異世界から帰ったらなぜか魔法学院に入学。この際遠慮なく能力を発揮したろ
枕崎 削節
第1話 異世界から戻ってみれば…
日本の上空高度3万6千キロの静止軌道上を航行する光学監視衛星〔魔光1号〕、この人工衛星はこれまでの衛星とは一線を画す最新の魔法工学を用いた魔力監視システムを搭載して、はるか高度から日本各地に発生したダンジョンに魔力的な異常がないか人工的な監視の目を光らせている。
5年前から日本各地にダンジョンと呼ばれる謎の地下空間が発生し、時にはその空間から魔物と呼ばれる魔力を帯びた生命体が溢れ出して各地に被害を出した経験から、政府がダンジョンから発生する魔力を常に監視する必要に迫られた努力の結晶でもある。
そして令和6年7月のある日、魔光1号の宇宙からの監視網は首都近郊のとある場所に過去に観測された例のない膨大な魔力の発生を感知した。その魔力総量の桁はダンジョンが生じる際に発生する魔力の優に10倍に及ぶ、前例がない規模の想像を絶する魔力と推定される。
魔光1号が観測したデータは瞬時に政府と自衛隊中枢に送信される。そのデータは日本政府全体がパニックに陥るほどの激震をもたらすこととなる。
「総理、統合参謀本部から緊急連絡です」
「うむ、すぐに出よう」
瞬時に繋がれたテレビ映像のモニターには顔面蒼白となった統合参謀長の表情が映り込む。日頃から冷静沈着な自衛隊首脳と謳われた参謀長がこれだけ取り乱した様相を呈するのは只事ではないと、首相官邸全体にも緊張が走る。
「総理、魔光1号が観測した魔力の暫定的な解析値が判明しました。魔力の総量にして12億5千万に上ります」
「これまでダンジョン発生の際に観測された数値は?」
「4億と少々です」
「ということは、優にダンジョン3個を創り出す魔力が突如発生したんだな」
「その通りです」
「大至急魔力の観測地近辺を捜索して、ダンジョンの痕跡を必ず見つけ出してほしい。万一このような大規模なダンジョンの生成を見逃していたら、大変な被害を覚悟しなければならないだろう」
「了解いたしました。何か発見しましたら、いち早くご報告いたします」
こうして首相官邸は眠れぬ一夜を過ごすのだが、近辺を懸命に捜索した自衛隊の努力にも拘わらず、観測地周辺でのダンジョン発見の報告はいつまで待っても齎されることはなかった。
◇◇◇◇◇
その頃膨大な魔力が発生した中心地であるとある学校の屋上には、フラついた足取りの高校生と思しき男子と意識を失って倒れている女子の姿がある。
男子は年齢が16~17歳、やや長身で十人並みの顔立ちをしており、この学校の制服を着用している。女子は平均的な高校生よりもやや小柄な体格で、目を閉じてはいるもののそれでもはっきりとわかる色白で黒髪の美少女、着用しているのは男子と同様にこの学校の制服に間違いなさそう。
目眩でも起こしている様子であるが、男子生徒は片手に剣を構えながらフラフラする体を励ますがごとくに自らの頬を左手で張って気合を入れ直す様子が窺える。
「次元酔いだな。どうにも体に力が入らないぞ。気合いで乗り切るしかないか…」
独り言のように呟くこの生徒は、楢崎(ならざき)聡史(さとし)。まだ目覚めないで寝ているのは彼の双子の妹である楢崎(ならざき)桜(さくら)、共にこの高校に通学する高校1年生。
実はこの二人は高校入学直後に異世界に召喚されて、この日1か月ぶりに日本へ戻ってきた。衛星が観測した膨大な魔力は、この二人が地球に戻ってくる際の転移術式によって生じたものである。
