特殊砦で頑張りたい
和宮衣沙
第1話 すべてのはじまり
若い鮮やかな緑が、日の光を明るく弾く。そう暗くない森の入り口で、狼とそれに対峙する二人の人がいた。
体高が成人男性の腰ほどもある狼は、伸びあがると対峙する相手の身長をゆうに超えてしまうだろう。その毛並みは夜の闇のように真っ黒で、木洩れ日を受けて艶やかに輝いている。
思わず触れたくなるような毛並みだが、当の黒狼は近づくものを威嚇するように唸り声を上げ、不機嫌さを顕にしていた。
一方、それに対峙する男は珍しい白銀の髪に青い瞳をしている。目尻の下がった優しそうな顔立ちに、状況に合わず楽しそうな表情を浮かべていた。
彼は細身のわりに軽々と長剣を扱い、黒狼に切りかかる。しかし黒狼は俊敏な動きでその攻撃を躱し、森の奥へと走り出した。
「アルト! 追え!」
男が指示を出すと、彼の後ろから小さな人影が飛び出した。少年とも少女ともつかない中性的な顔立ちで、男と同じ白銀の髪を揺らし、金色の瞳を輝かせて駆けていく。
狼と人の走る速度では、比べるもなく狼の方が早い。
何とかして早期に足止めをしなければならないと考え、その子――アルトはまだ狼が見えるうちに腰につけたナイフを抜き、投げた。
弾き飛ばされず、かつ足止め出来るような場所を考え、続けざまに2本投げる。そのどちらもが黒狼の後脚の付け根に当たった。当たっただけで、刺さりはしない。
しかし黒狼は足を止め、片足を引きずる様子を見せた。
そして唸り声を上げながら振り返り、アルトを見据える。攻撃を受けたことで、標的とみなしたらしい。
考えるよりも先に体が動き、アルトは右側に飛び退った。
見ればアルトが元いた場所には黒狼の爪が刺さっているではないか。
考えて動いていたのであれば、今頃流血沙汰になっていただろう。
(――本気すぎるよ)
心の中で苦情を言いながら、アルトは黒狼を睨み付けた。
すると相手も地面から爪を抜き、再び『獲物』を見据える。
仕留めそこなってさぞ不機嫌だろうと思うところだが、黒狼はうっすらと口の端を吊り上げていた。
鋭い牙が覗き、獲物を前に嬉々とする凶悪な笑みにしか見えない。
(不味いなぁ……)
アルトは黒狼の機嫌がとても良くなってきていることに気づいた。
こうなれば相当に
そう理解しつつも、どのように仕掛けるか悩むアルトの耳に、救いの声が届いた。
「戻れ!」
その端的な指示に、アルトは直ぐさま反応し、身を翻した。
黒狼が道を塞ごうと回り込んできたが、構わずそのまま軽く走って地面を蹴り、跳躍する。
そして自身の倍の高さはあろうかという木の枝を掴み、アルトは勢いに任せて黒狼を飛び越えた。
黒狼が小さな姿に意識を向けている間に、男は素早くその獣との距離を詰め、脇腹に剣を叩きつけた。
ナイフと同じく刃を潰してあるので切れはしなかったが、その一撃で黒狼は動きを止め、地面に倒れ伏した。
黒狼が動かない様子を十分に確認し、男は漸く警戒を解いた。長剣を鞘に戻してアルトを振り返り、終了の合図を出す。
「よし、終わりだ」
「終わったぁあ」
男の穏やかな顔見た途端、アルトは肩から力を抜いた。緊張の糸が緩み、どっと疲労が押し寄せる。休息を求める身体に抗うことなく、地面に座り込んだ。
「よく頑張ったね。早くに足を止めさせる判断は良かった」
「うぅー父様優しい」
アルトは優しく頭を撫でてくれる男――クレストに抱きついた。
「狼姿になれば追いつけるとは思うけど、それだと父様から離されすぎるかなって」
「そうだね。相手が集団になっていれば分散させる方が戦いやすいけど、こちらが分散するのは得策じゃない。足止めに投げたナイフも精度が良くなったね」
『でもねー、人間や動物相手だと十分だろうけど、魔物相手にはまだまだよぉ』
褒めるクレストに割って入るようにして反論したのは――先ほど倒れた黒狼だった。アルトは少し拗ねたような表情で黒狼を見上げ、反論した。
「だって魔物相手に一人で戦っちゃだめでしょ?」
魔物とはこの世界に住む、人間とも獣族とも動物とも違う、人間を襲う危険な生き物のことである。複数の生物が複合したような形態で身体能力が高く、一人で戦うことは自殺行為でもあった。
『まあ逃げるのが定石ね。でも――どうしても一人で戦わないといけないときも来るかもしれない。今は速さと軽さを活かした補助だけど、主体的に攻撃できるようにならないとね。そうねぇ、何か武器を変えてみようかしら』
一瞬迷い、それでも厳しい声で指導する黒狼。褒められて浮かれていただけあって、アルトは新たな課題を示されて落ち込んだ。
「母様は厳しい。それにそんな日なんて来ないもん」
アルトがへにょりと眉を下げると、黒狼が尻尾を振ってアルトに伸し掛かってきた。同年代の平均よりも小さめのアルトは、その体重に押されて簡単に地面に倒れこむ。
『ああ、私の娘が可愛い。困り顔もいいわぁ』
