第19話

 僕は理科室の暗幕を開けて、その惨状を見た。あの暗さではわかりづらかったけど室内は予想以上に多くのガラス片が散乱していた。


「これは……」


 僕はその光景に絶望した。教師にどのような言い訳をすればいいのかわからない。


「どうしてこんなことに?」


 小金井はじっと床を見つめていた。


「ごめん」


 僕は教室後方のロッカーから箒と塵取りを出してきてガラスの残骸を片付けた。


 細かいガラスが日の光に輝いて眩しい。


「ああ、そうだ」


 ガラス片を集め終えた僕は忘れないうちに彼女にヘアゴムを差し出した。


 小金井は驚いていた。


「どうして君が?」


「廊下の隅に落ちてたんだ」


 小金井は小さく「ありがとう」言った。


 小金井は乱れた髪を束ねて、後ろで一つに結び始める。


「探したんだけど、見つからなくてどうしようかって思ってた」


「いつも付けてるけど、大事なもの?」


 小金井は頷く。


「昔、お父さんがくれたものなの。事故の時もこれだけはなくさなかった。だから、私にとってお守りみたいなもの」


 小金井はヘアゴムのガラス玉に触れる。


「ごめん。そんな大事なものならもっと早くに届けにくるべきだった」


「ううん、ありがとう」


 小金井は深く頭を下げた。


 僕はガラス片をビニール袋に入れて、しっかりと口を閉じた。


 体育館裏の今は使われない焼却炉の横にゴミ捨て場がある。そこに置いておけばバレないだろうかと思案する。


 髪の毛を整えた小金井は落ち着きを取り戻したようだった。少し目の下が赤いけど、それ以外はいつも通りに見える。


 僕は机の上にあるスツールを二つ床に下ろしてその一つに座った。小金井にも座るように勧めた。


「それで事情を聞いてもいい?」


 小金井は俯いたまま押し黙っていた。


「白いモノって何?」


 僕は問い直した。


 ようやく彼女は口を開いた。


「笑わないで」


 僕は黙って頷いた。


「私、ずっと前から変なものが見えるの。他の人には見えないのに私だけ……あの日からずっと」


「あの日?」


 小金井は頷く。


「私が事故で海に投げ出された日から」


 小金井は続ける。


「その日から白いモノが見えるようになった。それは真っ白で丸い。目も鼻もなくて。ただ口の中だけが真っ赤でヒレみたいな足が四本ある生き物」


 その特徴を持ったものを僕は聞いたことがあった。


「それってシラズ蛙?」


「何、それ?」


「知らないの?」


 彼女は頷く。


 そこでようやく僕は彼女が最近引っ越してきたことを思い出した。


 シラズ蛙はこの町の民間伝承で今となっては聞く機会もほとんどない。外から来た人が知らないのは当然だった。


「シラズ蛙って?」


 小金井の黒い瞳がこちらを捉えている。僕は思わず視線を逸らした。


「シラズ蛙はこの町に伝わる民間伝承だよ。小金井さんの話しているものと似てる気がして……聞いた話だけど、鳴き声を上げるっていうのも。確かシラズ蛙が鳴き声を上げると人が死ぬって」


 小金井は膝の上でぎゅっ拳を握りしめる。


「それ本当?」


 僕は強く頷く。


「そのシラズ蛙について詳しく教えて」


「僕もたいして知らないんだけど、簡単でいいなら」


 彼女は「ありがとう」と呟いた。


 僕は改めて小金井にシラズ蛙についての話をした。僕が話したのはこの前、泉に聞いた夏に蛙が鳴くという話とそもそもシラズ蛙は精神病患者の幻覚じゃないかということの二点だった。


