第31話 選んだ未来

 すでに足元すらおぼつかないほど暗くなってしまった通路を駆け抜け、アイリーンが一人でようやく抜けられた瓦礫の山はジェラルドの蹴りでなんとか成人男性が通り抜けられるくらいに広げて、二人そろって突破する。


「これはひどいな」


 アイリーンが踏み込んだ時よりもさらに炎は広まり、宮殿内部は熱風と煙、飛び散った瓦礫で足の踏み場もないほどだ。外からは消火に当たる人々の声がするが、建物内部にはすでに人気がない。外で燃え盛る炎が屋内を照らし、建物が焼ける音、崩れる音が断続的に聞こえる

 謁見の間の前を通りかかる。豪華な謁見の間の扉は開いているが、内部は薄暗くてよく見えない。


「結局、皇帝陛下に謁見することはなかったな……」

「そうだな。――ここまで来れば出口まであと少しだ。とりあえず中央軍の司令部に行こう。通りを挟んだ宮殿の向かい側にあるんだ」

「うん」


 そう言って二人して駆け出そうとした時だった。発砲音が響き、ジェラルドが腕を押さえる。

 はっとなってアイリーンは振り返った。ジェラルドがアイリーンを自身の体の後ろに押しやる。


「追いやっても追いやっても余の前に姿を現すのだな、ウォルド……!」


 謁見の間の中から、ゆらりと一人の男が現れた。妙に威圧感がある背の高い男の手には小銃。竜の国を訪れたヴァスハディア帝国の兵士たちが構えていたものと同じものに見えた。

 若くはない。年のころは、五十をいくつか超えているだろうか。立派な体躯をしているので、おそらく実年齢よりはずっと若く見える。そして驚くほどジェラルドに似ていた。


「ウォルド……?」


 不思議そうに呟いてジェラルドを見やったアイリーンに、


「俺の伯父の名前だ。ずいぶん前に父によって謀殺されている」


 ジェラルドが老齢の男性から目を離さないまま呟く。

 父。アイリーンは再びその男に視線を戻した。

 この人がもしかして、この国の皇帝? ジェラルドの父親でもある人?

 だとしたら六十近い人ではあるが、アイリーンの知る六十歳とはずいぶん雰囲気が違う。

 若々しいが、荒んでいる。満たされた人生を送っていないことがわかる。――皇帝なのに?


「おまえが連れているということは、それが竜神の花嫁か。探す手間が省けたぞ。その娘をこちらに寄越せば、今度は命だけは助けてやろう」

「断る」


 間髪容れずジェラルドが言う。

 刹那、皇帝が小銃を構えたので、アイリーンはジェラルドに後ろから体当たりして突き飛ばした。

 大きな衝撃が左の脇腹に走る。


「アイリーン!」


 撃たれたということはわかった。反動で床に倒れ込む。駆け寄ろうとするジェラルドに手のひらを上げて制止し、アイリーンは意図をもって皇帝を指さした。


「……丸腰の人間に卑怯よ……! それでもこの国の皇帝なの!?」


 痛みのあまり息ができない。アイリーンは脂汗を浮かべながら、左の脇腹を押さえつつ上半身を起こす。

 血があふれて広がり、押さえる指の隙間からもれて床に血だまりを作るのがわかる。


「卑怯? 綺麗事などほざいておったら、皇帝の座などには就けぬ。竜神の花嫁よ、不老不死になるというその血を余に与えよ。そうすれば余はそなたに皇后の座を与える。皇后の故郷たる竜の国は我が帝国の特区として、永遠の安泰を約束しよう」

「僕の血が欲しいなら、そっちから出向いて来い! 見ろ、僕は大けがをしてここから動けない!」


 アイリーンは床に広がる自らの血を手のひらになすりつけ、皇帝に見えるように掲げた。


「ほら、早くしないと血が全部床にこぼれてしまうよ……それとも、死体の血をすする? ヴァスハディア帝国の皇帝ともあろう人が、死んだ人間の血をすするなんてね……どんな残忍な人間も、そこまではしないよね。人の欲とはおそろしいものだね」

