レテンド大陸興亡記

嶺月

序章

序章

 まだ水平線の下に隠れている太陽がわずかに輝きの恩恵を東の空に届け、浮かぶ雲が紅に染まる空に、早起きな海鳥が元気よく鳴き交わす。鳥たちの輪舞の下には桟橋さんばしがゆったりと数基配置された砂浜が広がる。

 桟橋の殆どには大きくても五人も乗ればやっとという小舟が鈴生りに連なっている。ところが南向きに開かれた砂浜の一番左端の桟橋は明らかに特別製で、他より一回り大きなそれには他の船が単なる木片か何かのように思える程の、しかも金属製の巨船がつながれている。船は三本の帆柱を持ち、広い甲板のそこここに木箱が積まれている。奇異なのは舳先へさきの喫水線の下にまるで潜り戸のような板が波に合わせて揺らめいている事だ。


 巨船の繋がれた桟橋の前には五十人ほどの人間が列をなし、それを大きく離れて無数の人間が輪になって取り巻いている。列の前には鮮やかな金髪の少し小柄な青年と、赤毛の中背だが筋肉質の青年が向かい合っている。二人の青年の視線はわずかに色合いが異なるものの、相手に対する深い敬意が満ちていた。しばらく二人は無言で向かい合っていたが、太陽がとうとう地平線から顔をのぞかせて二人の顔を金色に染めると、それを合図にしたかのように赤毛の青年は片膝をついて深く頭を下げる。

 それを目にした金髪の青年は深くうなずくとゆっくりと彼らを見守る列を作る人間全員、否取り囲む群衆にまで響けと言わんばかりの朗々とした声を張り上げる。

「ではこれより、シムレー号艦長の任命式をアイク王18代目・ロシュエイミー8世の名において執り行う!」

 その宣言と同時に、隣の誰彼とささやき合っていた群衆が水を打ったように静まり返り、この場の主役と目される若者二人に視線が集中する。あまりに熱のこもった視線に、簡素だが仕立ての良い服を身にまとった赤毛の青年・レオンハルトは身を焦がされるような思いだが、この厳粛げんしゅくな式典に僅かな瑕疵かしも許すまいとの決意で耐え、王に対する最敬礼の姿勢のまま微動だにしない。この輝かしい舞台で得られる物は、単に勅命を授かるという騎士としての名誉だけでは無い。

 三年前のあの日、新天地を目指す少女と共に征くと決めた道程のまさに一里塚。この島のために尽くすという目的に向けて定められた道筋、いずれは資源が枯渇して衰退するという小さな孤島の宿命を切り払うための武器、大陸との交易路を開くための船を用意するという難題への回答。そして失敗すれば帰還もままならぬ航海に挑むことをがえんじてくれた‐それぞれに違う思惑は有れど‐勇敢な水夫たちの先頭に立っているという自覚。全ての想いが去来する中でレオンハルトは王の次の言葉を待つ。

「そも、此度こたびの壮挙はこの島の将来を憂えてのものである。アイク島はシペリュズ神の恩寵おんちょう深き安寧あんねいの島なれど、その版図は甚だ小さく大地の実りは常に乏しい。諸代の王は民の困窮こんきゅうを思うもその痛みを癒す術は長らく得られなかった。余、ロシュエイミーにおいても即位以前よりの懸念けねんではあれど答えはその内から出づる事はついぞ無かった。

 しかし先年、名高い賢者ディルの提言により、我らの始祖がかつて追われ、恒久に失ったと思われていた、大陸へ帰還する為の航路の探索と往来の任に耐え得る巨艦の建造という大案を余は起草した。これを形にする為の職人たちの不断の努力と、長期の航海に備える為の食料を確保する必要に基づく、例年を上回る税を受け入れてくれた島民の協力に余は深く感謝する。そしてこのアイク島全土が一丸となった計画が結実した事こそ、この壮大な計画がシペリュズ神のよみし給うた証であり、余自らがシムレー号と名付けたこの艦が遠くない未来に福音をアイク島にもたらすものと確信するものである」