転移をすると通常の人間は意識を失ってしばらく目を覚まさない。体が一時的に分解されて次元を通り抜けたのちに再構成される過程で生じる得も言えぬ気持ち悪さに人間の感覚が耐えられないのだ。
だが聡史は、気合と根性で意識を保ったまま次元を越えていた。しばらく体を休めたほうがいいとは重々承知ではあるが、彼にはノンビリと寝ていられない事情があった。その理由は直後に判明する。
聡史の周囲の空間に揺らぎが発生して、その揺らぎの内部から地球上には存在しない得体の知れない何者かが姿を現してくる。
「しつこい連中だな。日本まで追いかけてきやがったか」
フラつく体に鞭を打って剣を構える聡史。いまだに意識が戻らない桜を背後に庇って、絶対に守り抜く姿勢と気迫を見せている。
聡史の周囲の空間の揺らぎが収まると、その場に総勢8体のアークデーモンが登場する。実はこれらのアークデーモンは、つい今しがたまで聡史が異世界で剣を交えていた相手であった。ダンジョンと間違えて侵入した地下神殿で、聡史たちを足止めするために冥界神が遣わした配下の中でもかなり上級な存在。
冥界神はその名の通り、世界を構成する重要な神のひと柱である。その神自身が神殿に乱入した聡史たちに危機感を覚えて、二人を配下によって足止めする間に何とか転移の術式を作り上げて、アークデーモンごと日本へ送り返したのだ。
自らの手足であるアークデーモンごと転移せざるを得なかった冥界神の慌てぶりと、このような異世界での大騒動を引き起こした聡史と桜の兄妹の非常識な暴れっぷりをどうか理解してもらいたい。
「わざわざ日本まで来やがって。妹には指一本触れさせないぞ」
敵を目の前にして悲壮な決意を固める聡史、次々に迫りくるアークデーモンに魔剣オルバースを振り上げる。次の瞬間、目にも止まらぬ速さで剣を振り下ろすと、右手を伸ばして長い爪で聡史を引き裂こうとしたアークデーモンの腕がいともたやすく斬り落とされる。
「グエェェェ」
腕を切り落とされたアークデーモンは痛みに声を上げるが、いまだ致命傷は負っていない。聡史はその勢いのまま踏み込んで追撃で心臓に剣を突き立てると、今度は声にならない声を上げてアークデーモンの体は霧のように消え去っていく。
「先は長いな。まずは手始めの一体か」
聡史はなおも剣を振り上げて接近してくるアークデーモンを牽制する。体調は「絶」の文字が4つほど重なってもおかしくないほどの不調を訴えている。だがここで自分が折れてしまったら、意識が戻らない妹にまで想像したくない危機が訪れる。
動きの悪い体を必死に宥め透かして、時には活を入れながら剣を振るっていく。視界が霞み、敵が伸ばしてくる腕が二重に見えてくるが、だったら二本まとめて斬り捨ててやるとばかりに、剣の軌道を変えて振り下ろすと、また1体のアークデーモンが霧のように姿を消し去る。
このような無茶な戦い方ですでに3体を倒しているものの、聡史は体力ばかりが無駄に奪われていくのを感じている。そもそもアークデーモンは、ダンジョンの中ボスを務めてもおかしくはない強大な敵。地球でいえば悪魔の王サタンの直属の配下と同等の実力と評したらいいのかもしれない。
聡史が前方の3体に気を取られた一瞬のスキに残りの2体は素早く後方に回って、そのまま同時に聡史に襲い掛かる。気配に気づいた彼が左後方から迫る敵に剣を向けて斬り捨てるが、右後方から忍び寄るアークデーモンにはタイミング的に対処が間に合わない。
アークデーモンの長い爪が聡史に伸びていく。あと一息でその爪が聡史の心臓を貫く。聡史は視界の隅にその姿を捉えているものの、今から対処するには残された時間があまりに少なかった。
