レテンド大陸興亡記
嶺月
序章
序章
まだ水平線の下に隠れている太陽がわずかに輝きの恩恵を東の空に届け、浮かぶ雲が紅に染まる空に、早起きな海鳥が元気よく鳴き交わす。鳥たちの輪舞の下には
桟橋の殆どには大きくても五人も乗ればやっとという小舟が鈴生りに連なっている。ところが南向きに開かれた砂浜の一番左端の桟橋は明らかに特別製で、他より一回り大きなそれには他の船が単なる木片か何かのように思える程の、しかも金属製の巨船が
巨船の繋がれた桟橋の前には五十人ほどの人間が列をなし、それを大きく離れて無数の人間が輪になって取り巻いている。列の前には鮮やかな金髪の少し小柄な青年と、赤毛の中背だが筋肉質の青年が向かい合っている。二人の青年の視線はわずかに色合いが異なるものの、相手に対する深い敬意が満ちていた。しばらく二人は無言で向かい合っていたが、太陽がとうとう地平線から顔を
それを目にした金髪の青年は深く
「ではこれより、シムレー号艦長の任命式をアイク王18代目・ロシュエイミー8世の名において執り行う!」
その宣言と同時に、隣の誰彼と
三年前のあの日、新天地を目指す少女と共に征くと決めた道程のまさに一里塚。この島のために尽くすという目的に向けて定められた道筋、いずれは資源が枯渇して衰退するという小さな孤島の宿命を切り払うための武器、大陸との交易路を開くための船を用意するという難題への回答。そして失敗すれば帰還もままならぬ航海に挑むことを
「そも、
しかし先年、名高い賢者ディルの提言により、我らの始祖がかつて追われ、恒久に失ったと思われていた、大陸へ帰還する為の航路の探索と往来の任に耐え得る巨艦の建造という大案を余は起草した。これを形にする為の職人たちの不断の努力と、長期の航海に備える為の食料を確保する必要に基づく、例年を上回る税を受け入れてくれた島民の協力に余は深く感謝する。そしてこのアイク島全土が一丸となった計画が結実した事こそ、この壮大な計画がシペリュズ神の
若き王が
恐らくは航海で何らかの成果を上げることができれば、真実をつまびらかにする事も叶うだろうとレオンハルトは思う。既にルーチェが、建造計画の前提である大量の重力水入手という
「それではこの壮挙の実現を見守るために集ってくれた皆に、このシムレー号の艦長を務める騎士を紹介したい」
ひと時ルーチェを想って、現実から遊離したレオンハルトの心を読んだかのようなロシュエイミーの言葉が引き戻す。ハッとしたレオンハルトは恐らくは今後の人生においても二度と得られぬだろう栄誉の場で
「アイク島
ひときわ力強い若き王の言葉に合わせ、
最も信頼する、というのはこの場を盛り上げるための装飾語ではない。アイク島の歴史の
そのロシュエイミーにとって欠くべからざる人材は、今日この場限りでアイク島を去り、果たして帰ってくるかも判らない。だがその事について二人が話題に
「レオンハルト・カシウス卿。そなたはこれより後、この艦の去就がアイク島全土の未来を担う事を常に
「誓います」
「ではこの航海で大陸への航路を発見できない事を己の任を果たせぬ不名誉であることを刻み、それでもその不名誉を甘受してでも艦の生命を全うする為にはあらゆる手段を取ることを誓うか?」
「誓います」
「よろしい、これでそなたの覚悟は示された。では儀仗兵、指揮杖をこれへ」
「はっ」
ロシュエイミーの呼ぶ声に応えを返し、彼の背後で群衆に紛れるような位置で控えていた騎士が、金細工の鷹を杖頭にあしらった鈍色の杖を捧げ持って進み出て、王に