 若き王が滔々とうとうと語るこのシムレー号の由来に、真の発案者であるルーチェの名が無いことにレオンハルトは少し胸を痛める。例えそれが年端もいかぬ、それも女の案と知れば要らぬ軋轢あつれきを生む事を懸念けねんした、ルーチェ本人から申し入れられたことだとしても。

 恐らくは航海で何らかの成果を上げることができれば、真実をつまびらかにする事も叶うだろうとレオンハルトは思う。既にルーチェが、建造計画の前提である大量の重力水入手という僥倖ぎょうこう以前から、舟や海に日常的に触れてきた漁民への舟に関する聞き取りを重ねていた為に、乗組員のほとんどは敢えて口にしないまでも、ディルではなくルーチェが発案者である事に気付いている節がある。それはこの大航海にディルが加わらず、代理の技術指導者としてルーチェが立ったことを信頼する効果が有るようだ。

「それではこの壮挙の実現を見守るために集ってくれた皆に、このシムレー号の艦長を務める騎士を紹介したい」

 ひと時ルーチェを想って、現実から遊離したレオンハルトの心を読んだかのようなロシュエイミーの言葉が引き戻す。ハッとしたレオンハルトは恐らくは今後の人生においても二度と得られぬだろう栄誉の場で醜態しゅうたいをさらさずに済んだ事を、信じてもいない神に感謝して主君の言葉へと再び集中する。

「アイク島開闢かいびゃく以来の名門、カシウス家当主ハインリヒ卿の長男であり、アイク島王宮騎士団政務局の新鋭にして余が最も信頼する家臣、レオンハルト・カシウス卿である!」

 ひときわ力強い若き王の言葉に合わせ、あらかじめ意を通じてあった騎士やその従者が歓声を上げ、その他の聴衆もその声に唱和してほんのひと時、まるでシペリュズ神をまつる祭事のような熱気にその場が包まれる。その熱気に後押しされるように顔を上げ、窮屈きゅうくつな片膝の姿勢から直立へと移行したレオンハルトは、ロシュエイミーが長い演説の小休止に息を整えているのを見て思わず頬をわずかに緩ませる。その小さな変化に気付いたロシュエイミーはとがめるように片眉を上げて見返してくる。

 最も信頼する、というのはこの場を盛り上げるための装飾語ではない。アイク島の歴史のほとんどを、象徴として君臨するに留まってきた王家の伝統を、前王が引退した後に即位した若き新王は塗り替えた。叛乱はんらんを起こした神殿勢力の刷新を図り、精力的に政務にも関与する事を選んだこの王にとって、叛乱はんらんを未然に防ぎ、また反動勢力の温床おんしょうであった政務局の中で、数少ない味方となったレオンハルトはまさに腹心の部下であり、同年代の親友でもあった。

 そのロシュエイミーにとって欠くべからざる人材は、今日この場限りでアイク島を去り、果たして帰ってくるかも判らない。だがその事について二人が話題にせたことは無かった。見習いの頃、ただ剣腕が立つだけだった若者は政務局内部の折衝せっしょうを通じて政治力を含む広範な判断力を身に付け、また技術指導を行うルーチェとの信頼関係も有り、レオンハルトは未知の航海の主導者として、また大陸にける王の代理人として適任だった。またルーチェの主張するいずれ訪れるだろう資源枯渇は、アイク島にとって深く憂慮ゆうりょすべき事態であり、航海には万全を期すためにも次善の策を採るという選択肢はあり得ない。そしてレオンハルトの胸の内には王への忠誠よりも、未だにルーチェへの恋とも呼べぬままの、しかし深い想いが宿っている事をロシュエイミーは知っていた。

 わずかな恐らくは最後の心を通わせた視線を交わし、二人の青年は再び儀式の主役へと戻る。

「レオンハルト・カシウス卿。そなたはこれより後、この艦の去就がアイク島全土の未来を担う事を常にわきまえ、乗組員を愛し慈しみ、航海の中で訪れる神の試練に果断かつ思慮深く対処することを誓うか?」

