サーマイヤーフ邸で

 時間は敗戦の報が届いて直ぐの時間までさかのぼる。お茶会も終わろうとしている時に早馬でサーマイヤーフの敗北を知ったルーチェは、その知らせをサーマイヤーフの内縁の妻ライラに伝える役目を買って出た。政庁舎や軍庁舎で何か起こった時、役人や軍人が私邸を訪れてサーマイヤーフの素性を隣人に気付かれるのを避けるために苦労している、という話を以前ライラから聞いていたからだ。

 政庁舎と軍庁舎が有り、このレイシン河方面地域の中心都市と言えるシルマンテの街は全体として円形に広がっているが、街の北と東の方角は町と呼べる部分は小さくなり、その北側にはスラム街が形成されている。かつては治安の悪い区画などほとんど無かったようだが、サーマイヤーフがこの地の主に封じられてから経済規模が縮小してだんだん街区が小さくなっていったらしい。サーマイヤーフの治政に問題があるわけではなく、サーマイヤーフを疎む中央がレイシン河方面地域の経済を締めあげたことが原因のようだ。

 街の南には役所の他、政庁舎との取引のある豪商などが屋敷を構えている。東にはかつては羽振りの良かった、中央からくる行商人向けの宿や露店のためのスペース、女だけの店もこの辺りに集中している。西には軍の練兵場や倉庫が立ち並ぶ区画が有り、シムレー号の乗組員も政庁舎に用意された部屋とここをほぼ毎日行き来している。今ルーチェが向かっているのは一般市民の生活する街の北側だ。ライナの実家はスラム寄りのあまり治安の良いとは言えない場所に有ったそうだが、サーマイヤーフと出会ってから中央近くの比較的裕福な市民の住む場所に引っ越している。

 シムレー号を歓待した祝宴の時のライナはいかにも楚々そそとした貴婦人の様だったが、それはサーマイヤーフがエスコートして頻繫ひんぱんに社交場へと連れ出されて磨かれた挙措きょそである。時々訪ねるサーマイヤーフの私邸で出会うライナは、いかにも下町出身の女性らしい景気よくポンポンと憎まれ口の飛び出すやんちゃな女性だった。サーマイヤーフに連れられて初めて家を訪ねた時は、あまりの落差に愕然がくぜんとしたものだ。一方で逆に訓練を積めばこれだけ変化できる、という事実は未だにほんの一握りの人間としか話せない自分が、いずれ王宮ではレオンハルトのパートナーとして堂々と振舞う事を求められる未来に対しての大きな希望だ。

 夕陽が染めたオレンジの景色の中では、一日の務めを終えた人々が足早に我が家へと歩いていく。今日隣国と戦争になっている事すら知らない人間も多いだろう。軍に家族や恋人がいる者は無事の帰還を願って常と違う一日を過ごしたかもしれないが、ここ十年の戦は砲撃戦に終始し、大破、轟沈ごうちんした艦からも無事に脱出できたものがほとんどだというから、出征した者の大半が未帰還となる今回の大敗は全く予想できていないに違いない。

「戦争か…人がたくさん死んだんだ。私が研究開発に協力していたら、皆が帰って来れたかな?」

 思わず呟くが、王国軍艦隊が勝利すれば都市連合軍に死者が出ることは判っているのだ。貧しいから他の場所から略奪する、というような目的での戦争が繰り返されているのであれば、人々の生活を豊かにするような研究に打ち込むことも認められたかもしれない。だが二国間の対立はどちらかと言えば、今まで積み重なった恨みつらみが原因の感情的なもので、生産力が向上してもその分を戦争につぎ込む結果に終わるだけだろう。

「でも、レオンハルトはあたしに軍に協力させたいのよね」

 夕暮れ時特有の寂しさに加え、一人歩きの心許こころもとなさにあまり身にならない独り言を、一言ごとに白い息を吐きながら続けてしまう。アイク島には居なかった羊という獣の毛で作られた防寒着は、故郷の麻を何枚も重ねた冬着の何倍も温かい。そもそも大陸はアイク島よりも遥か南に位置しているので冬の寒さも厳しくは無いが、太陽が沈み始めればやはり寒気がわずかに露出した肌を突き刺す。

「それに、本当はあたしだって精製水について研究したいし、重力水としての活用法だって広めていきたい。今は軍事研究だったとしても、将来的には人の役に立つ何かへとつながっていくかもしれないし」

 今まで何度も考えたことを再び確認する。人の命についてなどどうでもいい。とにかく技術を先に先に進めたい。新たな知識を手にしたい。そんな欲望がルーチェの中には確かに有る。偉大な祖父よりも大きな業績をあげたいという欲求も、女のくせにと自分のやっている事を軽んじた人々を見返したいという気持ちだってある。だがそれを理由に行動してはいけない、と思うのだ。上手く言葉にはできないが、そんな気持ちで作った何かを誇ることはできないし、それではもうレオンハルトの隣に立てなくなる、と感じる。

「昔はレオンハルトが居なくても研究できれば良い、と思ってたのになぁ。誰かを好きになるってこういう事かしら…そんな事もライナさんなら知っているのかな」

 答えを出せないまま、サーマイヤーフ邸に辿り着いてしまう。今は凶報とほんの少しの吉報の使者として振舞おうと決めて、ドアノッカーを鳴らす。

「あなた!」

 すると帰りを待ちわびていたのだろう、ライナがすぐさまドアを開ける。

「あの…ごめん、なさい…あたしで、す」

「ルーチェさん?どうして…」

「あの、その…さっき役所に、早馬が届いて…その、簡単な、事情だけで、も先に…伝えようって…」

 ライナの事は好きだがまだ上手くは話せない。しかしどもりながらの言葉をライナはゆっくり待ってくれる。いかにも下町出身らしい威勢の良さと共に、そういう優しさがある人だから好きなのかもしれない。