「……たわけたことを。血さえ手に入れば蛮族の娘など不要! その場で撃ち殺してくれる」


 皇帝がこちらに向かって歩き出す。


「言ってることが矛盾だらけ。僕を撃ち殺すほど蔑んでいるのに、竜の国を特区にしてくれるわけ? あなたがどんなに偉くても、僕たちには関係ない。竜の国の行く末は、竜族が決める……僕たちは、誰の指図も受けない」


 アイリーンは苦しい息の下で、皇帝を睨みつけた。うまく呼吸ができないから、思うように声が出ない。


「では竜の国はどうなってもいいというのだな?」

「どのみち僕たちを生かす気なんてないくせに……! 欲の塊のあなたが、竜の国を生かすつもりがないことなんてわかりきってることじゃない! あなたになんか渡さない! 竜の国の未来を託したりなんてしない!」


 アイリーンは出来る限り大きな声で叫んだ。


「小癪な!」


 皇帝が再び小銃を構える。

 アイリーンは皇帝から目を背けなかった。

 次の瞬間、皇帝の体が横に吹っ飛んだ。手にしていた小銃が乾いた音を立てて転がっていく。


 アイリーンが皇帝の注意を引き付けている間に、ジェラルドがゆっくりと皇帝の背後に回っていたのだ。アイリーンが皇帝を指さした意図を、ジェラルドはきちんと読み取ってくれた。そのジェラルドの痛烈な蹴りが入るのを、アイリーンは床に右手をつき、左手で撃たれた部分を押さえながら見つめていた。

 ジェラルドは倒れ込んだ皇帝のみぞおちに、容赦なくもう一撃を食らわせる。


「……実の親に容赦ないね、ジェラルド」


「アイリーンの痛みに比べたらたいしたことはない」


 皇帝の意識がなくなったことを確認したのち、ジェラルドは急いでアイリーンのもとに駆け付けてきた。


「触ったらだめ!」


 体に触れようとするジェラルドを、アイリーンは鋭い声で制止する。

 今まさにアイリーンの体に触れようとしていたジェラルドの動きがピタリと止まる。


「絶対に触ったらだめ……僕の血は毒だ。触った場所から真っ黒になって、ボロボロになってしまうから」

「……やはりレティシアは」

「見たの?」

「ああ……見た。皇帝との謁見中に、ヴァイス公爵がレティシアを連れて乱入してきたんだ。腕が真っ黒になって、ボロボロと崩れ落ちた」


 ジェラルドの答えに、アイリーンは目を伏せた。

 自分の異質さを見せ付けられて、つらい。


「だが、この傷は早く手当てしないと命に関わる。そなたは竜の国に戻らなくてはならないのだろう?」


 アイリーンの血の毒性を意に介する風もなく、ジェラルドが聞いてくる。


「……そうだけど」

「レティシアは、命までは奪われていなかった。俺の腕でアイリーンが救われるなら安いものと思うがな」

「だから……だめだってば……!」


 今度こそアイリーンの制止を振り切り、ジェラルドがアイリーンを抱き上げる。傷口からしたたる血がジェラルドの腕に伝わっていくのがわかる。

 ああどうしよう。レティシアの体はすぐに毒に冒されていった。指先でちょっと触っただけのレティシアであれほどの威力なら、これほどの血を浴びてしまったジェラルドはどうなってしまうのだろう。

 大好きなジェラルドの腕が失われるようなことになったら、死んでも死にきれない。


 ジェラルドが倒れた皇帝に背を向け、歩き出す。

 抱き上げられた時に、アイリーンはジェラルドも腕に銃創を負っていることに気が付いた。さっき皇帝に撃たれたところだ。黒い服を着ているからわかりにくいが、傷を負っているあたりがじっとりと濡れているのがわかる。けっこう大きな傷ではないか。それなのにこの人は、真っ先にアイリーンを案じて……毒だとわかっているのに、アイリーンをすぐに抱き上げてくれた。