「クソッ! ここまでか…」
無念の思いが聡史を包む。せっかくこうして日本に戻ってきたにも拘らず、両親にも顔を見せないうちにこの場で命を落とす無念を… そして、意識を失っている妹を守れなかった慚愧の念を…
だが、その刹那…
ズドドガガーン
「ウギャァァァァァァ」
まるで爆発のような派手な音と長い尾を引く悲鳴を残しながら、アークデーモンの体は彼方へと飛んでいった。その体は空中でバラバラとなって霧のように消えていく。
何が起きたのか理解できない聡史が未だフラ付く頭をそちらに視線を向けると、そこにはオリハルコンの籠手を両手に装着した桜が立っている。
ニッコリした笑顔を聡史に向ける桜、その表情は月明かりに照らされて怪しいまでに美しく輝いている。
「お兄様は、相変わらず甘いですわ。時折右後方にスキを作る癖がまだ抜けきれませんのかしら?」
「桜、気が付いたのか。助かったぞ」
意識を取り戻した桜は瞬時に立ち上がって、後方から聡史に迫ろうとするアークデーモンを殴り飛ばしていた。
外見の美しさや丁寧な言葉使いに騙される人間が多いが、魔物を殴り飛ばすことに生き甲斐を感じる超危険人物かつ戦闘狂こそ、この桜という娘の本性に相違ない。その拳の威力はトレーラーサイズのベヒモスを簡単に吹き飛ばす荒れ狂う嵐のような猛威を振るうことも可能だ。
異世界での数々の冒険を経て他の冒険者から付けられた桜の二つ名は『魔物の天敵』『Sランクの魔物キラー』『魔物の討伐コレクションをする女』『他者の追随を許さない戦闘狂』と様々であったが、いずれも物騒なものばかりが並んでいる。
「桜、体調はどうだ?」
「お兄様、目が覚めたら、絶好調ですわ」
「すまないが、俺は限界だ。任せていいか?」
「ええ、どうぞお任せください。言われなくとも残ったアークデーモンは全て私が殴り飛ばす予定でしたから」
ここまで前に立って剣を振り回していた聡史が後方に下がって、代わって桜が前に出てくる。
「私に殴られたいのは、どなたかしら? 死にたい順に掛かってくるとよろしいですわ」
桜の目が本格的な戦いを前にスッと細められる。戦闘狂の血が騒ぐのを抑え込んで、波紋一つない静かな湖面のごとき境地まで精神を集中しているよう。
桜の挑発を理解したのかどうかはわからないが、残った3体のアークデーモンが同時に襲い掛かる。
「お兄様同様、あなた方も甘いですよ。相手がどのように動くのか、まるっきり予想ができていませんね」
その言葉を残して桜の体がその場から消え失せる。いや消えたかに見えたのは、あまりに速い動きに目が付いていかなかったことが原因。桜の姿を見失ったアークデーモンは一瞬棒立ちの状態。
そして、その背後から…
ドカーン
パンチがぶつかる衝撃はさながら千ポンド爆弾が爆発したかのようで、その衝撃に耐えきれずにアークデーモンの体が四方に飛び散っていく。五体が文字通りバラバラとなった模様。そして爆発音は続けざまにあと2回発生する。その度にアークデーモンの体は、粉々になって弾けて飛んでいった。
「生温い相手でしたわ」
「桜、ご苦労だった。相変わらずのワンパン振りだな」
「この程度の敵など一撃で十分ですの」
不調のところにもってきて、アークデーモン相手に大立ち回りをした聡史はまだ肩で息をしている。対して桜は息ひとつ乱す様子もない。具体的な数値はまだ明かせないが、レベルにおいて、兄よりも妹のほうが倍近く高いのだ。
この妹、真に恐るべし!
