻に職場の先輩に電話をかけるのは非常識だろう。


「どうしよう……」


 道中に落とした可能性もあるが、夜の暗い道。街灯があるとはいえ、とても落ちている小さな鍵を見つけられるとは思えない。

 記憶にある限り、この近くにネカフェなどはない。駅前にまで戻ればビジネスホテルくらいあるだろうが、この時間から泊まれるか疑問だ。そもそも、そんな金銭的余裕もなかった。

 冬葉は再び歩き出しながらスマホの画面を見つめた。

 通話履歴には妹の紗綾さあやの名前。田舎の親戚の家に残してきた、四歳下のたった一人の家族。もう一度電話してみようかと思ったが、そうしたところで心配をかけるだけだろう。


 ――お姉ちゃん、ほんっと頼りないっていうかドジっていうか姉らしくないっていうか、よくそれで大人やってるよね?


 そんなことを言われるのが目に見えている。冬葉は苦笑しながらスマホを持つ手を下ろした。そして道の先を見て「公園……」と呟く。


 ――さすがに誰もいないよね。


 思いながら覗いてみる。そこは綺麗に手入れされた小さな児童公園だった。遊具はブランコ、滑り台、シーソーしかない。あとは屋根がついたベンチと掃除道具でも入っているのだろうコンテナが一つ。狭い公園のわりに街灯はいくつも設置されていて明るい。ここならしばらく時間を潰せるかもしれない。

 少しだけホッとしながら公園に入ってブランコに向かう。その後ろには桜の木々がひょろりと立っているが、もう花は散ってしまったようだ。緑の葉を緩やかに揺らす木の下で、冬葉はブランコに腰掛けた。

 キィッと微かに鎖が鳴る。

 歩き回ったおかげで酔いはすっかり冷めた。しかし頭はまだぼんやりしている。思考が停止している。そんな感じだ。

 鍵を無くしたら玄関の鍵を取り替えることになるのだろう。そのための費用は幾らかかるのだろう。自分用の貯金は引っ越しですべて使ってしまった。給料日まではあと二週間ほどある。もらった給料から家賃、光熱費、生活費を引いて学費貯金をしてしまうとほとんど残りはしない。果たして鍵の交換費用を捻出することはできるだろうか。まだ生活に必要なものすら満足に揃っていないというのに。


 ――光熱費と生活費を切り詰めるしかないか。


 学費貯金だけは削れないのだ。紗綾の為にも。

 自然と俯き、深くため息を吐く。とりあえず早く朝がきてほしい。夜は嫌だ。眠ることもできない夜なんて最悪だ。俯いたまま耳を澄ますと遠くから救急車のサイレンが響いてくる。

 冬葉は地面についた足に力を入れて身体を揺らす。サイレンの音に混じって鎖が軋む音が微かに鳴った。耳の奥で響くサイレンは果たして現実のものなのか、それとも記憶のものなのかわからない。


 ――まだ、酔ってるのかな。


 こんな気持ちになるなんて。紗綾を親戚の家に残してきてしまった罪悪感のせいだろうか。それとも、この公園が昔住んでいた家の近くの公園にどこか似ているからだろうか。


 ――しっかりしなくちゃいけないのに。


 こんなことで落ち込んでいてはダメだ。もう自分は大人で、もう自分は失敗しない。しっかりと生きていくと決めたのだから。

 冬葉は深くため息を吐くと一度目を閉じ、そして深呼吸をする。

 とりあえず朝が来たら先輩に連絡してみよう。それで鍵が見つかれば良し。見つからなければ駅からアパートまでの道を辿って鍵を探す。それでも見つからなければ居酒屋に連絡して確認。それでもやはり見つからなければ観念して大家さんに連絡をする。

 ドジを踏んだのは自分なのだから仕方ない。これから気をつければいいだけのこと。


「……よし」


 心の中で自分に言い聞かせて気持ちを落ち着かせると、冬葉はゆっくりと顔を上げた。そして目に映った光景に息を呑む。

 公園の中央に女性が一人立っていたのだ。

 公園中の街灯から彼女へと注がれる光はまるでスポットライトのようで、長い髪は春の夜風に遊ばれてその毛先を揺らす。光に照らされた凜とした表情は、真っ直ぐに冬葉へと向けられていた。