「先の誓約を真実と認め、艦長の証たる杖を授ける。これよりはこの杖を余の代理と思い、常にその身に帯びて誓約の重さをその身に刻め」
「
主君の、責任感を常に忘れずにいるようにという戒めと、いつでも自分を傍に感じて欲しいという秘めた友情を同時に
「この誓いにより、シムレー号は単なる鉄の塊ではなく、アイク島の未来を切り開く乙女にしてレオンハルト・カシウスの忠実な伴侶となった。集まった島民よ、淑女の婚姻に盛大な拍手を!」
王の誘導に今度はサクラの
「早速乗組員たちに乗船を指示したい所だが、彼らにも愛すべき家族や親しき友との別れの時間が必要であろう。シムレー号の光輝ある船出は一時間後となる。それまで皆、この場に留まって出航を見届けるも、祈りを捧げるために神殿へ向かうも好きにせよ。また今日は祝いの日とし、王宮前の広場にてシムレー号の無事の航海を祈願する為の祝祭が開かれ、参加者には酒食が振舞われる。この日の為に、初めて生まれた村を離れた者も多かろう、楽しんでいくが良い」
その言葉で儀礼が終わったのが判ったのだろう。列を組んで直立不動を保った乗組員も、儀式の場を一定の距離を保って取り囲んでいた群衆も、その規律を
「兄上!」
真っ先に声をかけてきたのは弟のヨシュハルト。成長期に入ったようで日ごとに大きくなっているような気もするが、まだ頭一つ分程も上背の差が有り、顔立ちもあどけなさが抜けきらない。その目尻に光る物があるのを見て、思わず自分と同じ赤毛をくしゃくしゃと
「ヨシュハルト、不吉な顔をするな。兄は当然、無事に航海を終えて戻って来るつもりで居るのだからな」
「兄上…はい、兄上が吉報を携えて大陸から戻って来るのをお待ちしています!」
「そうだな。だが、カシウス家を継ぐのはお前の役目となる。父上からよく学び、義母上とミゼラリアをよく支えてくれ。デミストリ殿ともよく手を取り合って…ああ、こんな時に事務的な言葉ばかりが口を付くのは情けないな。もっと詩歌にも親しんでおけば良かった」
「いいえ、兄上。ちゃんと伝わっています。次にお会いできる時までに私も立派な騎士になり、父上が安心して家の中の事に専念できるようにしておきます」
そう言ったヨシュハルトは右拳を左胸に当てる騎士の礼を取ってみせる。紅顔の少年の精一杯の背伸びに兄は少し笑って答えると、弟の後からゆっくりと歩いてくる母娘に目を向ける。
「義母上、ミゼラリア、それでは行ってまいります。長旅になるでしょうが、朗報を持ち帰る事をお約束します」
「全く旦那様といい貴方といい、殿方は功を上げる事ばかりに夢中になって。母はあなたが無事に戻ってくれればそれで良いのですよ」
「母上の仰る通りです。いくらルーチェさんといっても初めて船をお作りになったのだから、上手くいかなかった所だって有るでしょう。お兄様はひと月ほど海の上を散歩なさって、私達に旅の話を聞かせてくだされば良いのです」
「それはあまりにも
「お兄様、約束してくださいますか?」
「約束する。使命を果たすという意味だけじゃない。私だって、もっとヨシュハルトが成長するのを見守りたいし、そうだな、いつだったかミゼラリアは見たことの無い物を見てみたいと言っていただろう。海に出てみなければ見られないものの話をしてやりたいよ」
「そんな事を申しましたかしら…でも、それはとっても楽しみです。デミストリ様との婚礼の儀に立ち会っていただくのは無理かもしれませんけど、きっとお兄様がお帰りになる頃には私にも初めての子ができているでしょう」