「そう、とにかく寒かったでしょう。中に入って」

「お、お邪魔…しま、す」

 真っ先に夫の安否を確認したいだろう気持ちを抑えて、ライナがルーチェを家の中へと招き入れる。玄関に入ると、10歳程度と5歳程度の男の子がこちらを見ている。サーマイヤーフとライナの間に生まれた長男ミーネロートと次男シュワライムだ。二人とも不安そうな顔で、父の身をずっと案じていたのだろうと良く判る。

「ミーネロートくん、シュワライムくん、こんばんは。大丈夫、お父さんは怪我一つしていないって」

 流石のルーチェもこんな小さな子供には怖気づいたりはしない。二人を安心させようと精一杯優しい笑顔を浮かべて‐これは少々努力を要した‐まず吉報を伝える。

 話しかけたのは少年たちにだが、すぐ後ろにいるサーマイヤーフの妻にも当然その言葉は聞こえる。安心したのだろう、大きな溜息ためいきがルーチェの耳に届く。

「ルーチェさん、教えに来てくれてありがとう。温かい飲み物を用意するから少し休んでいって」

 伝えなければいけない事はまだ有るが、それはリビングでお茶を頂きながらで良いだろう。ルーチェが上着を脱ぐと、ミーネロートは嬉しそうにそれを受け取って来客用のコートハンガーに掛けてくれた。その様子にルーチェは今度は自然と微笑ほほえみながら、こちらもさっきとは打って変わって弾けるような笑顔の次男と手をつなぎ、何度か通してもらったリビングへと向かった。

 リビングにはだいぶ髪の薄くなった初老のしかめっ面の男と、ライナと同じ濃い茶色の髪に白い物の混じった暗い表情の婦人がテーブルに着いていた。ライナの両親であるのだが、息子たちを含め家族にはサーマイヤーフの素性は高級軍人であると説明されており、事情も説明せず正式に結婚しようとしないサーマイヤーフとは当然ながら折り合いが悪い。

 それでもこうして戦場に向かった義理の息子の安否を気遣う程度には認めている、という事だろうか。そもそも男女の仲であるのに結婚しない、というのは著しく不道徳なことと幼い頃から教育されてきたルーチェにはその辺りの機微が全く掴めない。

「おや、ルーチェ嬢ちゃんじゃぁないか。どういう事じゃ?」

 ドアをノックする音で当然サーマイヤーフの帰還だと思っていただろう老夫妻は怪訝けげんな顔を浮かべる。

「えっと…あの…」

 別に責められている訳ではないのに、ルーチェは委縮してしまう。そんなルーチェの肩に優しく手を置いたライナが事情を説明する。

「役所にはサーマイヤーフの無事の知らせが届いたけれど、あの人はまだこの街までは戻っていないの。心配しているだろうから、とルーチェさんはわざわざ知らせに来てくれたのよ」

「ほう、それは寒い中有り難い事じゃ。それにしてもあの小僧、悪運の強い事じゃて」

 心配していたことの裏返しだろう、ライナの父は無事の知らせに毒づくと、夫婦の寝室へと入って行った。一方その妻は暖炉の火にかけられて湯気を上げていたヤカンを火から外し、そのお湯で紅茶を淹れてくれる。

 アイク島にはこの暖房と湯沸かしと加湿を兼ねる発想は無く、この家で初めてその様子を見たルーチェはいたく感動したものだ。油断するとヤカンを焦がしてしまうが、是非アイク島にも導入したいと思っている。

「さぁ、ルーチェさん、どうぞ」

 ライナの母がれてくれた紅茶を行儀悪く音を立ててすする。ロギュートフさんがこの場に居たら叱られてしまうな、と思うけども淹れたての紅茶は熱いのだから仕方ない。政庁舎で出される物に比べれば遥かに安物の茶葉は香りも味も格段に劣るけど、お腹からじんわりと温めてくれて心地良いし、夫人の心遣いがとても嬉しい。

「お父さんはどうして直ぐに帰ってこないの?」

「どうして〜?」

「軍隊みたいにいっぱいの人が集まっていると、簡単には動けないんだって」

 一刻も早く父に会いたいだろうミーネロートと兄を真似するシュワライムに簡単に説明する。

「そうね、お父さんが帰ってくるのは明日の朝になるかもしれないわ、あなた達はもう眠ってしまいなさい」

 確かに冬の事ゆえいささか早い時間だが、ルーチェが政庁舎を出た頃には大きく傾いていた太陽は地平線の下に隠れている。しかし本音のところは来訪した時の顔付きで、まだルーチェが口にしていない凶報を察したライナは子供たちに説明させたくないのだろう。

 しかし無事だと知らされても実際に父に会いたいのだろう、二人の子供は素直にはうなずかない。ミーネロートはまだしもシュワライムには本当に辛い時間帯だろうに、まだ粘るつもりらしい。

「わがまま言うもんじゃないよ。どれ、婆ちゃんが物語をしてやろう」

 ライナの母がむずがる二人を促して寝室に連れて行く。渋々頷いた少年たちは何度もドアの方を見やりながら、それでもテーブルを立った。子供たちの様子が、ルーチェにとって今まではただレオンハルトが敬意を払っている男とだけ思っていたサーマイヤーフを、あの二人の父親なのだと意識させた。

 そしてその認識はずっと揺れ動いているルーチェの心の天秤を一方向に少しだけ傾けた。

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