 竜神の花嫁から祝福を与えられた者は、その生き血で不老不死を得るという。だが竜族の血は毒。矛盾している。「祝福」が鍵なんだと思う。それがわかればいいのに。


「皇帝陛下はどうするの」

「……外に誰かいるだろう。助けに行かせる」


 アイリーンの問いかけに、ジェラルドはにべもなく答える。それまでここは大丈夫だろうかと、ふとアイリーンが倒れたままの皇帝に目を向けたその時、皇帝が床を這って動いているのが見えた。なんと丈夫な体の持ち主だろうか。その皇帝の向かう先にはジェラルドが蹴り飛ばした小銃がある。


「ジ……ジェラルド、後ろ!」


 アイリーンが叫ぶのと皇帝が小銃をつかむのは同時だった。

 ジェラルドはいったん後ろを振り返り、皇帝のやろうとしていることがわかったのか、アイリーンを自身の体で庇うようにしゃがみ込む。

 大きな発砲音とともに、ジェラルドの体が大きく揺れる。アイリーンの頬に血しぶきが飛び散る。


「……ジェラルド……?」


 ジェラルドがアイリーンを抱えたまま、ゆっくりと床に片手をつく。

 生温かいものがアイリーンの体に降り注ぐ。それはじっとりとアイリーンを濡らし、染め上げていく。


「……けがは、ないか……?」


 ジェラルドが静かに問う。アイリーンは少しだけ体を離して、ジェラルドの体を見つめた。

 ジェラルドからこぼれるおびただしい血が、アイリーンを服越しに抱きしめる。弾は背中から胸にかけて貫通しているようだが、アイリーンには当たらなかった。かすりもしなかった。


「……うん、大丈夫。僕には、当たってない」

「そうか……よかった……」


 ジェラルドの気遣いが嬉しかった。最後の最後までこの人は……。アイリーンの藍色の瞳から、涙が次々と零れ落ちる。

 ジェラルドの体が傾き、アイリーンごと倒れ込む。

 ジェラルドが咳き込む。鮮血が飛び散る。胸元のけがは致命傷だ。ものを知らないアイリーンにすらわかる。アイリーンの傷どころではない。


「血を、よこせ……」


 ぜえぜえと息をしながら、皇帝がゆっくりと立ち上がり、倒れ込んでいる二人のもとへとやってくる。

 アイリーンはジェラルドを抱きしめたまま、涙に濡れた瞳で皇帝を見上げた。


「竜神の花嫁、不老不死になる血を余に」

「……いいよ。好きにしなよ……」


 皇帝がジェラルドの体を引きはがす。ジェラルドが苦しげに呻く。それから、血だらけになり身動きが取れなくなったアイリーンの傷口に手を差し込み、べったりとついた血のりを自らの口に持っていった。

 アイリーンはその様子をじっと見ていた。

 皇帝がアイリーンの血を舐める。ねっとりと指先を舐め回す様子を、アイリーンはじっと見つめていた。

 ほどなくして皇帝の顔がこわばる。口元から顔全体が真っ黒になっていく。


「なん……だ、これは……」


 顔から首、肩、そして腕へ……おそらく本人は何が起きているのかわからないままだっただろう。レティシアの時よりずっと色の変化が早かった。

 真っ黒になった皇帝だったモノが床に倒れ込み砕け散るのを、アイリーンはじっと見つめていた。

 そして皇帝が立っていたあたりに、ぼうっとふたつの赤い光が浮かんでいることに気が付いた。


『決めたか』


 赤い光が、アイリーンに問う。


『おまえの命が尽きる前に答えを出せ』

「……教えて、竜神。僕は本当に竜神の花嫁なの? 僕は、本当はあなたに嫁がなくちゃいけないの?」

『そうだ。おまえは、我が妻の魂を持つ者。そして竜族の行く末を決める者』

「あなたの妻の魂? 僕は……違う。僕は……ジェラルドの妻になるんだよ……」


 アイリーンは首を振った。


『人の魂を転生させると記憶を失うが、核となる部分は私の妻のものだ。おまえが誰を選ぼうと勝手だが、妻の魂を核に持つ限り、おまえが竜族の誰かに選ばれることはない。おまえは私のつがいだからだ。だが妻を送り出して千年余り、妻は一度も私に会いに来なかった――約束だ、答えを聞こう』

「……なんのこと……?」


 約束なんて覚えてないのに、答えを出せとは無茶すぎやしないか?