先程までの厳しさと打って変わって、機嫌よくぺろぺろと顔を舐められ、アルトはくすぐったさに身を捩った。
「ライカ、その辺にしてあげて。アルトはナイフ投げの練習も続けて、体に合った新しい武器を考えよう」
クレストが宥めて止めると、黒狼――ライカがアルトを押し倒したまま顔を上げて笑う。
『次はあなたが獲物役よ。私たち二人で追いかけるの』
「それは反則だよ。ただの人間の僕と獣族の二人じゃ、身体能力に差がありすぎる」
勘弁して、というように顔を覆ったクレストに、母親であるライカとも組んでみたかったアルトは食い下がってみる。
「ふたりとも人型でも、だめ?」
未だに黒狼の下敷きになっているアルトがクレストを見上げる。娘のお願いに、クレストがうっと言葉を詰まらせるが、首を振って反論した。
「それでも普通の人よりは足も速いし、気配にも敏感。僕なんかあっという間に食べられちゃうからね」
真面目な顔でライカとアルトに諭すように話すクレストに、ライカが笑みを深める。
『うふふ。別の意味で食べちゃおうかしらぁ』
「ちょっ、ライカ!」
真剣な顔で話していたのに、見た目通り肉食系女子なライカに茶化され、クレストは真っ赤になって止めた。ライカはその反応に満足そうに笑い、きょとんとしたまま寝転がるアルトを見つめた。
『いつも私ばかりが悪役だけど、貴女のためなら頑張るわ。私たちの大事な可愛いアルト。いつか来る――貴女が男の子として過ごすことが出来なくなる時のために。女の子でも、一人でも、強く生きて行けるように』
最後にペロリと頬をひと舐めして、ライカがアルトの上から退く。
語られた願いに僅かな寂しさを感じつつ起き上がれば、森を抜ける風が彼女の短い髪を揺らした。
肩にかからない長さの髪は、この国の女性ではありえない短さだ。
アルトは人間の父と狼の獣族の母から、人間ではなく獣族として生を受けた。
獣族とは人間としての姿と、血に刻まれた特定の獣の姿を持ち、自由に姿を変えることができる人間の変種である。通常の人間よりも優れた容姿と身体能力を持ち、獣型になればその形態に応じて人間にはできないことを簡単にやってのける。
そんな彼らは同じ種族か人間としか子を成せず、減少の一途をたどっていた。
そしてその存在が希少となるにつれ、彼らの身は様々な理由で狙われることになる。
この世界では人間の隣人として生まれた獣族を隷属させることを禁じているが、どんな世界にも闇はあるもの。違法な手段で珍しい人間や獣族を捕え、売買する者は少なくなかった。
一方で、獣族側にも問題があった。
それぞれの種族に分かれて人の目を避け、作り上げた『隠れ里』。そこまでは良かったのだが、次第に里は自らの種族を繁栄させるため、より優れた一族を残すことに執着を始める。
そうして同族の女性を探し求め、手に入れるためには汚いことまでするようになってしまった。
このような情勢を鑑み、クレストとライカは自分たちの娘が自由に未来を選べる力をつけるまでは、秘密裏に男として育てることに決めたのだ。
決意は固く、二人とも元々中央で騎士として働いていたが、住民の管理が薄い田舎に引っ越した上で、定期的に居を移す徹底振りだった。
「さてと。それじゃ、家に帰――」
少ししんみりとした空気を消すように、クレストが声をかけた瞬間、ライカが毛を立てて体を膨らませた。
クレストには聞こえないだろう、アルトとライカの耳だけが身の毛のよだつような獣の声を拾ったのだ。
『あなた』
「魔物か!」
ライカの固い声にクレストが意図を察し、表情を引き締める。
アルトたちが住む村は中央から最も遠く、大陸の中心である魔物の森に最も近い。
最も近いと言っても徒歩で1日以上かかる距離があり、大抵の魔物は魔物の討伐を専門にした砦に引き寄せられるか、巡回する砦の騎士が発見して討伐してくれる。
だが、そうはならずに稀に村が襲われることがある。
そしてそれが、まさに今起きようとしていた。
ほどなくして村の鐘が鳴り響くのが聞こえ、緊急事態を知らせる。
再び緊張に身を固くしながらも、アルトも魔物と戦おうと立ち上がった。
しかし。
「アルト、一人でも大丈夫だね?」
「――え」
「もし村の人が避難するなら手を貸してあげて。苦手でも、ちゃんと声に出すんだよ」
頑張れとアルトの頭をひと撫でし、クレストは彼女の反論を聞く間もなく身を翻して走りだした。
『すぐ終わるわよぉ。待っててちょうだいね』
そう言ってライカもアルトに頬を摺り寄せ、クレストの後を追って駆けていった。
唐突な事態に、残されたアルトは呆然として立ち尽くすしかなかった。
次の更新予定
特殊砦で頑張りたい 和宮衣沙 @isa-kazumiya2684
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