「誓います」

「ではこの航海で大陸への航路を発見できない事を己の任を果たせぬ不名誉であることを刻み、それでもその不名誉を甘受してでも艦の生命を全うする為にはあらゆる手段を取ることを誓うか?」

「誓います」

「よろしい、これでそなたの覚悟は示された。では儀仗兵、指揮杖をこれへ」

「はっ」

 ロシュエイミーの呼ぶ声に応えを返し、彼の背後で群衆に紛れるような位置で控えていた騎士が、金細工の鷹を杖頭にあしらった鈍色の杖を捧げ持って進み出て、王にうやうやしく差し出す。ロシュエイミーは杖を鷹揚おうような仕草で受け取り、それを一旦高くに掲げた後にレオンハルトに向けて差し出す。

「先の誓約を真実と認め、艦長の証たる杖を授ける。これよりはこの杖を余の代理と思い、常にその身に帯びて誓約の重さをその身に刻め」

つつしんで大任を拝命いたします」

 主君の、責任感を常に忘れずにいるようにという戒めと、いつでも自分を傍に感じて欲しいという秘めた友情を同時にせた想い。それを確かに受け取ったという意思を眼差しに込め、レオンハルトは差し出された杖を力強く握り締める。ただ重さを支えるにしては過剰な力のこもり具合に、レオンハルトの意思が伝わったのだろう。ロシュエイミーの若年ながらに統治者に相応しいと思わせる厳しさがほんのわずかに隠れたが、すぐに君主としての仮面を被り直し、式典を締めくくる言葉を紡ぎだす。

「この誓いにより、シムレー号は単なる鉄の塊ではなく、アイク島の未来を切り開く乙女にしてレオンハルト・カシウスの忠実な伴侶となった。集まった島民よ、淑女の婚姻に盛大な拍手を!」

 王の誘導に今度はサクラの扇動せんどうなしで、万雷の拍手と海鳥たちが泡を食って逃げ出す程の大歓声が巻き起こる。偉大な神を、アイク島の未来を、若き王を、そして誕生したばかりの英雄を、口々に称える観衆を見渡すと、ロシュエイミーは温情からの言葉を付け加える。

「早速乗組員たちに乗船を指示したい所だが、彼らにも愛すべき家族や親しき友との別れの時間が必要であろう。シムレー号の光輝ある船出は一時間後となる。それまで皆、この場に留まって出航を見届けるも、祈りを捧げるために神殿へ向かうも好きにせよ。また今日は祝いの日とし、王宮前の広場にてシムレー号の無事の航海を祈願する為の祝祭が開かれ、参加者には酒食が振舞われる。この日の為に、初めて生まれた村を離れた者も多かろう、楽しんでいくが良い」

 その言葉で儀礼が終わったのが判ったのだろう。列を組んで直立不動を保った乗組員も、儀式の場を一定の距離を保って取り囲んでいた群衆も、その規律を放棄ほうきし、ある者はその場に座り込んで緊張をほぐし、ある者は王の言葉に従って王都へと足を向けた。賑やかな眺めだが、レオンハルトにとって重要なのは自分を見送る為に、輪の中へと入って来る家族とカシウス家に仕える従者達だ。


「兄上!」

 真っ先に声をかけてきたのは弟のヨシュハルト。成長期に入ったようで日ごとに大きくなっているような気もするが、まだ頭一つ分程も上背の差が有り、顔立ちもあどけなさが抜けきらない。その目尻に光る物があるのを見て、思わず自分と同じ赤毛をくしゃくしゃとき回す。最近は子ども扱いされるのをいとうようになった少年も、今日ばかりは大人しく兄のやや乱暴な愛情表現に身を任せている。

「ヨシュハルト、不吉な顔をするな。兄は当然、無事に航海を終えて戻って来るつもりで居るのだからな」

「兄上…はい、兄上が吉報を携えて大陸から戻って来るのをお待ちしています!」

「そうだな。だが、カシウス家を継ぐのはお前の役目となる。父上からよく学び、義母上とミゼラリアをよく支えてくれ。デミストリ殿ともよく手を取り合って…ああ、こんな時に事務的な言葉ばかりが口を付くのは情けないな。もっと詩歌にも親しんでおけば良かった」