「お兄様、もうちょっと休んだら、家に帰りましょう」
「そうだな。立てるようになるまであと5分だけ待ってくれ」
こうして誰もいない高校の屋上で、異世界から戻った兄妹とその世界の異形の者たちとの戦いは、静かに幕を閉じるのだった。
◇◇◇◇◇
兄妹がアークデーモンを片付け終わった頃、そんな出来事など知らぬままに政府並びに自衛隊の面々は血眼になってダンジョンの捜索を開始していた。その捜索態勢は完全武装した自衛隊員が1万人以上動員されている大規模な体制。
その中心地にいる聡史と桜の耳にはサイレンを鳴らして走行するパトカーの音が聞こえてくる。数台のパトカーが「危険なので外出を控えてください」と、スピーカーの音量を最大にして地域住民に呼び掛けている模様。
パトカーのサイレンに気を取られていると、暗がりをついて学校の正門を突き破って自衛隊の装甲車が続々と校庭に入ってくる様子が目に飛び込んでくる。周辺はすっかり夜半の時間帯であるが、二人の目はスキルによって夜間視力が確保されている。
「ずいぶん物々しい様子だな。一体何事が起きたんだろう?」
「私たちの戦いが嗅ぎ付けられるにはタイミングが早すぎますわ」
もちろんたった今異世界から帰還したばかりの兄妹には、この場で膨大な魔力が生じた一件など、まったく想像の埒外であった。だが、なんとなくこの場にいるのは不味いのではないかという予感が沸き起こる。
「今なら間に合うか?」
アイコンタクトで頷き合うと、二人は助走をつけて屋上のフェンスを飛び越える。そのまま地上5階から落下してしまうかと思わせて、スタっと着地を決める。桜は無駄に高い身体能力に物を言わせて空中で5回転2回捻りを加えている。高飛び込みの競技か何かと勘違いしているのではないだろうか?
そのまま兄妹は校舎の裏側へと走り抜けていく。学校の敷地と外を隔てる2メートルの塀をいとも簡単に飛び越えると、二人はそのまま夜陰に紛れて久方ぶりの我が家へと走り去るのだった。
◇◇◇◇◇
実家の玄関先に聡史と桜が立っている。当然夜の10時を回っているので、玄関にはカギが掛かっている。
ピンポーン
「はい、どなたですか?」
「俺だよ」
「詐欺なら、間に合っていますから」
どうやら変な方向に勘違いしている二人の母親の感情が一切こもらない返答が出迎える。このままでは埒が明かないので、桜が兄に助言する。
「お兄様、言い方に問題があります」
「そうだったか? あの、この家の息子と娘ですが」
「ですから、詐欺は間に合っています」
言い方を改めても、なおもインターホン越しの母親は詐欺だと思い込んでいるらしい。どこの世界にわざわざ家に押しかけてくるオレオレ詐欺の犯人がいるのだろうか? 二人の母親も大概な性格をしているよう。
こんな頼りない兄には任せておけぬとばかりに、今度は妹がインターホンに顔を近づける。
「お母様、桜が帰ってきましたので玄関を開けてくれますか?」
「えぇぇぇぇ! 本当に桜ちゃんなのぉぉぉぉ」
バタバタと足音を立てて玄関に近づいてくる人の気配がしてくる。そして、勢いよくドアが開くと、そこには信じられないものを見たという表情の母親が立っている。
「お母様、ただいま戻りましたわ」
「母さん、ただいま。なんだか俺と桜の扱いに差を感じるんだけど?」
「お兄様! 男は細かいことを気にしてはいけません」
妹の説得に対して聡史はまだ納得いかない表情をしているが、そんなことはお構いなく母親が捲し立てる。
「二人して連絡もしないでどこに行っていたのよ?」
「母さん、信じてもらえないだろうが、俺たち二人は異世界に召喚されていた。連絡をしようにも、電話もなかったんだよ」