 すらりと伸びた手足、大きめのパーカーにジーンズというラフな格好であるはずなのにスタイルの良さがわかってしまう。それは彼女の姿勢が良いからだろう。

 どれくらいの間、見惚れていただろうか。ふいに彼女が冬葉へ近づいてきた。

 一歩、二歩、三歩。

 ザッ、ザッと靴音が響く。そして目の前に立った彼女は冬葉をジッと見下ろすと「そこ……」と口を開いた。


「え?」

「そこ、わたしの場所なんだけど」

「え……?」


 何を言われたのかわからず、ぽかんと口を開けてしまう。やがて自分が座っているブランコのことだと気づいて冬葉は慌てて立ち上がった。


「えと、ごめんなさい」

「うん」


 彼女は頷くと揺れるブランコの鎖を掴んで動きをとめ、静かにそこに座った。そして「そっち」と隣のブランコを指差す。


「え?」

「そっちだったら座ってもいいよ」

「あ、はい。どうも」


 冬葉はわけもわからないまま彼女の隣のブランコに座る。

 キィッと鎖が鳴った。ちらりと見た彼女は宙をぼんやりと見つめている。

 しんとした空気。何か話をするでもない。ただ静かな時間が緩やかに過ぎていく。聞こえてくるのは微かに地面を擦る靴の音と軋む鎖の音。


「こんな時間に何やってんの? こんな場所で」


 どれくらい経った頃だろう。そう口を開いたのは彼女の方だった。しかし彼女は相変わらずどこか遠くを見つめている。冬葉のことを見てはいない。


「今、何時か知ってる?」


 ブランコを軽く揺らしながら彼女は続けた。冬葉はスマホを取り出して時間を確認する。


「もうすぐ一時を過ぎますね」

「普通いないよ? こんな時間、こんな場所に、あなたみたいな人」


 ――その言葉、そっくりそのまま返したいけど。


 思いながらも口に出すことはできない。見たところ彼女は自分と同年代か少し下といったところ。綺麗な容姿だが、やんちゃしているといった雰囲気ではない。たった一人でこんな時間、こんな人気のない場所に来るようなタイプには見えなかった。

 どう答えたものかと彼女をじっと見つめていると、その視線に気づいたのか「わたしは近所に住んでるから、寝る前の散歩」と無表情に言った。


「そうなんですか……」

「あなたは?」

「わたしは、ちょっと、その、帰れなくなってしまって」

「ふうん」


 彼女は頷くとザッと足を地面について揺らしていたブランコを止めた。


「当ててみせようか。帰れなくなった理由」

「え? あ、どうぞ」

「深夜まで遊んで親に怒られて閉め出された」


 その言葉に冬葉は苦笑して首を傾げた。


「わたし、もう大人ですよ? それに一人暮らしです」

「大人?」

「二十一です」

「え、なんだ。年上じゃん」

「そうなんですか?」

「うん。わたしは十九。タメ口、ダメだったね」

「いえ、それは別に――」

「あ、わかった。ストーカーがいて家に帰れない、だ。ね、当たった?」


 冬葉の言葉を無視して彼女は人差し指を立てた。まるで子供がクイズを楽しんでいるような表情に冬葉は思わず笑ってしまう。


「違いますよ。そもそもストーカーがいるなら交番にでも行ってますって」


 そう答えると、彼女は冬葉に人差し指を向けて「笑った」と微笑んだ。そのあまりにも優しい表情に冬葉は目を見開いた。そんな冬葉の反応を気にした様子もなく、彼女は「良かった」と笑みを深める。


「さっきまですごい深刻な顔してたから。何か思いつめてんのかと思ってさ」

「そう、ですか?」


 自分の頬に手を当てながら冬葉は「たしかに、ちょっと余裕がなくなってたのかも」と軽く笑う。


「うん。なんで?」

「家に、帰れなくて」

「それはさっきも聞いた」


 ぶっきらぼうな言葉。しかしその声は柔らかく、優しい。まるで何でも受け止めて包み込んでくれるような、そんな声。冬葉は手元に視線を向けながら「鍵を、無くしてしまって」と呟いた。


「家の?」

「はい。ダメなんです、わたし。ほんとに昔からドジで使えなくて。妹のためにこれからはちゃんと真っ当に頑張って働くぞって、そう決心して新しく仕事にも就いて。貯金も全部使って引っ越してきたのに、いきなり鍵を無くして……。鍵の交換費用とかどうしようかなとか、こんなわたしがこれからちゃんと一人でやっていけるかなとか、妹に心配かけてるんじゃないかなとか色々考えてたら――」