「いいえ、兄上。ちゃんと伝わっています。次にお会いできる時までに私も立派な騎士になり、父上が安心して家の中の事に専念できるようにしておきます」

 そう言ったヨシュハルトは右拳を左胸に当てる騎士の礼を取ってみせる。紅顔の少年の精一杯の背伸びに兄は少し笑って答えると、弟の後からゆっくりと歩いてくる母娘に目を向ける。

「義母上、ミゼラリア、それでは行ってまいります。長旅になるでしょうが、朗報を持ち帰る事をお約束します」

「全く旦那様といい貴方といい、殿方は功を上げる事ばかりに夢中になって。母はあなたが無事に戻ってくれればそれで良いのですよ」

「母上の仰る通りです。いくらルーチェさんといっても初めて船をお作りになったのだから、上手くいかなかった所だって有るでしょう。お兄様はひと月ほど海の上を散歩なさって、私達に旅の話を聞かせてくだされば良いのです」

「それはあまりにも不謹慎ふきんしんだ。その旅の間の食料は今年一年、民が作物でなくそこらの野草を混ぜたかゆを食べるような工夫をして、税として納めてくれた物なのだから。だが陛下も仰った通り、私にとって一番大事なのは、自分の名誉よりも何よりもシムレー号とその船員をこのアイク島に帰還させる事だ。ちゃんと帰ってくるとも」

「お兄様、約束してくださいますか?」

「約束する。使命を果たすという意味だけじゃない。私だって、もっとヨシュハルトが成長するのを見守りたいし、そうだな、いつだったかミゼラリアは見たことの無い物を見てみたいと言っていただろう。海に出てみなければ見られないものの話をしてやりたいよ」

「そんな事を申しましたかしら…でも、それはとっても楽しみです。デミストリ様との婚礼の儀に立ち会っていただくのは無理かもしれませんけど、きっとお兄様がお帰りになる頃には私にも初めての子ができているでしょう」

「ミゼラリアったら気の早い…でも婚礼と言えば、陛下はあなたの就任を船との結婚に例えていらしたけども、別に本当に他の娘と結婚していけないという訳ではないのでしょう?ルーチェさんとの関係はどうするの?」

「義母上まで宮廷雀のような事を…今回の旅では両者大きな責任を抱えているのだから、どうにかなりようも有りませんよ。それよりお二人とも、出航までまだ時間は有りますが、船員たちと打ち合わせておかねばならぬ事も有ります。そろそろ」

「まぁ、そうなの?名残惜しいけども…それでは最後は騎士の妻らしく見送りましょう。カシウス家の長男として恥じることの無いように、常に誇り高く、長として率いる者達を贔屓ひいきすることの無いように」

「お兄様、ご無事をいつもお祈りしております」

「兄上に後顧こうこうれいの無いよう、私も立派な騎士としてカシウス家のすえである自覚を持って、日々精進してまいります」

「三人ともありがとう、無事に戻ってくる事をお約束します。最後にこんな穏やかな時間が持てたことをとても嬉しく思います。それから…」

 レオンハルトは別れの挨拶をすると、三人との歓談の間にいつの間にか歩み寄ってきた壮年の男に目を向ける。カシウス家の当主、レオンハルトの父ハインリヒだ。レオンハルトが幼い日無条件の憧憬を向け、いつの頃からかそのいわおのような顔貌にどことはなしの恐れを抱くようになった男。未曾有みぞう叛乱はんらんを防いだあの日ならば、若くして王の側近へと成り上がったならば、他で換える事のできぬ勅命をいただいた今ならば、何度もそう思い、そして結局今も他の家族とは違いどこかで身構えてしまう、最も近くにいる筈のどこか遠い男。それでも決して嫌っているわけではない。せめてその事だけでも伝えたくてレオンハルトは笑顔を作る。

「父上、行ってまいります」

「うむ」

 一言で返されてしまい、先が続かない。ハインリヒはそっけない一言以上に何かを語る気配を見せず、このまま別れることになるかとレオンハルトが危惧すると、普段は二人の関係に口を挟まない義母がたしなめるように割って入る。

