第6話 誤解
「アステリオス様、そこ書き損じてますよ」
「え…、…?」
オルフェウスの声に、僕はようやく意識が引き戻される。
一度、二度と瞬いてから視線を向ければ、単純なスペルミスが目に止まった。
手を止めペンを置くと、思わず溜息が溢れる。
「なんだよ、愛しい婚約者が入ってきたのによ。朝のテンションはどこやったんだよ」
からかいと心配を半々にしたアドニスが私の背中を叩く。
何時もならすぐにやり返すのだけど、今日は反論する元気もなかった。
「え、マジで?どうしたんだよ、いつもみてぇになんか言えよ」
「なんでもないよ…」
心配を通り越して不気味なものを見るような視線を注いでくるアドニスに、私は力無く呟いた。
「…、…来たみたいだよ。ユーノ様と例の人」
ぼそり、と呟いたゼファの声に誘われて、全員が扉へと視線を向ける。
まだそこには、人影さえもない。
魔術師特有の直感力というもので、人よりも気配に敏いのだ。
特にゼファの直感は、未来視なんじゃないかというぐらい正確に物事を言い当ててくることがある。
程なくして扉がノックされると、姿を現したのはゼファが予告した通りの二人組だった。
皮のブーツで底上げされたスラリとしたユーノの身体、小さくて形の良い頭。大きな瞳は相変わらず猫を思わせるけれど、子猫から美猫に変わった印象だ。
「今日から生徒会に加わることになりました、ユーノ・アルカソックで御座います。皆様どうぞご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます」
この国に女騎士がいるなら、ユーノみたいなのかも知れない。
完璧なカーテシーをして見せるユーノはたおやかで、誰よりも美しかった。
私が見惚れている間にユーノが膝を伸ばして立つと、彼女の背後から小さな甘い声が転がり出てくる。
「ユーノちゃん…、…」
「大丈夫よ、きらら。ほら、挨拶してごらん」
不安そうな声に答えて振り返るユーノは、見下ろした先にいる少女に眼差しを向け、優しく微笑んでだ。
────女神…
頭の中の声に、私は心の中で頷いた。
ユーノの瞳には慈愛が溢れ、まさに女神そのものだった。
私にも同じ視線を注いでくれないだろうか。そんなことを考えていたら、彼女の後ろから小柄な少女が前へと踏み出した。
「篠宮きららです…知らない場所で、分からないことも多いんですけど、頑張ります。どうぞ宜しくお願い致します!」
華奢な両手を組み合わせ、アーモンド型の榛色の瞳が緊張を伝えてくるように、瞬く。
まだ貴族らしい挨拶が苦手なのだろう、勢いよく下げられる頭に合わせて、肩で切り揃えられた淡い髪が揺れた。
「ふふっ…」
私は思わず、笑ってしまった。
最初にユーノに会った時と彼女の勢いが、重なったのだ。
まるでユーノの妹のようだと思ってしまったのは、篠宮きららがアルカソック家の預かりとなっているからかもしれない。
皇家に近く、次期皇妃となるユーノと国賓であるマレビトが親しくなるのは喜ばしくもあるし、何より、監視にもなる。
「…うぅ」
私が懐かしさに浸っていると、小さく呻く声が聞こえてきた。
思わず驚いて視線を向ければ、篠宮きららが頬を真っ赤にして、両手で押さえていた。
何が何だか分からないでいると、ツンと肘で身体をつつかれる。
見上げると、オルフェウスの秀麗な眉が僅かに歪んでいた。
「アステリオス様、流石に笑うのはどうかと思いますよ?」
ひそひそと囁かれる言葉に、誤解させてしまったことに気付く。
同時に、私を睨み付けてくるユーノの険しい視線に動揺した私は、ガタンッと椅子を蹴倒す勢いで立ち上がってしまった。
「いや、違うんだ。馬鹿にした訳じゃなくてだな、ユーノの昔の姿に似てるな…と思って」
誰に言い訳しているのやら、徐々に言葉尻が細くなっていくと私の言葉に覆い被さるように、きららの大きな声が響いた。
「違うんです!!私、興奮しちゃっただけなんです!推しカプに会えて…いえ、えと、とにかく憧れていた方々に出逢えて、嬉しくて!」
────まって、あの子推しカプって言ったよね。もしかして、私と同じなのかな?
前に突き出した手をぶんぶん左右に振り回すきららの姿は、どう見ても混乱していた。
同時に、私も脳内の声に混乱をきたした。
『私の頭の中にいる声も、マレビトということだろうか』
疑問に答えが出る前に、咳払いが一つ響いた。
「アステリオス様、ひとまずお茶にいたしましょう。私たちも自己紹介をしたいですし、マレビトのきらら様も混乱なさっていますしね」
人の心を優しく撫でるオルフェウスの声が、混乱を納めていく。
一番最初にその言葉に乗ったのは、アドニスだった。
「それもそうだな!俺もきららの話、聞きてぇしよ。ゼファもイカロスも気になってるだろ?」
闊達な笑顔を野性的な顔立ちに乗せるアドニスに、水を向けられたゼファとイカロスの二人も顔を見合わせる。
「ん…、どんな所から来たのか、聞かせて」
「僕も、後学のために是非」
二人が頷くと、ユーノは生徒会室にある来客用のソファに座るように、きららを促した。
小柄なきららは、大きなソファに恐る恐る腰を掛ける。
「ふぁぁ、ふかふか…」
感動と喜びを隠さずに、きららは緞子張りのソファの座面を両手で押していた。
ユーノがそんなきららの頭を優しく撫でると、澄んだ瞳を上品な猫のように細めて微笑んだ。
「わたくし、お茶菓子とお茶を頼んで参ります。少々お待ち下さい」
颯爽と踵を返す彼女に合わせて、蝶々の後翅のように翻される膝丈のスカート。
声を掛ける前に外へと出ていった彼女を追うように、私は勢い良く立ち上がると踏み出した。
「私も行ってくる」
それだけ言い残し、私は彼女を追っていった。
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