 精神病患者の話をした時は小金井もさすがに顔をしかめた。


「そもそも、話がいくつもあるから誰も知らないっていう意味で『不知』、つまり『知らず』からきているとも言われているくらいだから、確かなことはわからないけど」


「そうなのね」


 フォローのために話したのだけど、逆に彼女を落胆させてしまったかもしれない。シラズ蛙については僕も専門外だった。もう少し調べておけばよかったと少し後悔する。


 廊下で何かが落ちるような音がして、僕は近くに置いてあったゴミ袋を見た。


「これ、捨てに行かないと、続きは歩きながらでもいい?」


 小金井は頷く。僕らはスツールを片付け、二人で理科室を後にした。


 幸い廊下に人の姿はなかった。誰にも見つからないように僕らは慎重に昇降口へ向かった。


「小金井さんの話も聞かせてよ」


「私?」


「うん、小金井さんが見ているものがどういうものなのか僕も知りたいから」


 不意に彼女は視線を宙に彷徨わせた。


「そう、よね。話さないと……」


 彼女は口籠る。


「ごめん。嫌なら無理に話さなくてもいいから」


 先ほどの取り乱し様を考えれば、野暮な質問だったかもしれない。


 しかし、小金井は頭を振る。


「違うの。誰かに話すことに慣れてなくて」


 小金井はこちらを一瞥して話し始める。


「さっきも言ったけどアレが見えるようになったのは事故の後すぐだった。事故の後、私はしばらく病院に入院していたの。そこで初めて人の肩に白いモノを見た。最初は何だかわからなかったけど、ただそれが異常なものだっていうのはわかった。それはまるで人に取り憑いているみたいだった。大きさは人の頭くらいあって、目も鼻もないのに口だけが赤々として不気味で。その口が日毎に大きく開いていくの。それで猫でも丸呑みにできそうなほど大きく口が開いたときに気持ちの悪い鳴き声を上げる。そうなると取り憑かれている人が死んでしまう」


 小金井の話を聞くと彼女が見るものは生き物というよりは死神や心霊の類に思える。


「鳴き声で死ぬってことなの?」


「いえ、違うと思う。あれは合図みたいなものなのかもしれない。だから、死因も病気だったり、事故だったりいろいろで」


 その白いモノが何なのかはやはりわからない。ただ、鳴き声を上げると人が死ぬという泉の話と合致しているからシラズ蛙なのかもしれない。


「でも、すごいね。その白いモノ? を見れば人が死ぬ時期が分かるってこと? もしかしたら人を死なない様にすることだって──」


「できない」


 小金井は立ち止まって言った。僕も立ち止まって彼女を見た。


「そんなことできるなら、とっくにやってる」


 小金井は床を見つめていた。


 僕は考えなしに発言したことをひどく後悔した。


「ごめん」


 僕が謝ると彼女は気まずそうに下を向いた。


「私こそ、ごめんなさい。でも、無理なの。誰も助からなかったから、何度も試してはみた。でも、駄目だった。だから、私は……」


 小金井はその続きを言葉にはしなかった。彼女が何を言おうとしたのかは想像するより他になかった。


「見えないようにできたらどんなにいいかって思う。それでね。私、あの白いモノはこの海のシーラカンスと関係があるって思って」


「どうして?」


 シーラカンスとの繋がりがわからなかった。それはシーラカンスもこの町の民間伝承みたいなものだけど、シラズ蛙との関連性なんて聞いたこともない。


 臨死体験をした人の身には時折何か特別なことが起こるという話を聞いたことがある。性格が変わったとか妙なものが見えるようになったとか、原因があるとすればそっちではないのかと思えた。


「事故の日、海の中で白いモノを見た気がして。曖昧だけど、それぐらいしか手掛かりがなかったから。それで、シーラカンスを調べれば何かわかると思ったの」


 廊下に彼女の声がわずかに響いた。教室やグラウンドでは生徒が騒いでいるはずなのにその喧騒はあまりにも遠かった。


 昇降口まで来ると何人かの生徒の姿があった。僕はゴミ袋を後ろ手に持ってできるだけ人に見られないように努めた。何とか教師には見つからずに済みそうだと思った矢先、前方に泉の姿を見た。