「旦那様」

「む、うむ。レオンハルト…」

「はい、父上」

「お前が見習いの折、わしが旅の道筋を示し、お前が正しく進めるようにと教授したことが有った。今回はわしも、他の誰もお前の参考になるような事は出来ん。だが…」

 突然脈絡のない思い出話を始め、そして言いよどむハインリヒにレオンハルトはいぶかる。

「父上?」

「だが…行ってこい」

 結局何を言いたいのかもレオンハルトに理解できないような事を言うと、ハインリヒは背を向け歩み去ってしまう。戸惑うようにその背中とレオンハルトの顔を交互に見比べる三人の家族に、しかしレオンハルトは晴れやかな笑顔を返す。上手く言葉にはならなかったが、ハインリヒなりに前人未到の旅に挑むレオンハルトを激励げきれいしようとしたのだろうと感じて。

「義母上、ミゼラリア、ヨシュハルト、それでは今度こそ、行ってまいります。次に会う日まで壮健でいらっしゃいますように。シモンやパリヤ、それからアレン達にもよろしくお伝えください。父上には…レオンハルトは胸を張って旅立ったとお伝えください」

「お兄様、あれで良かったのですか?」

「勿論だ。父上の気持ちは伝わったとも。それでは、名残惜しいが本当にこれで。出航の折には船員総出で、陛下を先頭にした見送りを受ける事でしょう。ヨシュハルト、勉学は大切だが剣の稽古もしっかりとな」

「はい、兄上。行ってらっしゃいませ」

 放っておけばどこまでも続いてしまいそうな別れの言葉を胸の内に押し殺し、どうやらひと通り別れを済ませたらしい船員たちを呼び集めてシムレー号へと乗船する。もちろん乗員全てがこの短期間で満足いく別れを終えた訳では無い。むしろ中核に位置する船員ほどよわいを重ね、多くの者と絆をつないでいる。だが問題は無い。シムレー号建造と並行して、この巨艦を操るための訓練は皆が充分に重ねており、欠員が有ったとしても艦の点検はおろか、操船することすら不可能ではない。


「それでは出航前の最後の点検を行う。各自第一通常航行時の割り当てに従って、配置に当たる部分に異常が無いかを確かめてくれ。ただし重力水式浮揚板については技術監督官殿の立会いの下、改めて行うので今は手を触れないように」

「わかりやした。しかしお頭、今更技じゅ、なんとかは無いんじゃありやせんか?お頭たちがいい仲だってこたぁ皆知ってる訳で」

「な、何を…?違う違う!親しいのは確かだが、私たちはそんな仲ではない!戯言ざれごとを言ってないで作業にかかれ!」

「へいへい、それじゃ行って来やす」

「ああ、カイトは残ってくれ。今日の天候について相談しておきたい」

「わかりやした。ところでお嬢…ぎじゅ、ええと」

「それで判り易いと言うのならルーチェで構わないよ。彼女なら既に航海室に入っているはずだ」

 三々五々散っていく水夫たちを見送り、レオンハルトはカイトと呼んだこの場では最も経験豊富な船員を伴って、ルーチェの待つ航海室-巨大な艦の各所に通じる伝声管を始めとする設備の有るシムレー号の心臓部-へ向かった。


「ルーチェ、待たせたな。早速だが、カイトも一緒に来ているので今日の進路について打ち合わせたい。」

「本当に待ったよ。まぁ今日は船出の儀式があったからしょうがないけど。じゃぁ甲板に出ようか。出航してしばらくはとにかく南に向かいたいから、カイトさん、雲の様子とかよく調べてね」

「わかりやした、お嬢」

 航海室に入ると、三年前と変わらず年頃の娘とも思えぬ短い金髪の少女は、椅子に腰かけてはしたなく足をぶらぶらと揺らしていた。レオンハルトが入ってすぐ声をかけると、ここはもう自分の城だからと言わんばかりの調子でレオンハルトに文句を付けてくる。もっとも彼女にしてみれば親しみを込めたからかいの一種だったようで、そのまま立ち上がるとレオンハルトとカイトを引き連れて甲板に出ていく。