「適当なウソを言うんじゃありません。ちゃんと事情を説明しなさい」
母親は、聡史の申し開きを一向に取り合おうとはしない。むしろ疑いの目を向けている。だが…
「お母様、本当ですわ。私たちは、異世界に召喚されていたんですの」
「あら、そうなの… まあ桜ちゃんが言うんだったら、きっと本当のお話なのね」
「俺って信用なさすぎっ」
桜が聡史の肩を一つポンと叩く手の平には「お兄様、ドンマイですよ!」の気持ちが込められている。桜の兄を思う気持ちゆえの行動なのだが、この行為自体が聡史の心を微妙に抉っていく。
だがこの空気を母親は敏感に察した。このままでは息子がスネてしまうのではないかと危惧する母親ならではの勘が働いたよう。そこで息子を納得させるために、心からの言葉を送ろうと決心する。
もうそれは長年二人を見てきた親として最上級の聡史を慰める言葉のつもりであった。
「も、もちろん聡史の言うこともちゃんと信用しているわ。ホントウデスヨ!」
「母さん、完全に棒読みだぞ」
しまった、息子にあっさりと読まれた… そんな感情アリアリの様子が母親の表情から一目瞭然。この状況を取り繕うために、意を決した表情の母が告げる。
「冷静に考えてみれば、あなたたち二人だったら異世界くらい行って当たり前でしょう。むしろ行かないほうが不自然じゃないかしら」
「我が子を、どういう目で見ているんだぁぁぁ」
どうやら母親の苦し紛れの思いは聡史には伝わらなかったようだ。
「まあいいから、早く中に入りなさい。桜ちゃんはお腹が空いているのかしら?」
「お母様、もちろんペコペコです」
「それじゃあ、今から美味しいご飯を用意するわ」
どうやら母親は自分の気持ちを中々理解してくれない聡史は放置して、ターゲットを桜ひとりに絞ったよう。
「あのぉ… 俺の立場は?」
「さあさあ、二人が帰ってきたお祝いに、腕によりを掛けるわよ」
「お母様、とっても嬉しいです」
「俺の立場は?」
こうして母親に何となく誤魔化されて、ごくごく自然に双子は帰宅を果たす。
聡史だけが、なんだか胸にモヤモヤした気分を残すのだった。
◇◇◇◇◇
聡史と桜が家に入ると、居間にはすっかり出来上がった彼らの父親が、お湯割りの焼酎を口にしている最中だった。
「なんだ、親父は帰っていたのか。久しぶりだな」
「お父様、娘の桜が帰ってまいりました」
「おや? さすがに呑み過ぎたようだ。家出したバカ息子と目に入れても痛くない我が娘が立っているぞ。しかもどういうわけだか、聡史と桜が二人ずついるじゃないか。俺もずいぶん酔いが回っているようだな」
呂律が怪しい口調で父親は独り言のように喋っている。子供たちが姿を消してから此の方酒量が目に見えて増えており、本日もすでに目のピントがはっきりしないぐらいのアルコールを摂取しているよう。この調子ではまともに話もできないのはひと目見ただけでも明らか。
聡史は父親のセリフにいくばくかの理不尽な格差を感じながらも、酔っぱらった相手に対して頭を下げる。こういうことは気持ちが大切だと、日頃から実践している結構律儀な性格なのだ。
「親父、心配掛けて悪かったな。俺たちはこうして無事に戻ってきたからどうか安心してくれ。それよりも今日は呑み過ぎだろう。母さんに迷惑をかけないうちに休んだらどうだ?」
「そうだなぁ… 夢にまで見た子供たちの無事な姿をこうして見られたから、満更酒は害になるばかりではないな。さて明日も仕事だしもう寝るか」
父親は席を立とうとするが、かなりの酩酊状態で足が縺れて一人では立ち上がれない。
「しょうがない親父だな。肩を貸すからしっかり立ち上がるんだぞ」
「おう、すまないな。ついでにトイレに連れて行ってくれ」
「要介護老人か」
こうして聡史は足取りの覚束ない父親を何とか寝かし付けると居間へと戻ってくる。そうこうしているうちに、キッチンで料理をしていた母親の呼ぶ声が聞こえてくる。
「聡史、桜ちゃん、もうすぐご飯ができるわよ」
「母さん、こんな夜遅くに何を用意してくれたんだ?」
「ちょうどお肉が買ってあったから、二人が大好物のスキ焼よ!」
「お母様はさすがです。帰ってきた日にまさかのスキ焼なんて、運命の巡り合わせのような幸運を感じます」
この素直に感情を表現する態度こそが桜が両親から信頼されている原動力だ。父親母親に可愛がられるコツを本能的に分かっているに違いない。
「さあ、お兄様、晩ご飯をいただきましょう」
そう言い残すと、桜の姿は一瞬で聡史の前から消え失せる。
呆れた表情でで聡史がキッチンに入っていくと、テーブルに瞬間移動したかの如く自分のいつもの席に桜がごく自然に座っている。すでに彼女の肩まで伸びている黒髪は後ろで束ねられて、今か今かと料理が運ばれてくるのを待っている模様。
「さあさあ、二人ともお腹いっぱい食べてね」
テーブルの中央にグツグツ煮えたスキ焼の鍋が置かれる。肉や野菜がちょうどいい塩梅に火が通り、まさに食べ頃である。
「夢にまで見たお母様の手作りご飯です。それではいただきま~す」
桜が鍋に箸を伸ばす。その箸先には3切れの肉がひと息に挟まれている。そのまま溶き卵にくぐらせると、熱々の肉を一気に頬張る。その食べ方は黒髪の美少女と呼ぶには不釣り合いなほど豪快で男らしい。
「これこそが、久しぶりの我が家の味です。お母様、ご飯を大盛でお願いしますわ」
「桜ちゃんがいっぱい食べてくれるから、お母さんも作った甲斐があるのよ」
母親はドンブリに山盛りのご飯を盛り付けると桜へスッと差し出す。その表情は、久しぶりに見た我が子の変わらぬ姿に嬉しさを隠せない様子だ。それにしても、重量感のある大盛ご飯である。優に茶碗3~4杯分はあるだろう。
「桜、俺にも肉を食べさせろ」
「お兄様、この際立場をはっきりさせていただきますが、肉の奪い合いは戦争です。食べたいのでしたら、私から実力で奪ってくださいませ」
「よし、その戦争、受けて立ってやろうじゃないか」
こうして聡史が肉を巡る戦いへと参戦するが、戦況は圧倒的な不利。そもそもが食べるペースが違い過ぎる。聡史が一口食べる間に桜は3回鍋に箸を伸ばすのだ。
こうして肉を巡る戦いに惨敗を喫した聡史は、野菜やシラタキで腹を満たすしか残された道はなかった。
そして、鍋がスッカラカンになった時…
「ふう、お腹がいっぱいです。やっぱりお母様の料理は最高… おやおや、なんで私の目の前でお兄様がしょげ返っているのでしょうか?」
「肉がぁぁ! 肉が二切れしか食べられなかったんだよぉぉぉ」
「お兄様! 二切れも口に入ったなんて腕を上げましたね。以前ならば一切れも食べられなかったのに」
「俺の分の肉まで食べておいてずいぶんな言い草だな」
聡史が涙目で惨敗を喫した戦いの結果に抗議している。だが馬耳東風とでも言わんばかりに、桜はそのようないわれのない抗議はスルーしているのだった。
「桜ちゃんの食欲が変わらなくて、お母さんはとっても安心したわ」
「母さん、それは誤解だ。むしろ以前よりもパワーアップしているぞ」
レベルが上昇すると当然運動量が増える。消費するカロリーが必然的に増えるので、食欲は益々亢進するのが当然といえば当然。桜の食欲は異世界に行く前と比較して軽く2倍と見積もってもよさそう。
もちろん当の本人である桜は、母親と兄の遣り取りなどどこ吹く風で聞こえないフリをしている。腹に収めてしまえばこちらのものという真っ黒な表情が、面の皮一枚捲ると出てきそうな態度。食べ物が懸ると肉親の情などどこ吹く風で、はるか彼方に捨て去るのが桜流の生き方でも言いたげな雰囲気を醸し出している。
こうしてスキ焼のどうでもいい反省会が終わると母親が話を切り出す。
「それはそうと二人が行った異世界というのはどんな場所だったのかしら? お母さん、ちょっと興味があるわ」
「お母様、どうせでしたらデザートでも食べながら和やかにお話するのがよろしいと思います」
要約すると「早くデザートを食べさせろ」という意味で間違っていないはず。スキ焼戦争で兄を圧倒した食欲怪獣なら、次に求めるのは甘いデザートと相場は決まっている。
「今夜は蒸すからアイスでいいかしら? 買い置きが冷蔵庫に入っているわ」
「私が取ってきます」
桜がこうして自分から申し出る場合には必ず裏がある。案の定アイスを4つ持ってきており、自分だけはしっかり2個食べるつもりのよう。
満足げにアイスのフタを開ける桜の様子に呆れながら、聡史が異世界に関する話を始める。
「俺たちが召喚された世界というのは剣と魔法が飛び交う戦乱に満ち溢れた世界だった。毎日が大変だったよ」
「お兄様、今の発言は大間違いです。毎日ワクワクするスペクタクルに満ちた冒険の日々でした」
「ワクワクで済むはずないだろう。日々命懸けで戦っていたのを忘れたのか?」
「お兄様、その捉え方自体が間違いなのです。戦いこそが人生最大のアトラクション。ネズミの王国のようなテーマパークです。入園料を払ってでも、もう一度出掛けてみたいですわ」
「入園料は、いくらなんだ?」
「基本無料ですが、時には自らの命を差し出さねばならない場合もありますね」
「それを命懸けと言うんだろうが」
一応の常識を心得ている兄と戦闘狂の妹の異世界に対する認識は、まったくの正反対。だが母親は二人の対立など華麗にスルーしつつ…
「まあ、異世界にも魔法なんて存在するのね」
「母さんが食いつくツボがわからねぇぇ」
魔法というフレーズに最も興味を惹かれている母親の態度につっこむ聡史。なんというか、こう、「そんな危ない場所からよく無事で帰ってきたわね。よよよ」といった温かい労いを期待していただけに、思いっきり肩透かしを食らった感だけが残る。だがそんな淡い聡史の思いはまるっと無視らしい。
「ほら、最近テレビでも魔法の話題とか取り上げられているじゃないの。お母さんも魔法で家事とか出来ないかしら?」
「うーん、そういう魔法もないわけじゃないけど、ある程度練習が必要だよ」
「そうなの… それじゃあ、面倒だからいいわ」
「あきらめ早やっ」
要は母親は家事の手抜きがしたいだけなのかもしれない。日本の若い世代の間に魔法という認識が普及しつつある現在でも、主婦一般の魔法に対する認識具合は大体このようなものであろう。
「聡史はどんな魔法が使えるのかしら?」
「炎を出したり、氷を飛ばしたりといった、簡単な魔法だったら使えるぞ」
「まあ、それは凄いのね。桜ちゃんはどうなの?」
「お母様、私に魔法など不要です。全ての敵をこの拳一つで倒してきました」
要約すると「魔法の術式などちまちま組み立てるのが面倒。直接殴り倒した方が圧倒的にお手軽」という意味であろう。美少女キャラの外見とは打って変わって、戦闘狂で脳筋の手が付けられない暴れん坊なのだ。
こうしてよもやま話をしているうちに、いつの間にか時間が過ぎていく。
「あら、もうこんな時間ね。疲れているでしょうから二人とも早く寝なさい」
こうして兄妹の帰還初日は、夜も更けていくのだった。
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