「あれ?」


 僕に気づいた泉がこちらに駆け寄ってくる。隣を見ると小金井の姿はいつの間にかなかった。


「ハル、落とし物は届けられたの?」


 泉は若干にやけて言った。


「うん、まあなんとか」


 僕がゴミ袋を後ろに隠すと泉はそれをじっと見つめる。


「さっき誰かと一緒にいなかった?」


 小金井と泉は何故か仲が悪い。だから僕は適当に誤魔化す。


「いや、一人だよ」


「そう?」


 泉は眉間に皺を寄せて疑いの目を向けてくる。僕はそれを避けるために話題を変える。


「泉はこんなところで何してるのさ?」


「私は、学食からの帰り」


「近江は?」


「今日は弁当だってさ」


 泉は口を尖らせて「つまらないな」と言う。それからしばらく俯いて黙っていた。


 その時ちょうど予鈴が鳴った。


「そろそろ戻ろうかな。ハルも戻るでしょ?」


「ああ、僕は、これ捨てに行かないと」


「そうなの?」


 泉は眉を顰めていたがそれ以上言及はしてこなかった。


「わかった。じゃあ、またね」


 僕らが来た方向に泉は歩き始める。


「ちょっ」


 僕は思わず声をかけていた。そちらには小金井がいるかもしれないと思った。嘘をついた手前小金井と泉が接触するのは避けたかった。しかし、何を言えば止められるのかも思いつかない。


「何?」


「いや……」


「何もないなら行くから」


 泉はなんでもないようにそのまま階段を登り始めた。


 僕も階段のほうを覗き込んだが、小金井の姿はどこにもなかった。


 泉はすでに上階へと消えていた。


「小金井さん?」


 呼んでも返事はなかった。


 辺りを見回すと廊下の隅から脚が生えているのに気づいた。


 小金井はちょうど柱がある廊下の隅で蹲っていた。


「よかった。そこにいたんだ」


 僕の声に小金井は返事をしなかった。ただ、彼女の肩はわずかに震えていた。


「小金井さん?」


 名前を呼ぶとようやく彼女はこちらを向く。


「泉はもう行ったよ」


 小金井はゆっくりと立ち上がった。


「どうかした?」


「何も、ない」


 小金井はそう言うと一人先に歩き出す。


 僕は黙ってその後を追った。


 明らかに様子がおかしかった。小金井はまた何かに怯えているように見える。


 それから僕らは昇降口で靴を履き替えて、今は使われていない焼却炉の前まで来た。焼却炉の錆びた煙突が空に伸びている。そのすぐ横にゴミ捨て場があり、切れた蛍光灯や使い終わったペンキか何かの一斗缶が置かれていた。そこにガラス片の入ったゴミ袋を置いた。


 僕が振り返ると小金井は空を見ていた。


「何があったの?」


 小金井は答えない。


 小金井の様子がおかしくなったのはさっき泉と鉢合わせてからだった。


 小金井と泉の関係が何故険悪なのかずっと疑問だった。小金井が人によって態度を変える性格とは思えない。それなのに泉にだけはやけに冷たく接しているように見える。


「ヒバリが鳴いてる」


 小金井が空を飛んでいる鳥を見ていた。


「羨ましい」


 何に対しての言葉だったのかはわからないけど、小金井は小さくそう言った。


 小金井はこちらに視線を移す。その時、風が吹いて、彼女は目を細めた。


「泉さんの肩にも見えるの」


 彼女は冷たくけれどはっきりとした声で言った。


「それって──」


「前からね。泉さんの肩にアレが見える」 


 僕はその言葉を頭の中で何度も反芻する。思考が巡ると同時にまた別の思考が流れ込んできてうまく整理がつかなかった。


「ごめん。つまり、あれ?」


「言葉通り」


 小金井は目を細めたまま視線を校舎の方にやった。


「泉さんはもうすぐ死ぬ」


 小金井の言葉と同時に授業開始の鐘の音が鳴った。


 昼休みの喧騒も鳥の鳴き声すら聞こえなかった。ただ、その鐘の音と小金井の声だけが僕の頭に響いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る