『妻と約束したのだ。我が子たちが私の力の助けなくして生きていけるようになるまで、私は子どもたちを見守ると。その判断を百年に一度生まれ変わる妻がすることになっていたのだ。そう約束した……だが今まで約束が果たされたことはない。私の声に応えたのはおまえだけだ、アイリーン』


 我が子というのは竜族のことか。

 竜の国の伝説では、確かに竜神は湖の底にいて竜族を見守っているということだった。

 でもそれは、定期的に継続するかどうか、誰かが――竜神の花嫁が――決めなければならないものだったのか。


『私の加護は必要か?』


 赤い双眸を持つ白銀の竜神が聞いてくる。

 当然……と言いかけて、アイリーンはジェラルドに目をやった。

 答えを出したら竜神はいなくなるかもしれない。その前に、ジェラルドを助ける方法を聞かなければ。


「僕の血で、ジェラルドを助けられる? 竜神の花嫁の血は、不老不死を与えると聞いているよ」

『そんな話は聞いたこともない。いくら私とて、世の理を捻じ曲げることは出来ぬ。だが、おまえを通じて私の力をすべて使えば、その者の命を救うことはできる』

「ジェラルドを助けて! お願い、なんでもするから! 僕にできることなら、なんでもするから……!」


 アイリーンは叫んだ。


『それが答えか』


 竜神が聞く。

 アイリーンは頷いた。


『私の力をすべて使うということは、私の加護はすべて消えるということ。竜の国を守る力だけではなく、おまえたちの体に流れる私の血の力もすべて消える』


 アイリーンは息を飲んだ。

 国を守る力だけでなく、血の力もすべて消える?

 もしそんなことになったら、竜の国は、竜族は、どうなってしまうの……?

 アイリーンはジェラルドを見つめた。

 顔は白く、呼吸をしているかどうかもわからない。おびただしい血が広がり、彼の命が尽きようとしているのは間違いない。

 このまま彼を見捨てるの……?


 ――できない……。


 アイリーンは涙に濡れた瞳を竜神に戻した。


「ジェラルドを助けて! 竜族は……加護がなくなってもすぐに死んだりしない。でもジェラルドはあなたの力がないと死んでしまう! それが叶うなら何もいらない。命だっていらない。僕の魂があなたの妻のものなら、あなたに僕の魂を返すから! だから、お願い……!」

『おまえは人を選ぶのだな』


 竜神が確認するように問う。

 アイリーンは頷いた。


『ではこれでお別れだ』


 竜神の双眸がひときわ輝く。

 アイリーンはその光に目を細めた。


『願いを込めて、その者に血の祝福を与えよ。その者がおまえの血に耐えられるのであれば、おまえの祝福を通じて、私の力を与える』

「血の祝福……?」


 それは、ジェラルドにアイリーンの血を与えろということか。

 竜族の血は竜族以外には猛毒。レティシアだって皇帝だって、アイリーンの血に毒されていく姿を見た。ジェラルドだけが特別なんて、あり得るの?

 アイリーンはジェラルドに目をやった。

 彼の指先は、肌の色をしている。黒くなっていない。ジェラルドの腕はアイリーンの血を浴びているにもかかわらず、だ。


 アイリーンは痛む体を一生懸命に動かしてジェラルドのもとへ這っていくと、傷口に手をやり、自らの血を指先に塗った。それをそっと、蒼白になっているジェラルドの唇をこじ開けて口の中に入れる。

 血に濡れた指先が、ジェラルドの舌に当たる。

 嚥下する動きはない。

 これでいいんだろうか。

 わからない。

 指先を離し、今度は自分の唇を押し当てる。かすかにぬくもりは残っているものの、唇はひんやりとしており、命の火が消えようとしているのがわかる。


 ――逝かないで。お願い。生きて……!


 ぽう……と、アイリーンの中に、白い光が生まれる。

 やがてその光はアイリーンからあふれ出し、アイリーンを、ジェラルドを包んだ。

 そしてそのまま光は強さを増していき、煙が充満する謁見の間の前のエリアを白く染め上げていく。

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