「ミゼラリアったら気の早い…でも婚礼と言えば、陛下はあなたの就任を船との結婚に例えていらしたけども、別に本当に他の娘と結婚していけないという訳ではないのでしょう?ルーチェさんとの関係はどうするの?」
「義母上まで宮廷雀のような事を…今回の旅では両者大きな責任を抱えているのだから、どうにかなりようも有りませんよ。それよりお二人とも、出航までまだ時間は有りますが、船員たちと打ち合わせておかねばならぬ事も有ります。そろそろ」
「まぁ、そうなの?名残惜しいけども…それでは最後は騎士の妻らしく見送りましょう。カシウス家の長男として恥じることの無いように、常に誇り高く、長として率いる者達を
「お兄様、ご無事をいつもお祈りしております」
「兄上に
「三人ともありがとう、無事に戻ってくる事をお約束します。最後にこんな穏やかな時間が持てたことをとても嬉しく思います。それから…」
レオンハルトは別れの挨拶をすると、三人との歓談の間にいつの間にか歩み寄ってきた壮年の男に目を向ける。カシウス家の当主、レオンハルトの父ハインリヒだ。レオンハルトが幼い日無条件の憧憬を向け、いつの頃からかその
「父上、行ってまいります」
「うむ」
一言で返されてしまい、先が続かない。ハインリヒはそっけない一言以上に何かを語る気配を見せず、このまま別れることになるかとレオンハルトが危惧すると、普段は二人の関係に口を挟まない義母が
「旦那様」
「む、うむ。レオンハルト…」
「はい、父上」
「お前が見習いの折、わしが旅の道筋を示し、お前が正しく進めるようにと教授したことが有った。今回はわしも、他の誰もお前の参考になるような事は出来ん。だが…」
突然脈絡のない思い出話を始め、そして言い
「父上?」
「だが…行ってこい」
結局何を言いたいのかもレオンハルトに理解できないような事を言うと、ハインリヒは背を向け歩み去ってしまう。戸惑うようにその背中とレオンハルトの顔を交互に見比べる三人の家族に、しかしレオンハルトは晴れやかな笑顔を返す。上手く言葉にはならなかったが、ハインリヒなりに前人未到の旅に挑むレオンハルトを
「義母上、ミゼラリア、ヨシュハルト、それでは今度こそ、行ってまいります。次に会う日まで壮健でいらっしゃいますように。シモンやパリヤ、それからアレン達にもよろしくお伝えください。父上には…レオンハルトは胸を張って旅立ったとお伝えください」
「お兄様、あれで良かったのですか?」
「勿論だ。父上の気持ちは伝わったとも。それでは、名残惜しいが本当にこれで。出航の折には船員総出で、陛下を先頭にした見送りを受ける事でしょう。ヨシュハルト、勉学は大切だが剣の稽古もしっかりとな」
「はい、兄上。行ってらっしゃいませ」
放っておけばどこまでも続いてしまいそうな別れの言葉を胸の内に押し殺し、どうやらひと通り別れを済ませたらしい船員たちを呼び集めてシムレー号へと乗船する。もちろん乗員全てがこの短期間で満足いく別れを終えた訳では無い。むしろ中核に位置する船員ほど
「それでは出航前の最後の点検を行う。各自第一通常航行時の割り当てに従って、配置に当たる部分に異常が無いかを確かめてくれ。ただし重力水式浮揚板については技術監督官殿の立会いの下、改めて行うので今は手を触れないように」
「わかりやした。しかしお頭、今更技じゅ、なんとかは無いんじゃありやせんか?お頭たちがいい仲だってこたぁ皆知ってる訳で」
「な、何を…?違う違う!親しいのは確かだが、私たちはそんな仲ではない!
