第27話
──女官長である春海は主人の演奏に聴き入っていた。
軽やかに響く音色。
コロコロと何かを転がすかのように。
ふわふわと蛸が浮かぶような如く軽い動きで主人は弾き続けていている。
思い浮かぶのは題名のように子犬が走り回っているかのようで。
歌うような音色は1度聞けば忘れられない。
容易くたくさんある『鍵盤』というものを操り、人々を惹きつけている。
その証拠に乾隆帝付きの宦官達や主人の従者達は聴き入っていた。
自分の魅力に本人だけが気がついていない。
この演奏ならば陛下に気に入られるというのも納得だ、と春海は思っていた。
視線だけを移し、乾隆帝を春海は見てみる。
──笑っていらっしゃる。
あの陛下が笑っていらっしゃる。
──何度もピアノの演奏を聴いている表情を見てきたけれど。
──笑っていらっしゃるのを見るのは初めてだった。
春海はその表情に酷く驚いた。自身の表情は勿論崩さない。
女官長としてそれは許されない。
皇帝とは滅多に表情を表に出さないものである。
それは敵味方に自身の心情を諭させないためだ。
政務にもそれは必要な事だからである。
英雄ポロネーズの時も笑みを浮かべていたが、その時とはまた違ったものだった。
今の皇帝はあの時と違いただの1人の男に成り下がっていた。
皇帝という身分を取り除いたこの男は本当はこのように笑うものなのか、と驚いていた。
(陛下は若汐様のピアノにきっと恋しているのだわ。)
乾隆帝は何かを愛しているような目ではなかった。
まるで少年に戻ったかのような、誰かに恋をしているかのような表情をしていた。
恋焦がれ手に入れられないような、そんな表情をしていたのだ。
おかしなものである。
妃嬪となった若汐はもう皇帝のものだ。
夜伽も何度も行っている。
何故か今は頻度はすっかり減ってしまったが。
それでも立派な皇帝の奥様なのだ。
それなのに、皇帝ですら手に入らないものがあるというのか。
皇帝の為に主人は奏でているというのに手に入らないものがあるのか。
あるというなら、若汐という人物ではない。
──きっとこの歌うような音色だ。
この音色はこの場に居る誰にも出す事は出来ない。
出す事が出来るのは主人のみだ。
ただ『鍵盤』を押すのなら春海にも可能なことである。
実は、彼女はここ数ヶ月で何度かピアノの仕組みを教えて貰った事があった。
何度も陛下が主人にピアノの演奏を聴かせるように命じてきたからである。
その為に主人は特別に乾隆帝からピアノを自由に触って良いと許可を貰っていた。
練習の為にこの円明園に来て弾いているのを春海は何度も見ていた。
その時に特別に触らせて頂いたのである。
恐る恐る押してみた。
──あまりに空虚な音だった。
誰にでも出せてしまうような、何も伴っていないただの音色で酷いものだった。
主人のような歌う音色を出す事は出来なかった。
どうしてそのような音色が出せるのか、春海は聞いてみた事があった。
「そんなに特別な音が出ているの?ただ、私は歌って弾いているだけよ。」
さもそれが当たり前かのように主人はそう言った。
『歌うように弾く』という事がどれだけ難しい事なのか。
出来たとしてもそれを音色として出せるまでどれ程の技術と才能が必要か。
それを知るのは現代のピアニストだけだろう。
そしてその表現が当たり前のように出来るのは間違いなくこの時代、この国では若汐だけだった。
皇帝が恋焦がれて仕方ない音色を当たり前のように出せる主人は一体何者なのだろうか。
本当にただの円明園の女官だったのだろうか。
春海は主人に絶対に忠誠を誓っているが疑念にも似たようなものを抱いてしまう。
郎世寧様からピアノの基礎を教えて頂いたと主人から聞いた。
それだけで人の心を動かすような、人の表情を動かすような、そんな音色がはたして出せるのだろうか。
聞けば心を動かしたのは皇帝だけではない。
皇后すら動かし、前向きにしたのだと言う。
本当に、出来る事なのだろうか。
──もちろん、それは無理な事である。
いくら本当に郎世寧が若汐にピアノを教えたという事実があったとしても、基礎だけでは若汐の今の音色に辿り着く事は出来ない。
厳しいが、この時代のこの国の人間に若汐のような音色を出せる人物は出ないだろう。
そのような音色が出せるのは若汐が現代で培ってきた技術と才能があってこそである。
だがその事実を春海が知る事は一生ない。
若汐は決して自身の事を明かさないと誓っているからだ。
春海はその事実だけは知らない。
知った所でどうしようもないだろう。
だからこそ、若汐は決して言わないのである。
(本当の事はわからない。でも、素敵な演奏だわ。本当、聴くだけで疲れが取れてしまいそう。)
春海は主人の演奏を聴いている時は無理して作り笑いをする必要はないと考えていた。
だって聴いているだけで笑顔になってしまうような演奏だからだ。
ピアノの演奏を聴く度、彼女は自らの主人が若汐で良かったとつくづく思っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます