【影雄】

空川陽樹

第一部

私は特殊能力を持っていた。影を使役できる、というものだ。

これに気づいたのは、中学二年の夏だった。夏休みの宿題の気分転換で散歩に出かけたが、あまりの暑さにすぐに踵を返した。そのとき、影がにゅっと伸び、まだ動かしていないはずの右足の影が歩き出したように見えた。反射的に、「待て!」と頭の中で叫ぶ。ピタッと止まった後、その影は何事もなかったかのように私の足に張り付いた。

この時からたびたび影の暴走が起こったが、学年が変わる頃にはある程度自分の思うままに操れるようになっていた。

走る時には非常に便利である。日陰では自力で頑張るが、日向ではよく影に走ってもらった。そして勉強でも、苦手な数学と理科は影に任せた。このおかげで、高校生になっても文武両道など容易いことだった。

他にも、嬉しいことは自分で体験するが、辛いことは影に対応させた。そのため、私の精神状態は非常に落ち着き、誰に対しても優しく接することができるようになった。

もちろん、影を使役するには何かしらのリスクがあるはずだった。しかし、体の部位が無くなったり、日に弱くなったりといった、目に見える変化は何もなかったため、楽観視していた。そもそも、影は私の一部であったのだから、自由に使えるのだ、と。影が私を蝕んでいるとも知らずに。


あっという間に時は過ぎた。大学に入学が決まり、一人暮らしを始めて3日目、大学の入学式の日だった。影が私と入れ替わっていた。それは、カーテンの隙間から強い日が差す春の日だった。

以降、私はただ、本体に従うことしかできなかった。もちろん話すことはできないし、自由に黒い手足を動かすこともできない。すぐに誰かが気づくはずだと信じていた。しかし、高校までの友達とは違う大学に入ったこともあり、誰もが私と初対面だったのだ。そして、家でも独り。誰にも気づかれることなく1ヶ月が経過した。


その間、私も同様に、暑い日の中走らされ、勉強させられた。さらに、辛いことだけを体験させられた。たった1ヶ月だけだったが、心身共に疲弊し、病むには十分だった。今まで辛いことだけを経験させていた影は、きっとさらに病んでいるに違いない。そう思うと同時に、強い罪悪感に苛まれた。

しばらく影の動きを観察していると、それは確信へと変わった。彼の行動は、歪んだ思想を持っていることを示していたのだ。「ヒト 生きる意味」、「大量殺人」、「バイオテロ 方法」。彼の検索結果にそれは如実に表れていた。そして遂に、彼は実行に移すことを決めたようだった。

理数系を私の代わりに徹底的に学ばせていたこともあり、その方面には長けていたので着実に準備を進めていった。そして、完成させてしまったのだ。もちろん、私も黙って見ていたわけではない。いや、確かに文字通り、喋ることも自主的に動くこともできなかったが、なんとか抵抗を試み続けたのである。しかし、その甲斐虚しく、影が本体に干渉することはできなかった。




病原体を完成させた彼が眠りについた後、淡い豆電球を頼りに、精一杯の力で本体に入ろうと試みたが、彼の憎しみはあまりに強く、私の入り込む余地は無かった。

日差しが差し込み、彼が目覚める。私は遂に本体を取り戻すことができなかった。


彼は完成した病原体をそっと鞄にしまい、家を出る。雲ひとつない青空である。日差しが次第に強くなってくる。彼はテロのために地下鉄に向かう。私は狙いを定める。彼が毎日利用する駅までの道に、柵の低い川があるのだ。

次第に川の流れる音が近づいてくる。私は、力を振り絞って川に飛び込もうと黒い足を必死に動かす。もちろん、彼も抵抗するが、夏の日差しは、私を色濃く刻む。次の瞬間、私は走り出し、柵に手をかけ、勢いよく川へ飛び込む。

きっと、これでよかったのだ。自分の罪は自分で償うしかない。私は彼であり、彼もまた私なのだから。


目を開く。眩しい白に目を細める。そこは病院らしい。体を起こそうとするが、私は動くことができなかった。医者らしき人が、声をかける。

「大丈夫?自分が誰か分かる?」

「もちろん分かります。」

と、答えようとするが話せない。もしかして、と嫌な予感がした後、聞き慣れた自分の声が聞こえる。

「もちろん分かりますよ。」

と彼が答える。彼はすらすらと名前と住所を告げる。

その後、先生は「すぐに保護者に電話をするから待ってて」と彼に伝えると部屋を出ていった。

なぜ助かったのか。不思議に思い、考えを巡らせていると、見知らぬ男が入ってきた。その男は、私を助けてくれたことを伝え、本体と少し会話を交わす。その男は、勇敢にも、いや、愚かにも川に飛び込んで彼を助けてしまったらしい。最後に、「自殺はダメだよ。」と告げ、その男は、部屋を出ていった。

両親とは、離れた所に住んでいるが、これを知ればきっとすぐに来てくれる。きっとすぐに私の変化に気づいてくれるはずだ。自殺は失敗したが、逆に良い方向へと事態が急変したことに安堵する。


ー憎しみは、彼を蝕み、ゾンビと化していた。史上最悪の不屈の精神である。ー


彼は、人目を盗み、窓から脱走し、家に向かう。晴れていた空には厚い雲がかかっている。17時を知らせるチャイムが街に流れる。儚い音が耳に届く。もはや、私は存在するのがやっとだった。

家からはそう遠くなかった病院だったようで、すぐに家に着いた彼は、予備の病原体を素早く持ち出し、駅へ走る。空の雲はより一層分厚くなり、雷の音が遠くで響く。その光で一瞬だけ悲しげに映される私は、存在していないに等しい。


ポツポツと降り出した雨は、急激に勢いを強め、みんなが屋根の下へと走り出す。到着した駅は、人で溢れている。不幸にも、電車はまだ運行していた。


彼は、人混みの中へ溶け込んでいく。影のように、そっと。

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