「へいへい、それじゃ行って来やす」
「ああ、カイトは残ってくれ。今日の天候について相談しておきたい」
「わかりやした。ところでお嬢…ぎじゅ、ええと」
「それで判り易いと言うのならルーチェで構わないよ。彼女なら既に航海室に入っている
三々五々散っていく水夫たちを見送り、レオンハルトはカイトと呼んだこの場では最も経験豊富な船員を伴って、ルーチェの待つ航海室-巨大な艦の各所に通じる伝声管を始めとする設備の有るシムレー号の心臓部-へ向かった。
「ルーチェ、待たせたな。早速だが、カイトも一緒に来ているので今日の進路について打ち合わせたい。」
「本当に待ったよ。まぁ今日は船出の儀式があったからしょうがないけど。じゃぁ甲板に出ようか。出航してしばらくはとにかく南に向かいたいから、カイトさん、雲の様子とかよく調べてね」
「わかりやした、お嬢」
航海室に入ると、三年前と変わらず年頃の娘とも思えぬ短い金髪の少女は、椅子に腰かけてはしたなく足をぶらぶらと揺らしていた。レオンハルトが入ってすぐ声をかけると、ここはもう自分の城だからと言わんばかりの調子でレオンハルトに文句を付けてくる。もっとも彼女にしてみれば親しみを込めたからかいの一種だったようで、そのまま立ち上がるとレオンハルトとカイトを引き連れて甲板に出ていく。
嵐の時に甲板に出る必要が無いよう、航海室はガラス職人が腕を振るった透明な窓が全方位を見渡せるよう作られているが、肌で空気を感じた方が正確な予測が立つ。三人で並んで前甲板に出ると、前方の帆柱と帆布を確認していたらしい船員が軽く会釈してくるのでそれに応え、
「雲はいくつか浮かんでいるが、海の上ならこんなものだろう、と思うがどうだろう?」
レオンハルトがカイトを見ると、カイトは何やら耳元に手をやっている。
「どうした?何か聞こえるのか?」
「いやいや、うまく言えないんでやすが、天気が大崩れする前触れに耳鳴りがすることがありやして、そっちの具合を確かめてやした。確かに大丈夫だと思いやす。小さな雲の下に海鳥らしい影も見えやすし。二、三日は真っ直ぐ進んで行けると思いやすぜ。風も良い具合でさぁ」
「それは嬉しいな。出発してしばらくは舵や浮揚板は作動を確認するだけにして、使わないで進みたいもんね」
「確かに有り難い。陛下の言葉ではないが、シペリュズ神の
「レオンハルトが神様の名前を出すなんて不吉よ。やめてちょうだい。じゃぁカイトさん、あたしはもうちょっとレオンハルトと相談していくから、みんなの監督よろしくね」
「承知しやした。それじゃ、あっしはこれで」
カイトは頷くと船内に入っていくが、レオンハルトは小首を傾げる。
「何かまだ決めておきたい事が有るのか?正直に言って私たちは素人だ。何か決断の時はしばらくはカイトの助言を仰ぎたいのだけど」
「もう、違うわよ。ただの口実。しばらく一緒にこれから進む先を眺めたくって」
「あ、ああ。なるほど。うん」
この三年でレオンハルトとルーチェの関係も少しずつ変化している。レオンハルトはルーチェを、ただかつての兄妹のような親愛の念だけではなく、島の先を見据える賢人への敬愛から年齢を越えて対等に扱うようになった。そして少しずつ朗らかな少女というだけではなく、女としても成長していくルーチェを意識するようになったのが始まり。ルーチェは重力水の研究以外の事はなるべく考えない様にしていたものの、それ以前から親しかったレオンハルトが微妙な距離感を、手探りで近付けようとするのは意識せざるを得ず、結局二人は少しずつただの同盟者ではなく、周りがもどかしくなるような遅々たる歩みながら、男女の形を取るようになっていた。
「これから、か…」
「何?」
「いや、うん。私はようやく
「あたしだって
「そうだね。どんな幸運に恵まれたとしてもこれは苦難の旅路になる」
「ええ。かつて大陸を脱出するときの船団は、その時の首都を丸々輸送する程の規模だったと文献に有ったわ。それが嵐や難所を越えるたびに数を減らしていって、アイク島にたどり着いた時はまずは皆漁でなんとか暮らしながら、少しずつ島の地形を把握するのが精一杯って位まで減っていたそうだもの」
「明らかな危険が有れば後戻りする事ができる私たちも、甘い気持ちではいけないな」
「そうね。でも越えてみせるわ。あたしも、レオンハルトもいる。大陸へ帰るって気持ちは今でも変わってない。あの頃は絵空事だと笑っていた人たちも、今は本気で応援してくれているんだもの。成し遂げてみせるわ」
そういうとルーチェは柵を強く握り締める。柵が有るとはいえ、あまり
「待ってなさいよ~!」
どんな困難も乗り越えて目的地へ辿り着いてみせるという、それは宣言だった。
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