 そのときリィン……と聞き覚えのある鈴の音が静かな公園に響いた。冬葉はハッと息を呑み、音がした彼女の手元に視線を向ける。そこには銀色の鍵が一つ握られていた。

 鍵の端につけた組紐の先には小さな金色の鈴。それは昔、よく物を無くす冬葉のために小学生だった紗綾が貯めた小遣いで買ってくれたお守りの鈴。


 ――神社でご祈祷してもらったから、これをつけてると絶対に無くさないよ。


 そう言って幼い紗綾がくれた誕生日プレゼントだった。


「それ、わたしの……」

「あ、そうなの? じゃあ良かった」


 本当かどうか確認するようなこともせず、彼女は「はい、どうぞ」と鍵を冬葉に手渡した。


「え、いいんですか?」

「え、だってあなたのなんでしょ?」

「そうですけど、普通は本当に持ち主かどうか確認したりしません?」

「確認なんて取りようもないじゃん。それ、ここに来る途中で拾ったものだし」

「それは……。たしかに」


 冬葉は頷く。彼女は「でしょ?」と笑うと身体を曲げて自分の膝に頬杖を突いた。


「これで悩みは解決?」

「……とりあえずは、家に帰れます」

「それは良かった」


 彼女はそう言うと優しい表情で「早く帰って暖かくして寝なよ」と続ける。


「それで、まだ悩みが解決しないようだったらまたここに来たらいいよ。わたしが悩みを解決してあげよう」

「――ほんとに?」

「まあ、無理なものは無理だけど」

「なんですか、それ」


 冬葉が苦笑すると彼女は「でも」と笑みを浮かべる。


「こうして話してると悩んでるのバカらしくなるってこともあるかなって」


 それはたしかにそうかもしれない。実際、冬葉の気持ちは今穏やかだ。さっきまで悩んでいたことも、今ではどこかにいってしまっている。決して解決したわけじゃない。それでも心は軽い。


「ね?」


 無意識に胸に手を当てていると彼女は微笑んだまま首を傾げた。冬葉は胸から手を離し、その手に持っていた鍵をギュッと握る。


「……あなたはいつもこの時間に?」

「んー、気分による。でも、そうだな」


 彼女は身体を起こすと視線を空へと向けた。つられて見た空には何も見えない。ただ真っ暗闇の中に街灯の白い光がぽっかり浮かんでいるだけだ。


「今日って何曜日だっけ?」

「今日……。えっと日付が変わる前だったら金曜日ですけど」

「じゃ、金曜が土曜に変わる頃ここに来る」

「毎週?」

「しばらくは毎週。どうせ暇だし」


 ニッと彼女は笑う。つられて冬葉も笑みを浮かべた。


「じゃあ来週、鍵のお礼に何か持ってきますね」

「別に気にしなくてもいいのに」

「いえ、そこはさすがに気にしますよ」


 言って冬葉は立ち上がる。ガシャンと鎖が揺れた。


「本当にありがとうございました」

「どういたしまして。気をつけて帰りなよ。お姉さん」


 冬葉は頷き、深く礼をしてから公園の出口に向かう。そしてふと、まだ名前も言っていなかったと思い出す。


「あの――」


 立ち止まって振り返ると彼女は「ん?」と不思議そうに首を傾げた。


「わたし、桜庭といいます。あなたは?」

「わたしは神様だよ」

「え……?」

「この公園の、神様」


 両手を軽く広げて彼女は微笑む。その笑みはまるでイタズラが成功した子供のような無邪気なもの。からかわれているのだろう。それでも悪い気はしない。冬葉は「そうですか」と微笑む。


「じゃあ、神様。おやすみなさい。夜更かしはダメですよ」


 予想外の言葉だったのだろう。彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに「了解」と肩をすくめた。


「おやすみ、桜庭さん」

「はい。また来週」


 冬葉は彼女に手を振って公園を出る。


 ――不思議な子だったな。


 しかし決して悪い子ではない。どこまでが本気でどこまでが冗談なのかもわからない。それでも彼女の声は安心する。彼女の笑みを見ると心が穏やかになる。彼女の存在は、まるで……。


「お礼、何がいいかな」


 アパートに向かいながら握っていた鍵の組紐を指にかけて空に掲げる。街灯に照らされた金色の鈴が揺れ、チリンと可愛らしい音を立てた。

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