 嵐の時に甲板に出る必要が無いよう、航海室はガラス職人が腕を振るった透明な窓が全方位を見渡せるよう作られているが、肌で空気を感じた方が正確な予測が立つ。三人で並んで前甲板に出ると、前方の帆柱と帆布を確認していたらしい船員が軽く会釈してくるのでそれに応え、舳先へさきに一番近い柵を握って南方の空を見やる。

「雲はいくつか浮かんでいるが、海の上ならこんなものだろう、と思うがどうだろう?」

 レオンハルトがカイトを見ると、カイトは何やら耳元に手をやっている。

「どうした?何か聞こえるのか?」

「いやいや、うまく言えないんでやすが、天気が大崩れする前触れに耳鳴りがすることがありやして、そっちの具合を確かめてやした。確かに大丈夫だと思いやす。小さな雲の下に海鳥らしい影も見えやすし。二、三日は真っ直ぐ進んで行けると思いやすぜ。風も良い具合でさぁ」

「それは嬉しいな。出発してしばらくは舵や浮揚板は作動を確認するだけにして、使わないで進みたいもんね」

「確かに有り難い。陛下の言葉ではないが、シペリュズ神の恩寵おんちょうに感謝せねばな」

「レオンハルトが神様の名前を出すなんて不吉よ。やめてちょうだい。じゃぁカイトさん、あたしはもうちょっとレオンハルトと相談していくから、みんなの監督よろしくね」

「承知しやした。それじゃ、あっしはこれで」

 カイトは頷くと船内に入っていくが、レオンハルトは小首を傾げる。

「何かまだ決めておきたい事が有るのか?正直に言って私たちは素人だ。何か決断の時はしばらくはカイトの助言を仰ぎたいのだけど」

「もう、違うわよ。ただの口実。しばらく一緒にこれから進む先を眺めたくって」

「あ、ああ。なるほど。うん」

 この三年でレオンハルトとルーチェの関係も少しずつ変化している。レオンハルトはルーチェを、ただかつての兄妹のような親愛の念だけではなく、島の先を見据える賢人への敬愛から年齢を越えて対等に扱うようになった。そして少しずつ朗らかな少女というだけではなく、女としても成長していくルーチェを意識するようになったのが始まり。ルーチェは重力水の研究以外の事はなるべく考えない様にしていたものの、それ以前から親しかったレオンハルトが微妙な距離感を、手探りで近付けようとするのは意識せざるを得ず、結局二人は少しずつただの同盟者ではなく、周りがもどかしくなるような遅々たる歩みながら、男女の形を取るようになっていた。

「これから、か…」

「何?」

「いや、うん。私はようやく此処ここまで来た、という気持ちで一杯だったが、君はもう前を見ているんだなぁと思って」

「あたしだって感慨かんがいはあるわよ。でも今日がようやく船出なんだからね」

「そうだね。どんな幸運に恵まれたとしてもこれは苦難の旅路になる」

「ええ。かつて大陸を脱出するときの船団は、その時の首都を丸々輸送する程の規模だったと文献に有ったわ。それが嵐や難所を越えるたびに数を減らしていって、アイク島にたどり着いた時はまずは皆漁でなんとか暮らしながら、少しずつ島の地形を把握するのが精一杯って位まで減っていたそうだもの」

「明らかな危険が有れば後戻りする事ができる私たちも、甘い気持ちではいけないな」

「そうね。でも越えてみせるわ。あたしも、レオンハルトもいる。大陸へ帰るって気持ちは今でも変わってない。あの頃は絵空事だと笑っていた人たちも、今は本気で応援してくれているんだもの。成し遂げてみせるわ」

 そういうとルーチェは柵を強く握り締める。柵が有るとはいえ、あまり舟縁ふなべりに寄るのは危ないと引き戻そうとするレオンハルトの手を無視して、ルーチェは大きく息を吸い込む。

「待ってなさいよ~!」


 どんな困難も乗り越えて目的地へ辿り着いてみせるという、それは宣言だった。

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